2018年02月21日

前の東京オリンピックの記念品

今日は父の誕生日だ。生きていれば米寿になったはずだ。

1964年オリンピック東京大会。
あの時のオリンピックは、戦後の日本の復興ぶりを世界にアピールするという大きな意義があり、落ちぶれた日本のイメージを覆し、再び大国の列に加わろうという「宣言」だった。
多分、国民の多くが成功を願ったものだったろう。
あの時、国民皆が明るい未来を思い描いていた。
政府は発展の妨げになりそうなものを徹底排除したし、真面目な日本人は多くのジャンルで世界一を達成させる努力をした。
その点は「大東亜共栄圏」なるものへの妄信で地獄へ突き進んだ一途な気質と全く変わっていない様子なのだが、前を向く為に必要なこととして、多くの国民は納得していたのだろう。

この頃、世界的に見れば東西冷戦構造はより深刻になり、それは舞台を宇宙にまで広げていたし、隣国の半島の戦争は休戦はしたものの、日本の一般人には情報は隠されていた。
アメリカのベトナムへの軍事介入は日々強まり、後のベトナム戦争の導火線に、すでに火は入っていた。
世界中でクーデターが起こっていたし、米ケネディ大統領はオリンピックの前年に暗殺されている。

当時、自分は浅草に住んでいたけれど、幼かったのでオリンピックに向けての街の変化はほとんど覚えていない。
通りから、いかがわしい看板やポスターが減って、裏通りからは怪しい店が退いたぐらいだろうか。

あとできいた事だが、ホームレスや日雇い労務者に対する退去命令も厳しかったようだ。
「体裁をあわてて整えると、後が大変だ。大空襲の後始末で学んだはずなのに…」
そんな話も聞いたことがあった。

父は「記念だから」と、このオリンピックのグッズをいくつか購入していた。
そういえば父のこの「記念だから」感覚は、たびたびちょっと「?」なセンスの土産品となっていた。
「記念」の重要度は、当時の僕にはわからなかったし、今でも物そのものに特別意味は感じない。
ただ、「何を思ってこれを買ったのか」に思いを馳せることで、亡き父の面影を読み取る素材となっている。
そういう意味での「記念品」なのだ。

どういう「記念」を持つかはひとそれぞれだ。
僕は目が悪いのでよく写真を撮る。肉眼では総ボケの世界を、手元で確認できるからだ。
だから自分が写っている必要は全く感じない。
もともと自分からは自分の姿は見えないのだし、その時に見ていた情景と、接していた人がいることが思い出の道しるべなのだ。これも自分にとってのひとつの「記念」のかたちだろう。

さて、オリンピックの「記念品」
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「オリンピックファンファーレ」「入場行進曲」「君が代」を収録した7インチレコード。
当時は「東京オリンピック」ではなく「オリンピック東京大会」の呼称が一般的だったようだ。
スポーツ競技会らしくてこのほうが好ましい。
それからコイン。ケースはプラスチック製ながら、一枚の百円玉には不釣り合いな豪華ケース^^
写真は撮ってないが、同じ仕様のケース入りの千円硬貨もある。

オリンピックは事実上、政治宣伝の意味合いも持つ。
残念ながらいつでも歴史的にそんなものだ。
今やっている平昌オリンピックなんて、あからさまに駆け引きの道具と化している。
また、産業界にとっては経済効果が気になる所。
2020年のオリンピックを通して、日本は何を宣伝するのだろう。
現代は国民が一丸となって開催を歓迎する時代ではない以上、各業界、意義を今からしっかりまとめてとりくまないと、やっつけ仕事のイベントになってしまいそうだぞ。
そういう意味で、今こそ「ガンバレ日本」だと思う。

posted by あひる★ぼんび at 23:35| Comment(0) | 日記

2018年02月05日

プライと「白鳥の歌」

自分にとっての初めて生で聴いたプライの歌が「白鳥の歌」だった。1973年の来日公演。
この時のコンサートは後にNHKでも放映されたが、テレビと生とでは声が全く違い驚いたのを覚えている。
プライは決して「大きな声」の歌手ではないと思った(生意気にも当時自分はすでに何人もの外来歌手のコンサートを聴いていた)が、深く豊かにホールじゅうに響いていた。
そして、最後に聴いたのも「白鳥の歌」。1997年シューベルティアーデin東京の最終日だった。

