2014年09月01日

これを「カノ嘘」というらしい。

原作のコミックを読んだことはない。だが、かなり支持者も多い作品らしい。
題名もいじらずに「カノジョは嘘を愛しすぎてる」のまま。
コミックの実写版、しかも恋愛ネタ、ということで、映画館で観る気はなかった。
今回はブルーレイ鑑賞。別にバカにしているのではなく、あくまで好みの問題だ。
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映画は、商業音楽にあたりまえに存在するゴーストライター、ゴーストプレイヤー、パワハラ的プロデューサー、若い才能を「商品」としか見ない業界…描き方によっては悲惨きわまりない方向へ向かいそうな設定を、あっさり、軽く、甘口に仕上げた感じ。
登場人物がすべてステレオタイプ、それぞれの性格がわかりやすく、それを承知で観るなら、むしろ「リアルを追求しない」潔さが心地よい映画だった。

この作品、題名こそコミックのままだが、実写化の時点でコンセプトがずれたことは想像できる。
どう見ても、彼女は嘘を愛しているのではなく、彼の嘘を愛しているわけでもない。
むしろ反対に、はぐらかしの多い彼の中の「本当」の部分のみを愛しているようだし、さらにいえば愛しているのは彼ではなく、彼の音楽を、なのかもしれないのだが、彼女自身がそれに気付いていない。
それはまぎれもなく10代少女が憧れる「初恋」のひとつのスタイルだろうし、オトナの世界の色事からは遠い。それが物語の中心である以上、全体は浮遊感の中であり、キスシーンも含め中高生の恋愛妄想日記化している。リコを演じている大原櫻子さんのキャラクターがぴったりはまっているので、というかはまりすぎて、長編プロモーションビデオのようにも感じてしまった。何より、歌がものすごくうまい。
構成やキャスティングから察すると、「CRUDE PLAY」というアーティストと「小笠原秋」が物語の中心…のはずなのだが、大原さんを大々的にフューチャーしすぎたために視点がずれまくって、ドラマ的には中途半端な展開になっていた。
そもそも誰の視点での展開?
ナレーションからするとあくまでアキの視点のはずだが、彼からは見えないはずのリコの心理や行動まで描こうとし、さらに業界内でのアキ自身の立場から見えるはずのものが見えていないのだ。
葛藤が伝わらなければ緊張は生まれない…。
八百屋の娘が芸能界デビュー(いきものがかりか!)も、すべてを捨てて海外渡航も、それぞれの人生の岐路であり、大事件なのだが、それすらすべて緊張感なく流れのままに…なのだ。
それにしても、カリスマ的人気のV系バンドなんてハードルを設定されたら、さぞかし三浦翔平さんたちはエライこっちゃだったろう。彼らの歌はラルクっぽい雰囲気ながら、セリフまわしと漂うオーラがDAIGOっぽくって笑ってしまった。彼が出てくるたび、脳内ではDAIGOがういっしゅである。
佐藤健さんは強度のすかし野郎キャラと「影」で、ユーモアとシリアスの差がなくなって、存在感がピンチだった。煮え切らないことこの上ない。「るろうに〜」とかだと、口下手キャラでも良いところを見せられるのだろうけれど、これじゃイケメンだけの男になってしまっている。とにかく大原さんがオイシイ所を全部持って行ってしまうので、可哀そうな気もした。
主役なのに引き立て役とはこれいかに(^^;)

この映画、音楽業界を描いているが、描き方は「ゴッコ遊び」程度。ビジネスの厳しさは決して描きはしない。あえてそうしたのだろう。チクリチクリと腐敗寸前の部位を予感させつつ、核心はつかない。
この映画を観る中高生が、これからも充分に「嘘」を愛せるように、という配慮も含んでいる…のかな???
楽曲の作曲は林檎人脈の亀田誠治さん担当であり、その自信にあふれた安定度で「音楽映画」と捉えることを許している。音楽映画として観れば、セリフや演技に多少の難があっても気にならない。高校生が高校生役を演じ、アイドルがアイドル役を演じているのだから、そこにブレも間違いもない!色々つっこみつつも最後までダレることなく観ることが出来た。想定外の良作だと思う。
それにしても、はなから監督の名前すらどうでもいい感じもあって、この映画が新進の大原さんと佐藤・三浦・窪田ら1988年前後生まれののアイドル俳優たちのプロモーションであるとはっきりわかる点も、潔いな、と思えた。