どんな時も、彼の歌唱は、ピアノの響きと溶け合う部分と突き抜ける部分の対比が絶妙だった。
再弱音では微妙な息遣いとピアノの残響が見事にシンクロする。そして、ロングトーンのコントロールの見事さに驚く。語にこめる感情の豊かさと丁寧さは、ディースカウ以上だと思えた。
ただ、時としてリズムのとり方の癖がピアノとずれて、外れているように聴こえることがあった。
さらに、おそらくプライは「音程」そのものではなく、楽曲の「響き」の中からシンクロさせるべき音を選んでいるようだ。
美しい響きを得るための方法だったのかもしれないが、低くとってしまうと全体の音程が下がって聴こえてしまう(この件は自伝でもヴンダーリヒとの会話に出てくる)。
また、複雑な周波数をもつ彼の声質は、聴く側の聴覚神経の個人差で感じ方の変化が大きいようである。
プライに対する評価が常に分かれがちだったのは、そういう人間の機能上の差異も大きかったのではないかと思う。

プライの「白鳥の歌」のディスクは数種類がある。
*1962年頃 DECCA  ヴァルター・クリーン
*1964年 ORFEO(ザルツブルクライヴ) ジェラルド・ムーア
*1971年 PHILIPS ジェラルド・ムーア
*1978年 DG(ホーエネムスライヴ)  レオナード・ホカンソン
*1984、85年 DENON フィリップ・ビアンコーニ
*1986年 Unitel (映像作品) レオナード・ホカンソン
この他、1997年の来日公演の非公式盤があるが、NHKによる編集修正後のもの(「鳩の便り」の失敗部分を取り直している)なので、明らかに放送録画のダビング音声だろう。
個人的な感想としては、60年代の2枚が圧倒的にすぐれていると思う。
あとのものは少し疲れ気味に聴こえたり、有名な映像作品も音だけ聴くと色々問題があったり^^;
とにかく難しい曲集なのだろう。なにしろリートの怪物シューベルトの「最終形態」なのだから。

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プライは60年代には曲順の変更、そして70年代からは本格的な「プライ版」ともいえるプログラム構成でこの曲に取り組んでいる。
「プライ版」を実演に用いる以前は「鳩の便り」の違和感を軽減するために、「ドッペルゲンガー」がコンサートの中央に来るよう、そしてそのあと、休憩がはいるように曲数を工夫していた。
ムーアとの1964年のライヴでは最初にゲーテの詩による「うたびと」「竪琴弾きの3つの歌」を持ってきて、続けてハイネ6曲を歌っている。
こうした場合、コンサート第2部冒頭が「鳩の便り」になるのだろうが、これだけでは、この曲の孤立救済は充分ではない。CDでは間をとらずに繋いでいるが、意外とこれが自然に聴こえるから不思議だった。実際にはこのタイミングの繋ぎはないはずだ。

「一夜のコンサートをこれだけで済ませることができないというのが、この曲集の難しいところです。試行錯誤の末、私はシューベルトの晩年作品からザイドルの詩による数曲を選び、組み合わせ、ひとつのグループを作って冒頭で歌うことにしました。最初の「戸外で」は美しい冬の情景を歌った名曲ですが、音型と調性、穏やかな感情の起伏が「鳩の便り」と呼応して聴こえませんか?」(73年来日時のインタヴュー)
選ばれた曲は「戸外で」「あこがれ」「さすらい人が月に寄せて」「窓辺にて」。
実際こうすることで、1曲だけ浮いていた「鳩の便り」がしっかりと存在位置を得ていて、これは素晴らしい構成だと思う。
プライはここで一旦引っ込むか、相応の間をあけて、次の6曲としてハイネを歌う。
これも巧みな演出で、「ドッペルゲンガー」のあと休憩をとることで、プライ自身の精神のリカバリーと観客の気分の転換の猶予ができるわけだ。
コンサート第2部としてレルシュタープ。70年代半ばからは「白鳥の歌」に補遺として付属されていた「秋」も歌うようになったが、扱いは流動的で、後半に紛れ込ませたが、どうやらどこに置いても座りは良くなかったようで、「鳩の便り」以上に不安定な立場になってしまったようだ。つまり、同時期の名作「流れの上で」と同様、作詩者が共通するというだけで、この曲は気分も設定も全くの別物なのだろう。
最後の1曲は「別れ」なのだが、深刻さの薄い曲なので、このあとにアンコールとして何でも歌えるメリットも出る。プライはアンコールを多数歌うほうだが、「冬の旅」や「美しき水車小屋の娘」ではアンコールなしということも多かった。終曲の余韻を大切にしたいという思いからだろう。

この「プライ版」での録音盤がないのは残念だ。1978年ホカンソンとのDG盤はホーエネムスのライヴで、実際は「プライ版」そのもので歌ったが、製品化の際に通常通りに戻され編集されてしまった。
…ということで、「戸外で」「憧れ」「窓辺にて」の3曲は公式録音を残さなかったことになる。本当に残念だ。
できればホーエネムスのオリジナル音源やザルツブルクでの公演、NHKの来日記録の製品化を願いたいところだ。

90年代からは「シューベルト最後の年のリート」という企画としてハスリンガーの曲順のままに「白鳥の歌」を取り上げるように戻っている。
この場合、コンサート前半にホルン付の「流れの上で」などを加えたが、ザイドル作品4曲はすべて1827年以前の作品ということで除外されている。
1997年来日公演の「鳩の便り」が歌えなくなるハプニングはこれが原因なのだ。
浸りこみと憑依はプライの晩年には顕著だったから、ドッペルゲンガーに憑依されたプライが精神状態を元に戻せなくても当然だった。
そして、憧れを歌う「鳩の便り」の歌詩は、プライが生涯をかけて追い続けた憧れそのものとして、自身の遺言のように響いてしまったのだろう。
あの時のつまりかたは歌詩を忘れたとか、タイミングを間違えたという種類のミスではなかったように感じた。
シューベルトが最期にこの曲に託した遺言を、プライはこの瞬間に全身全霊で受けとめ、意味を読み取り、自分自身のものとした。

終演後、青ざめてソファーに凭れたきり動けないプライに「放送の為の部分的取り直し」を伝えたというのが、事実ならNHKは鬼である^^;
また、そんな文字通り命を削った公演の記録を倉庫に眠らせておくのも鬼の所業だ。
何らかのメモリアルイヤーには、これらの貴重な映像記録をどうにかして頂きたいものだ。

posted by あひる★ぼんび at 23:22| Comment(2) | プライ

2018年01月21日

高学年例会「キッドナップ☆ツアー」

劇団「うりんこ」の「キッドナップ☆ツアー」
角田光代原作。NHKの単発ドラマでも知られる作品。
主人公は小5女の子で、失踪中の父親に「誘拐」され、連れ回され旅行…そこでの出来事を娘視点で綴った「ロードムービー」的なものだ。

起こるできごとは「ささやか」で実にプライベートなもの。
しかし、本来この年齢の少女にとって、家庭の問題は一番巨大であり、人間関係にも価値基準が生じてくる時期なのだから、ひとつひとつの出来事は後の人生に影響を及ぼす。
家庭の事情の詳細はドラマでも、この劇でも描かれていないが、わかるのは、「自由すぎる父」が家に帰ってこなくなって2ヶ月以上たっていたこと、母は忙しく働いていてかまってくれず叔母が面倒を見てくれていること…
つまりこの子の家庭の機能はほとんど崩壊しているということだけだ。
物語では、旅を通してこの父の人としての魅力に娘が気付き、心に親子らしい思慕が生まれる…というわけなのだが、自分個人としてはこの父親に魅力は全く感じなかった。
この人はきっと中学生ぐらいで成長を止めてしまったアダルトチルドレンだ。そのようにしか感じられなかった。俳優の力量の問題ではなく、原作の無理ではないかな?

エピソードひとつひとつは面白いけれど、なんだか、さびしい物語だった。
父娘のふれあいが熱気を帯びる程に、この感覚は増幅し、登場人物のそれぞれを包み込んでいく。
つきまとう欠落と喪失感。
親子の幸せを実感するのには必要なもの、信頼とか、理屈ではない愛情とか、そういうものがあるはずだが、彼らにはそれがないのだ。
この父親も、ひょっとすると母親もそれらの大切なものを欠いたまま、生育し、親となってしまったのかもしれない。
そのスパイラルに、この娘も半ば引き込まれている。
だからさすがにこの父も、鈍いながら考えたのだろう。
もし、あの子が孤立無援の状態であると実感し、不幸だと思ってしまったら、世を恨み、親を怨み、果てはやさぐれてしまうのではないか?
恐らく誘拐の要求は「大切な事を伝えたいから娘とのふたりだけの時間をくれ」ということだったのではないだろうか。
だから伝えるべきことを彼なりの方法で伝えた…まあ、この子を不幸にしている主犯が何を言う?って感じだが。