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2014年01月14日

永遠の0

お正月に地元映画館で『永遠の0』を観た。

太平洋戦争、そして特攻。最近流行の言葉で言えば「黒歴史」。

陸軍の航空兵だった伯父や、海軍の特攻隊員だった親戚からポツリポツリと聞いた話は、繋ぎ合わせるにはパーツが少なすぎ、また自分の中でその実像を完成させなければという思いもなかった。
おそらく自分自身の思想の一部に明らかな影響はあるものの、やはり遠い過去のひとつだった。
実際、この映画や原作小説もそういった「証言」の羅列なのだろう…と思えた。
しかし、その羅列を「宮部」という一つの像に結ばせようとした意図は何だったのか。
体験談や証言のひとつひとつは史実であっても、繋ぐための接着剤は創作と想像。つまりフィクション。
創作部分の含有量が問題かもしれないけれど、団塊世代より若い原作者が、それよりさらに若い監督と組み、ごく若い俳優たちが演じ、ターゲットの鑑賞者はさらに若い世代。一般向け、しかも年末年始公開の映画である以上、「娯楽」の一環である。重くなりすぎてコケるわけにもいかないだろう。そんな諸々を承知の上での鑑賞となった。

「風立ちぬ」続きの零戦ブームにあやかったか、この映画で強調されていた零戦だが、実際の特攻機は零式戦闘機だけではない。そしてそれぞれの搭乗員たちも、もちろん主人公も、貸与される航空機はさまざまなはずだ。飛ばせる飛行機は農耕用の複葉機でも突撃させた。カッコよさの微塵もない。それが戦争末期の特攻なのだ。
かつて伯父は言っていた。「日本機は胴が薄いけん、よう燃える。アメリカの弾は速いしまたようあたる。まぁもうえらい撃ってきよるしな。ふ〜らふ〜ら飛びながら、ああアメさんに会いませんようにとばかり考えちょった」
艦砲射撃の弾幕の中をくぐりぬけるのは不可能だし、性能の違いすぎるアメリカ機との遭遇も避けたかった、ということだ。映画の主人公宮部以上の「臆病者」はいくらでもいるわけで…いや、誰しも同じだったのでは??
特攻隊員だった親戚は大石と同じくエンジントラブルで生き残った。しかし、隊に帰るなり臆病者扱いを受け、その後すぐ別の特攻隊に配属されたが、出撃を待たず終戦した。

映画に戻ろう。
残念ながら僕には、映画全体の「感情の波」が読み取れなかった。
情緒に走る映像に対し、説明的なセリフ…そこに生々しさはなく、証言から作られた宮部久蔵とその同志の再現ドラマという風情だった。
イデオロギーを排そうとした結果だろうか。自己犠牲を美しく描くこともなく、声高に反戦厭戦を叫ぶでもない。
では、退屈したか、というとそんなこともない。ここ10数年のこの種の題材の中では優れた映画、と呼べるのだろう。
あと、最後の特攻シーンは無くてもよかったかな。
見事な映像技術だったが、何やら急にガンダムか何かの戦闘シーンみたいな奇妙なノリを感じてしまった。某総理はここが一番良かったとか言ってたけど。
どんなに神がかりな操縦技術で突撃しても、ぶつかる先は人だ。
誰よりも生に執着した宮部が、自らの信条を破り、しかも「敵」とはいえ親も家族もある米兵を多数巻き添えにしたとあっては、彼の最期が汚点だらけになてしまうではないか。
全然関係ないのだが、平家物語の壇ノ浦の一節、雑兵をなぎ倒し大活躍の平教経に平知盛が言った「いたう罪な作りたまひそ(あまり罪をつくりなさるな)」を思い出した。
特攻を成功させるも撃墜されるも、家族を守ることにも、戦友を守ることにも、日本を守ることにもならない。
空気に流されず、戦況を分析できていた本人は初めからわかっているのだ。
なのになぜ?…回答は、これはどこにもない。
それにしても、あんなに熱く、生への執着を持つ宮部が、サイボーグのように思えてしまったのはどうしてだろう??