「おれがろくでもない人間なのは誰のせいでもない…そうなったのを人のせいにしたりはしない。
思い通りにならないことを、何かのせいにしてたら、周りの全部のことが思い通りにいかなくてもしようがなくなる」

ちょっと聞くといいことを言っているし、人生を渡って行くのに大切な事ではある。
けれどこれはなんと冷たく突き放した言葉だろう。
子どもは生まれてくる親や家庭を選べない。1人では生きられない以上、手の届く範囲の世界の中で懸命に生きるしかない。
子どもの人間的成長には親の責任は大きく、それを助けるのは人としての義務だ。その責任を放棄しておいて「人のせいにするな」とは暴言以外の何物でもない。
普通ならそれは日々の中で、行動で示すべきこと。
しかし、彼は、父でいられる時間はすでに短いと悟ったのだろう。家庭が崩壊している今となっては、短絡的に言いたいことだけを伝えるしかなかった…ということだとは思う。
たびたびこの父親が発する「選択権はそっちにもあるが決定権は俺だ」に集約される通り、彼には子どもを支配している実感があるわけだ。
人生を渡るのは「自己責任」などと、娘の成長能力、適応力やポジティヴシンキングに依存しようとする姿は本当に情けない。
「人のせいにするな」は最初から他者の行動を除外するから、事の本質が見えなくなる危険もはらむ残酷なぶったぎりになる。
この父が言ったら、「お前のせいだ」と言われたくない言い逃れにしかきこえない。
肉親だったら「言葉にしなくてもわかる」とよく言われるけれど、それは共有する時間が充分にある場合だ。何もなしにそれは「ない」。
「ある」とすれば「だってそれでも父だから」という善意の誤解と忖度だ。この父親は自己責任を免罪符に、妻にも娘にも甘え、好き勝手に生きてきた。
挙句の言葉がこれで、その伝わらなさを薄々感じて、自分の気持ちを伝える時間を「要求」したのだろうけれど…。
同じ言葉を、一生懸命、思い切り生きてきた人が人生の最期今わの際に言ったなら名言として響くのだが、この人ではまるでダメだ。

この冒険旅行で、観念的には父との絆は確認できたろう。
父としても言いたいことはそれなりに伝えられたろうが、本来彼女が望んでいるであろう「当たり前の家庭とその時間」は、多分このまま、本人が大人になって親になるまで得られないのだ。
それが確定した旅でもあったわけだ。その事実はとても苦いものだった。

あるいは原作者自身にも何かこのへんにはコンプレックスがあるのかもしれない。
単純に、親子の絆を確かめる物語なら、別居家庭の設定にする必要もないし、父のキャラをあんなふうにする必要もない。
そうじゃないから、重い。いくらエピソードを盛っても笑えないし、父親が良い事を言っても、腑に落ちてこない。結果、モヤモヤである。

実は、自分がこれまでに出会った人の中から、こんなことも考えた。
青年として共に劇場で活動した人達には、並はずれた自由人が必ずいた。
そういう人は大抵、自分の中にルールが出来上がっていて、また、時には自分が「神」でもあるので、共通して他人の迷惑に対する配慮が薄かった。
むしろ彼等は共通して「自己責任論」を構築しているようだった。やってることは無茶苦茶だが、なぜか堂々としている。
広い社会の中にそんな人がいてもいいとは思う。
しかし僕は、彼等を肯定はできなかった。
この物語の父親にも同じにおいを感じていた。
受け入れる側のキャパに依存する行動ばかりのくせに「人のせいにはしていない」とか言うなら、つまりは「言い訳はしないから勝手にさせろ」でつきすすむことになってしまう。
誰かの配慮や思いやり、我慢とのバランスで社会は成り立っていることを無視し、忘れている。
人生にとって大切な事は、まず負っている責任を全うすること。
また、アンドリュー・ワイエスの言葉を思い出した。
「人生はもっと真面目なものだよ」

混沌と書いてしまったが、
劇としては面白いものだった。
役者も活気があり、キャラクターがしっかり立っていて、簡素な舞台なのに情景がみえるような優れた演出と美術で、とても良かった。
直接的な感動よりも、つっこみどころの多いこの物語を、うまくまとめて一気に観せたうりんこの俳優さん3人の力はすごいと思った。