あの時代を生き、死んでいった人、生き残った人、その人生や思想に思いを馳せる。
だが、わからない。
多分、永遠にわからない。
0である。
…0はゼロではなく、ラブだよ、と誰かが言った。ああ、そんな見方もあるかもね。

****

最近、アメリカ映画「パールハーバー」をTVで観た。面白くないとの評判だったので、今まで観ていなかった。
日本軍の奇襲を受けたあとの、米軍の悲愴なヒロイズムとほとんど特攻隊の作戦そのままの報復爆撃計画、その後の「正義の戦争」…それをダイナミックな映像とウソのてんこ盛りで美しくまとめていた。
こんな一種のプロパガンダに比べれば、日本映画のどんな特攻美談も、カワイイものかもしれない。


posted by あひる★ぼんび at 23:55| Comment(0) | 映画

2013年12月30日

2013年クライマックス

クリスマスが過ぎてしまうと、時間はいちだんと加速する。
2013年も残すところあと1日になってしまった。
今年は「お正月の食材をクリスマスに購入する」といういつものパターンをとらなかった為に、「お正月スペシャルプライス」と化した蒲鉾や伊達巻を買うはめになってしまった。
98円と900円の蒲鉾の味の違いがワカラナイ自分には無駄な贅沢にしか思えないのだが・・・。
まあ、しかたない。
縁起物ってことで(^^;)

動画はレイモンド・ブリッグズのスノーマン。
原作は1978年、アニメは1982年、ダイアン・ジャクソン監督で作られた。
ハワード・ブレイクの精緻な音楽と映像の融合、そこから滲み出す詩情が印象深く、好きなアニメーションのひとつだ。
本編にはセリフがない。また、アニメーションのコマ数が少なくパラパラ漫画風。
しかし、絵のアングルが実写以上に「映画的」でドラマティック。なによりとても温かい。



このアニメが生んだヒット曲“Walking In The Air”はいつ聴いても懐かしさとほんの少しの哀しさを感じる。
ブレイクの音楽は意外と雄大なオーケストレーションなのだけれど、大げささを感じないのは中間色を多用した映像と、清らかなボーイソプラノの独唱のおかげだと思う。


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2012年02月17日

苦みと痛み〜縞模様のパジャマの少年

夫「俺は軍人だ!これは戦争だぞ!」
妻「これのどこが戦争だって言うのっ!」

ユダヤ人虐殺、ホロコーストは戦争の時期におこったが、それは戦争のせいではない。
ナチス党の政策だったから、だけでもない。
この映画はその虐殺の一端を、ドイツ人、それも絶滅収容所の所長の息子が体験した「疑問」として描いている。これまでありそうでなかった視点だ。
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「縞模様のパジャマの少年」(2008)
監督・脚本:マーク・ハーマン
原作:ジョン・ボイン

(ワーナー DVD)





軍事機密事項として直接の関係者以外には隠匿されていた「虐殺」。
したがって、この映画の主人公、8歳のブルーノは父の任務を知らない。
そして、13歳の姉、母もそれを聞いていない。
ブルーノの父親は、家庭内では、さほど威厳のない普通のパパ。
だが、収容所の執務室に入れば「いかに効率的にユダヤ人を処分できるか」を検討しているナチス親衛隊のやり手の幹部将校である。
母は終始批判的だが、夫の立場を考えると、すべてを拒否できない。
姉は若い士官に幼い恋心を燃やし、それゆえにナチスの支持者になっていく。
その恋が崩れたとき、ナチスへの敬意も消えるのだが、それはアイドルに夢中になるのと同じ心理であり、市民レベルだと、こんなものなのだろうかと恐ろしくなる。
人心掌握の手段として宣伝相ゲッべルスがもくろみ、ドイツ圏で絶大な効果をもったのが実はこの「アイドルおっかけ心理」だったことは確かなのだ。

ある日ブルーノは、「農場」だとばかり思っていた施設の金網ごしで、同じ年頃のパジャマの少年シュムールと出会う。
ぎこちないけれど、深い心のふれあい。束の間の交流。
それがやがて悲劇をもたらすことになる。

人が撃たれる場面も、死体の山も、この映画には出てこない。
予備知識のない人が見たら、そこで何が行われているのか、何が起こったのかわからないことだろう。
しかし、現代の自分たちは誰でも、「何が行われていたか」を知っている。
・・・だが。
当時のドイツ人はどこまでユダヤ虐殺の実体を知っていたのだろう?
この映画で描かれているように、差別と追放から先のことは、ほとんど知らなかったのだろうか?

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とにかく、この映画はブルーノ役のエイサの青く澄んだ瞳が印象的。
この白い肌と青く大きな瞳が、ヒトラーが憧れた「純粋アーリア人」の象徴的な特徴だったわけだ。
そして、シュムール役のジャックの悲しげな表情。
美しい風景といっぱいの陽の光の中、穏やかにみせかけて、ひたすら痛く苦い映画だった。
この「苦み」は、ナチスに対する嫌悪ではない。
ユダヤ人やこども達への哀惜でもない。
映画の中の事件を通して「知らなかった」「知ろうとしない」ことの愚と罪をつきつけられるからだ。
そして、それは誰にでもありうると感じるからだ。

たとえば、日本人が他のアジアの人達にやってきた差別や非道を、僕たちは正確には知らない。
もっと話を身に近づけるならば、今現在の原発をめぐる様々な問題すら、正しく知らされているとは思えない。
「知らない」ことが罪ならば、自分たちは全て罪人である。
レッテルはどうでもいい。知ってからどうするか。
それを具体的に考えられない無力感が、猛烈な「苦み」となって残るのだ。

見終わって、時間がたつほどに重量を増す作品だった。
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2012年01月26日

フライボーイズ(2006)

フランスに実在したアメリカ人航空部隊(ラファイエット戦闘機隊)と、登場人物それぞれにモデルとなる兵士がいる、という「実話」を借りた戦争アクション映画。
設定をあくまで「借り」たのであって、物語は基本フィクションである。
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ゆるゆるの軍規、甘い訓練、やけに容易すぎる離着陸をはじめとする機の扱い、何やらつっこみ所が多いのだが、不思議と傷にならず、しっかり楽しめる映画だった。
戦争を楽しむとは不謹慎な、と思われるかもしれないが、実際面白いと思ってしまった自分がここにいる。

のっぴきならないワケアリでアメリカからフランスに渡って入隊した連中であるから「愛国心」とか「厭戦・反戦意識」がない。
物語的にもわざわざそれを挿入しない。
若者たちは戦友や自分の死を恐れつつも、まるでスポーツのように撃墜数をあげることに集中する。
また、そのことに対しても善悪を問うたりもしない。
つい最近公開された「レッドバロン」(何か評判は芳しくないようだが)は見ていないが、旧作の方には、「共産主義者を粉砕する」というセリフまで撃墜王フォン・リヒトホーフェンに語らせ、空で英仏と闘うだけでは済まない複雑な事情や、イデオロギーを描いていた。
それはやがてナチスに引き継がれていく思想の萌芽を感じるものだった。
しかし、この「フライボーイズ」には何もない。
極端に言えば、行き所のない不良たちの一種の更生物語(ただし、死と隣り合わせの)みたいな、あるいは形を変えた「アメリカンドリーム」のノリになっている。