看板はこんなふう。
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ロビー売店。
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受付にあかね製作のバルーンアート
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プレゼントもいつも通り。
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これはローティーンの子どもとその親に見て欲しい劇だろうけれど、実際はOGばかり^^;
ちょっとさびしい現状ではあった。
中高生、青年で話の題材にも出来そうな劇だったのになぁ。

posted by あひる★ぼんび at 22:27| Comment(0) | 劇場

2018年01月13日

思い出のレコードからD〜レスピーギの「鳥」

考えてみると、好きな音楽、思い入れの大きい曲は、そのほとんどが20歳前後までに聴いたものだ。
やはり感性のスポンジの柔軟さや吸収率は、その頃までが優れているのだろう。
さらに人生の中での「初心の感動」の作用は大きく、最初に何を聴くかは後々に大きな影響をもたらすもののようだ。

レスピーギの「鳥」を初めて聴いたのは中1の頃だった。
ドラティの演奏だったと思う。FM放送をカセットテープに録って何度も聴いた。
「めんどり」の原曲のラモーの曲は知っていたし、「ナイチンゲール」のメロディはヴァン・エイクのリコーダー曲として聴き覚えていた。一番印象深かったのは「鳩」。
関係ない事なのだが、それを聴いて思い浮かべたのは、家族で見に行った「メリー・ポピンズ」の映画の中の「2ペンスを鳩に」のシーンだった。それは聖堂前の階段で貧しい身なりのおばあさんが鳩に餌付けをしている様子。
この組曲の他曲に比べると、この「鳩」は、言われなければその鳥とはわからない。レスピーギは楽器法の工夫で鳴き声らしき演出は施してはいるが、原曲自体に描写性はないのだろう。でも、どこか悲しげなこのメロディに、見たこともないヨーロッパの寺院の風景や空、飛び立つ鳩の影が重なり、心に焼きついて離れなかった。

高校時代、その「鳥」がマリナーの新録音・新譜として発売された。

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レスピーギ:
「鳥」
「ボッティチェルリの3枚の絵」


ネヴィル・マリナー(指揮)
アカデミー室内管弦楽団
(エンジェル LP 国内盤)



この頃、マリナーのレスピーギの演奏は「リュートの為の古代舞曲とアリア」をすでに聴いていたが、ドラティと比べると幾分スマートすぎるように感じていた。
あのように上品に優雅に流されたらちょっとなぁ…と少し心配があった。
しかし、この曲に関しては、むしろ丁寧さとその上品さが良かった。
かなり小編成のようで、鮮やかさと軽やかさが健康美を生んでいるようだった。
また、B面の「ボッティチェルリの3枚の絵」はこの盤で初めて聴く曲だったが、第2曲のエスニックな不思議な音色が印象深く、何度も聴きかえした。この時もこの後も、「好き」な曲にはなっていないのに、印象深く、まるで「性格俳優」のような音楽だと思える。「鳥」もそうだが、聴きやすい演奏時間の曲。いや、つまりこの盤、収録時間が短いのだ。

音楽とは関係ない事だが、実は、購入したその日、レコードをかける時にミスを犯した。
ワクワクしながら買ったばかりのレコードを居間のテーブルに置く時、よく確認しなかったために、たまたまこぼれていた芳香剤をしっかりしみこませてしまったのだ。
以後、CD化されるまで何年間も、この曲をかける度にその匂いも楽しまなければならなくなった^^;

その後CD時代に入って、マリナーはフィリップスにこの曲を再録音したが、曲自体の温度感の印象が違って当惑。
旧盤のCD化再発を待つしかなかったが、いざ再発ものを聴いてみても、違和感が先に来てしまった。
結局どうしてもそのCDの音に納得できず、廉価再発盤のLPを再購入。
(この記事のジャケット写真はその再発盤)
これも若干、音の印象が違う気がする。つまり、脳内で架空の印象が作られていた疑惑が生じることになった。
…こうなると結局香しい盤の方を聴き続けることになる。
まあ、この曲は匂いの記憶と完全にセットになっているわけで、もはやそれでもいいと思えている。
posted by あひる★ぼんび at 21:59| Comment(0) | 音楽

2018年01月01日

2018年の幕開け

皆様、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

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初日を受ける街並みと富士山。
変わらない風景だけれど、むしろそれが嬉しい。
社会で、仕事で、身辺で、色々あろうと、まずは新しい夜明けだ。
この大気をを思い切り吸おう。

posted by あひる★ぼんび at 23:09| Comment(0) | 日記

2017年12月25日

聖なる夜に



Frohe Weihnachten!