航空兵だった伯父から以前聞いたことがある。
「年端もいかぬ若造には、戦う意味なんかわかるわけがない…さんざんおだてられて、時に恫喝うけて、飛ばされる。出撃の数時間後にはさっき一緒にメシを食った戦友がポロポロ欠けている。そんなふうに命が軽いからあんな重い飛行機が飛ぶのかもなぁ…。」
そんな言葉をふと思い出した。
この映画も、命がとても軽い。
与えられたミッションは「出会ったドイツ機をすべて落とす」のみ。
空を飛び回る爽快感の中、痛みも恐怖も悲しみも、麻痺しているようだ。
そんな麻薬症状が、あるいは戦争の本質であり、怖さなのかもしれない。

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人間関係の描き方が淡白でドライである点も、映画の受け手は、対戦ゲームのプレビューのように感じるのではないだろうか。
余計な涙がない。次々と欠けていく戦友、死も起こるべくして起こった事象のようだ。
と、これだけ書くと、冷徹な殺人集団の物語かと思われてしまうかもしれないが、最初に書いた通り「ゆるい」ので、そうはならない。
フランス村娘とのロマンスや、軍規を犯して彼女を占領区域から脱出させるエピソードの挿入などで、地上での彼らの人間らしさや、戦時の青春のせつなさも挿入されている。

この映画に出演者で、知名度の高いジャン・レノは、静かな父親のまなざしで若いパイロットたちを支える隊長役。
時として大根の汚名をきる彼ではあるが、ここでは彼の「ゆるさ」が良い味になっていた。

実写+CG+ミニチュア特撮をうまく扱った空戦場面は、当時の実機ではありえない場面も多々あるものの、非常に血圧の上がりそうな場面作りで、素晴らしい。
なんでドイツ軍のフォッカーが、カタキの親玉(黒)以外は全部赤なんだ、とか、失速も分解もせず性急な上昇下降、旋回を繰り返すんだ、とかまあ、それもいろいろケチはあるが(笑)
ボーナスディスクの、ミニチュア撮影のメイキングは面白かった。
ワイヤーで模型を飛ばす様子が、昔懐かしい怪獣映画風。
搭乗員の人形をレポーターに仕立てた奇妙なチープさもかなり楽しめた。

映画は、娯楽である。そしてこれはアメリカ映画。
それを押さえた上なら、たっぷり楽しめる2時間50分だった。

posted by あひる★ぼんび at 23:53| Comment(0) | 映画

2011年10月22日

異界とともにあること

日本の怪談・奇談は、海外のものとは趣が異なる。
それは「死」そのものの捉え方の違いか。
特に映画ともなると、西洋ものの多くは、突然の凶行、切断やら血しぶきやらに彩られたスプラッターホラーが基本。だが近年は日本の「怪談噺」の影響をうけて、情念を盛り込んだものも増えてきた。
逆に、和ものがスプラッター化していて、なんとも居心地の悪い不整合を起こしている。

僕はよく「怖い話がうまい」と言われる。
だが、それほどそんな話はしないし、請われても相手が精神的に蒙るダメージを考えると、本気でやってみようとは思わない。
何より、実は、何が怖いのかがよくわからない(笑)

幼児のころ、祖父や祖母に連れられて、よくお寺に行った。
祖父の親友がその寺の住職ということで、実は我が家の本来の宗派とは違ったのだが。
そのお坊さんから、人は死ぬと仏になること、この世には何も残らないこと…
自然に意識に刷り込まれた。
そう、仏教的には、幽霊はありえない。
念仏やお題目をあげたのに成仏しないとなると、教義的にもいろいろと不都合なのだ。

霊魂がそこここに宿るという八百万神の考え方は神道的であり、
宗教として系統化する前の土着信仰の影響なのだ。
自然現象、化学反応の多くを人は恐れ、敬った。
日本ではこの土着信仰が強く残った。
異界と共存することを精神的に許し、多くのものが習慣として生活の中に溶け込んだ。

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怪談新耳袋 百物語 DVD-BOX
(テレビシリーズ全99話)


(キング DVD6枚組)






新編ではなく、2007年リリースなので、そろそろ市場では見かけなくなっているもの。
木原浩勝氏、中山市朗氏が全国で蒐集した体験談(作り話もかなりありそう)をもとに出版した「新耳袋」を原作に、BS放送(2003〜06年)用に1話5分のショート・フィルムにまとめている。
当然ながら一般TV放送の倫理に照らし合わせて作られているので、きわめて低刺激。
だが、基本5分で話を成立させている妙技に感心する。
また、監督やプロデューサーの有名映画へのオマージュ(あるいはパロディ)が利いていて、なかなか面白い。
「聞き取り実話」であるから、地域の妖怪話の影響も強く受けていて、古典的怪談パターンに忠実な話も多い。そして、怖くない(笑)
たまに姿をあらわす幽霊がチープだったりすると、俳優さんが熱演すればするほどおかしなことになるのだが、あぁー!と思った瞬間に話が終わってしまうのでガッカリにはならないですむ。
その意味では白塗りの小太りのじいさん幽霊なんかが出てきても許せてしまう(笑)
これは映画館で観る2時間のホラーと同列に語ってはいけないものだろう。
合宿や宿泊学習で、夜中に友達と話す「こわい話」のノリだ。
大作ホラー映画はいつもつまらないと思うのだが、これはとても楽しめた。
posted by あひる★ぼんび at 23:12| Comment(0) | 映画

2011年01月07日

自分も「20世紀少年」である。

この年末年始はあまり元気とはいえなくて、熱が下がらなかったり、だるかったりだったので、
ほぼこもりっきりで「保存食生活」。
非常用備蓄品一掃、結構サバイバーだった。
そんなわけで、CATVではずいぶん映画を観た。邦画ってなんか病的なのが多いなぁ・・・って、一番病的なのは自分か(笑)
ほとんどはオブジェの如くただ部屋に流していて、鑑賞とはいえないレベルの視聴。
「20世紀少年」も全3作ぶっ続けで観た。
これも積極的に観た、というより、惰性で観てしまった感が強いのだけれど。

原作のコミックは、医者の待合室で部分的に読んだぐらいだが、伏線ばかり多く(というか、それも曖昧な)、同じ作者の「MONSTER」ほどのインパクトは感じなかったものだ。
こういう映画って、原作を知っているほうが面白いのかな?
よくわからんが、素直に見ればよいのか。
というわけで、感想は、まあ、そういうことか・・・って感じだった。
ストーリーが面白いわけではなく、少年時代の破滅的想像を実現してしまった妄想狂をめぐる活劇、あんまり強くない変身しない戦隊もの・・・古き時代は決してよき時代じゃなかったけど懐かしさはあるね、とか、いじめやハブんちょは暗黒を生むとか。
所詮マンガ、されど・・・といえない現実の厳しさに残念さも感じつつ。

大いなる違和感がひとつ。
原作者は自分と同世代、監督は上の世代。
原作者は多摩だから、所沢の自分とはそれほど感覚は違わぬ筈、と思う。
ところが…映画の絵づらは、あきらかに監督の世代の少年期の再現のようなのだ。
あの頃は、「高度成長期」という言葉が示す通り、数年違うだけで、風景も人の姿も全く違うのだ。
土ぼこりの道も、平屋の多い街並みも、東京近郊各地が鉄筋ニュータウン化する以前の1950年代から60年代前半の様相。
子ども達のファッションも、半ズボンの丈の長さが違う。あれではちょっと長すぎ?
小三の頃、あれぐらいの長さのもらいもののズボンをはいていたら、女子から「だらしな〜い」といわれまくった記憶があるくらいだし。
しかもあのこきたなさ・・・そんなのは絶滅危惧種だったはずだ。
それから、小4ともなれば、地球防衛軍遊びなどしない。
ウルトラマンのポーズなんて、恥ずかしい。また、女の子が単独で男集団に介入するのは極めて稀である。
自分達は、新学習指導要領が実行され、異常なほど授業時間が延びてつめこまれた世代であり、進学塾が乱立しはじめた頃。直前の「不足」の反省からそうなったわけだが、逆のアップアップで直後再び検討され、落ち着くまでの過剰教育世代でもある。
社会的大事件は、1969年初頭の安田講堂事件と夏のアポロ月面着陸。
物語で重要なポイントになる1970年3月から9月までの大阪万博は、確かに大イベントには違いなかったが、多くの子どもの精神に影響を与えるほどのものでもなかったと思う。ましてや東京近郊の子どもにとっては、遠い国のできごとだったはずだ。
ノストラダムスの大予言は1973年、スプーン曲げの流行は74年。エクソシストなどのホラーがうけたのもその頃だ。つまり終末思想が少年達に吹きこまれるのはもうちょっと後のことだ。
じゃあ、当時のケンヂ少年の終末予想はいったいどこから生まれたか。
単純に、ウルトラシリーズにでてくる宇宙人の地球侵略なのだろう。
つまり、底は極めて浅いわけだ。
話題に出てきた「ゴジラの息子」は僕も映画館でしっかり観た(笑)