アメリカの前政権では、キリスト教徒以外に配慮して「メリークリスマス」は使用しなかったそうだ。
(「ハッピーホリディ」としていたとか)
今年、大統領のひとことで復活した^^;

まあ、考え方は様々あるだろう。
一義に考えるものが違い、「幸せ」のかたちも違う。
けれどその「幸せ」を願う気持ちはきっと同じ。

世の中が平和でありますように!
posted by あひる★ぼんび at 23:44| Comment(0) | 日記

2017年12月18日

アメリングのクリスマスA

前回紹介の「ヨーロッパのクリスマスを歌う」の続編とも言える1枚。
データはどこにも書かれていないが、1980年のリリースなので、70年代の終わり頃の録音と思われる。
コンセプトも似ていて、クリスマスに関連する曲を時代も国境も取り払った選曲で1枚にまとめている。
歌詞もそれぞれのオリジナル言語で歌っているというのも同じ。

ame-cris3.jpg「アメリング、クリスマスを歌う」
 エリー・アメリング(ソプラノ)
 ダルトン・ボールドウィン(ピアノ)
 アルダ・ストゥロップ、
 ジャネッケ・ヴァン・デル・メール(ヴァイオリン)
 アネッケ・ウィッテンボッシュ(チェンバロ)
 リヒテ・ヴァン・デル・メール(チェロ)   他
(CBS LP 国内盤)


曲目は
Aスカルラッティ:御降誕の為のパストラルカンタータ
Rシュトラウス:クリスマスの気分
レーガー:マリアの子守歌
ヴォルフ:主顕節
コルネリウス:クリスマスの歌op8
ディーペンブロック:子守歌
ニン:カスティーリャ地方のビリャンシーコ
ニン:バスク地方のビリャンシーコ


各面1曲目に規模の大きい曲を置いて「聴き応え」を作っている。
メーカーによる寄せ集めではなく、練られて組まれたものなので、重くなることもなく、逆に聴き流されることもなく、
充実した構成になっているのがさすがだ。

欠点といえば、曲間が短すぎて、余韻が消えてしまうことだろうか。
アメリングが丁寧に、本当に繊細で極限の美しさを聴かせる「マリアの子守歌」、
ところがその余韻に浸る間もなく、「主顕節」の少しおどけた語り口調に切り替わってしまい、気分が追いつかないのだ。
これは本当に残念に思った。

このアルバムを聴いていると、極端に時間が早く過ぎていく。
緩やかで穏やかな音の連なりなのに、本当に不思議なことだ。
アメリングの声は相変わらず澄み切って美しい。
気負いの全くない、作為的な抑揚をつけない素直な歌声である。
「豊潤な声」を好む人には物足りなく感じるのかもしれないが、彼女は無理にスタイルの変更を試みなかったことで声を保てたのだ。
そのレパートリー選択のシビアさも、歌手としての哲学も感じるほどだった。
このアルバムの場合、歌詞の内容こそ「クリスマス」だが、ハレの気分は薄く、また意外と、純正の聖歌を聴くような極端な宗教的気分とも違う。
うまくバランスをとって、「音楽そのもの」とアメリングの美声を楽しめる小カンタータ+リートの優れたアルバムだと思った。

ところで、彼女の名前の表記だが、日本での初期のEMIやHM、CBSの表記はアメリンクとアメリングの2通りだった。フィリップス時代になってからアーメリング表記が増えた。オランダ語のことはよく知らないが、実際の発音に近いのはアーメリングなのだろう。
本名エリザベート・サラ・アーメリング(Elisabeth Sara Ameling)1933年生まれ。1996年にステージは引いたが、現在でも世界のあちこちでマスタークラスを開催している。
いつまでもお元気に活躍して頂きたい。

posted by あひる★ぼんび at 20:35| Comment(10) | 音楽

2017年12月16日

にがりの会恒例年末鍋会2017

今年も鍋会を実施。
毎年、持ち寄る材料がなぜか偏って、結構スゴイ状態になるのだが、
今年はとてもバランスよい具材になった。
意外性はないけれど、今のメンバーには、食に遊び要素を持ち込む人はいない。
ガムやチョコを入れたり、まむしの丸干しやきゅうりを丸ごと入れるヤツがいたのは昔の話だ。
じつは・・・安心している真面目な自分と、残念がってる悪い自分がいるのが正直なところだけれど^^;

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特に話題設定もなく、ただ作って食べるだけながら、親戚家族ではないのに「みたいな」メンバーでのこういった会は本当に楽しい。
考えてみると、集まりの場で特に自己紹介やアピールがないのも伝統的で、それでも何の不自然さも不自由さも感じないのも不思議な空間だと思う。

春の合宿の話題もチラリと出たが、3月の小学校卒業式直後の土日か翌週土日ってところだろうか。
大学以上のメンバーが4月に入ってしまうと予定があわないかもしれないので・・・
ということだが、最近はどの時期にしても難しくなってきている。
時代がそうなのだろうか。
「春休み」とかいうと、もてあますほどの暇を感じていたあの頃の自分は、何だったのだろう^^;
昔の子どもと今の子ども、具体的に何が変わったのかわからないけれど、とにかくみんな忙しそうだ。
それでも、続けることに意味がある・・・そう信じている。
posted by あひる★ぼんび at 23:16| Comment(0) | 劇場

2017年12月15日

アメリングのクリスマス

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「ヨーロッパのクリスマスを歌う」
エリー・アメリング(ソプラノ)
ダルトン・ボールドウィン(ピアノ) 佐藤豊彦(リュート)
アルバート・ド・クラーク(オルガン) 他
(EMI LP 国内盤)




これは本当に名盤だと思う。
ただし、曲が曲だけに「知る人ぞ知る」となってしまったのはしょうがないだろう。
リート好きには大きな魅力を発揮する曲目で、アメリングの若く清らかな声が静かな祈りの雰囲気を描き出している。
リートファンやアメリングファンから高い評価と熱い支持を得ていたアルバムにもかかわらず、2008年にCDがインターナショナル・リリースされるまで事実上埋もれてしまっていた。
今さら記事にするのも変かも知れないが、クリスマスも近づいたので、まだ聴いていない方は是非、という意味も込めて書いておきたいと思う。

収録曲はこんなふう。
<イギリス編>
伝承: 明るい土手にすわっていたら
伝承:その歌はやさしかったよ
<ドイツ&オーストリア編>
ベギニケル写本:私の心は、甘き歓喜に酔いしれます
ベギニケル写本:また新たな喜びが
ベギニケル写本:さあ、坊やをあやしましょう
シレジア民謡:山の上を
ブラームス:宗教的な子守唄Op. 91-2
ハイドン:はした女XXIIId, Nr.1
<オランダ&フランダース編>
オランダ民謡:おお、イスラエルの聖らかな処女よ
フランダース民謡:小さな、小さなイエス
<スペイン編>
カタルーニャ民謡:クリスマスの歌
カタルーニャ民謡:ビリャンシーコ〜クリスマスの踊り唄
アンダルシア民謡:コルドバのビリャンシーコ
アンダルシア民謡:アンダルシアのビリャンシーコ
<フランス編>
民謡:牡牛と灰色ロバにはさまれて
民謡:羊飼いの呼び声
民謡:マリアのために
ドビュッシー:家のない子どもたちのためのクリスマス
ラヴェル:おもちゃのクリスマス


録音は1976年頃のもので、LPは77年にリリースされた。
これらの曲目は作曲年代に軽く400年の幅があり、歌詞の言語も英語、ドイツ語、ラテン語、オランダ語、カタルーニャ語、スペイン語、フランス語7ヶ国語になっている。
「祈り」というものは根源的な人間の思考であり、それぞれの文化の中の道徳や価値観の中で若干の違いはあるものの、幸福を願う気持ちは同じなのだと確認できる。
特に、ブラームスがドイツ民謡として編曲した「眠りの精」の元ネタといえるベギニケル写本からの曲(「眠りの精」は19世紀の作曲家ツッカルマーリョがこの写本の曲に手を加え、伝承曲として出版。それをブラームスが民謡と信じて編曲発表した)や、14世紀伝承曲のモチーフ(レーガーも「マリアの子守歌」として使用)による大曲「宗教的な子守歌」など、リートファンからすると興味深い。
B面はスペインやラテンからフランス近代の曲になるが、ドビュッシーの有名な「家のない子のクリスマス」とか、戦争の闇を描いた曲も収録して、単純なクリスマスアルバムではないことを実感させる。
凄いのは、それらが違和感なく一枚の中で共存できていることだ。アメリングの爽やかな澄んだ声は、必要以上に重い空気を出すことがない。
基本的に、アメリングは、美しさと優しさ、温かさからメッセージを送っている。

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イギリス・ドイツ・スペイン・オランダ
のクリスマスの歌

エリー・アメリング(ソプラノ)
ダルトン・ボールドウィン(ピアノ) 佐藤豊彦(リュート)
アルバート・ド・クラーク(オルガン) 他
(Brilliant Classicsオランダ輸入盤)



CDはクラシックのCDを買っている人なら誰もが知るオランダのブリリアントレーベルから発売された。
LP発売から約30年の時がたっている。CDでの復活は奇跡のようにも思えた。
そのCD化からもすでに10年近くが過ぎようとしているが、廃盤にはしてほしくない1枚だ。

こういう音楽はCDで気楽に聴くのも良いが、このアルバムはLPで、少しばかり面倒なアクションを経て、丁寧に聴く方がずっと良いと思う。美しい声と演奏なので、BGMにして心地よいのは当然なのだが、そういう聴き方は申し訳ない気がする。しっかり集中して鑑賞したいアルバムだ。
何より、世間の賑やかな商戦とは対極の、こういうものを聴きながら過ごすクリスマスのほうが、自分は好きである。

posted by あひる★ぼんび at 22:05| Comment(2) | 音楽

2017年12月12日

ペルシャの市場にて

言うまでもなく「ペルシャの市場にて」はイギリスのアルバート・ケテルビー(1875〜1959)が1920年に書いた「名曲」。
20世紀中はそこそこの数の録音リリースがあったし、小学校の鑑賞教材でもあり、誰もが知っている曲だった。
大英帝国的視点のみで中東を描いた6分間ほどの音の絵巻物で、そこには異国文化への強い憧れも溢れていて、差別意識で不快になることはない。その憧れの方向が明快で、無邪気を装っているので、誰でも理解できる楽しさがある。まあ、だからこそ鑑賞教材に選ばれたのだろう。
ペルシャ(イラン・イラクあたり)は本来、強国である。長い間、中東の小国を支配し君臨する支配側でもあったのだが、英国の国力はそれに勝った。この曲が発表された翌年にはイラクに傀儡王政をひき、委任統治領としている。オスマントルコからの「アラブ解放」は大英帝国にとっての大義名分であり、おいしすぎる利権だったのだ。この曲もそんな時代に便乗し、遠回しのプロパガンダも含んだ「あだ花」ともいえそうだ。

自分がこの曲を初めて聴いた時は小3ぐらいだったろうか。
母が買ってきた「ホームミュージック集」のLPに入っていて、オーケストラではなく、日本人のエレクトーン奏者による演奏だった。
どうやら当時の僕は、そのLPの中ではこの1曲だけ気にいったようだった。
いろいろな名曲が入っていたと思うが、何が入っていたか全く覚えていないから、つまりそういうことだろう。盤は早くに処分してしまったので、これ以上のことはわからない。
とにかくエスニックな暑苦しさを癒すような「王女のテーマ」の優雅な下降音形、ゆるやかな盛り上がりが好きだった。

さて、久しぶりにLPレコードでこの曲を聴いた。
今回聴いたのは80年代の初めごろに発売されたホームミュージック15枚組BOXセットの中の1枚目、第1曲。
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「ペルシャの市場にて」
      〜珠玉のホームコンサート
ビクター・RCA・フィリップスの名盤より


(ビクター LP15枚組 国内盤)




このセットはビクターファミリークラブの企画で、誰もが楽しめる好演名演の定番を集めたもので、手抜きや切り貼り感のない選曲もすぐれている。これについてはまた後日書くが、まずは「ペルシャの市場にて」である。ボックスの装丁画がモーツァルト父子で、メインタイトルと関係ないし、中身もあまり古典派よりでないのはご愛嬌か^^;

「ペルシャの市場にて」の演奏はアーサー・フィードラー指揮、ボストン・ポップスの名盤として知られる1950年代末の録音。活気にあふれ、聴き手へのサービス全開の演奏だ。
団員による「物乞いの合唱」とガヤがノイジーで粗野で良い^^。
王女のテーマも雄大優雅。これぐらい恥ずかしげなく盛り上げてくれると、この曲のちょっと不誠実な、怪しげな味わいも伝わってきて、それも良いと思う。
娯楽と芸術の境界線が曖昧なのは、つまり優れている証拠、本物の証なのだ。
昔はこんな演奏が沢山あった。それを聴いて、音楽が好きになった。
そのことを思い出させてくれる演奏だ。
つくづく、音楽が好きで良かった♪今、聴く喜びを改めて実感している。

posted by あひる★ぼんび at 23:57| Comment(0) | 音楽