本格オカルトブーム前にもかかわらず、どっぷりとダークサイドにはまりこんだお面の少年、後の「ともだち」、そのダークサイドが政治的野心に結びつくあたりは、70年安保以前に青春期を過ごした「俺の力で世の中を動かす」幻想を持ちえた、団塊世代以上のもののような気もする。
自分達は、高度成長のぬるま湯の中、社会の為に生きる精神の破棄と、開拓精神の欠乏を起こした、いわば「自分の好きなように生きる」を実行している世代である。
あ、ケンヂがそんな感じか。
つまらんよ、それだけでは!と思ったのだろうね。原作者は。
そして「野心」の亡霊たる「ともだち」で、イメージの反乱を起こした。
監督は自らの「野心」の残照の中で、自分の少年の日を重ねて映像化した。
結果は、どうなんだ??バブル期前後のトレンディ俳優を集め、ちょい役に人気お笑いタレントまで起用して、60億かけて壮大な「ごっこ遊び」をやらかしただけにも見える。
病の根は深くとも、具体化する現象は表面的で、ダークサイドは文字通り闇のまま。

「あ〜そびぃましょ♪」

返事はきっと、ない。

・・・感想大混乱(笑)
つまりそんな映画でした。映画館で観なくてよかった・・・。
posted by あひる★ぼんび at 23:53| Comment(0) | 映画

2010年11月03日

CATVで3本!

「かもめ食堂」と「めがね」
CATVで連続して観た。どちらも2度目の鑑賞。

人にはパーソナルスペースというものがある。
どちらもそれを頑なに守っている登場人物で固められた映画だと思った。
入り込まない入り込まれない、そんな人間関係は意外と心地よいかもしれない。
また、作者の荻上監督はストレンジャーの寂しさと気楽さの両面をとても良く知っているのだろう。
束の間の出会いや異邦人の関係は、無理なアクションさえ起こさなければ
結構本人に都合よく回るものだ。

「かもめ食堂」は街中の設定なので、生きている人間の営みを感じられるのは良い。
ただ、フィンランドでなければならない必然がない。
誰もが疑問に思う「なぜフィンランドなのか」の問いはちゃんと映画のセリフにでてきたが、
答えは極めていいかげんで、まさに玄関先でニコヤカに追い返された感覚だった。

この映画とは関係なく、フィンランドは行きたい国のひとつだけどね。
今のところ、きっかけが掴めないでいる。

「めがね」のほうは風光明媚で穏やかだけれど、あまりにも喜怒哀楽が薄く、生活感皆無で、ほとんど死者の世界に思えた。
三木監督の「熱海の捜査官」じゃないけど、実は登場人物はみんな死んでます、みたいな(笑)
生きている時間のムダ使いはまさに究極の贅沢。
作者自身は映画を観た人の多くがそう思うだろうことも知っていて、
時々現実社会への回帰をにおわせるセリフを言わせたりしてるけれど・・・
生臭い言葉は発せられても即流され、煩悩は美しい風景に消し去られる。
和やかな共同体を組んでいるようでいて、お互い全く干渉せず、
「無関心」というより「無関心でいようと心がけている」
いったいそれが何か美徳となるのだろうか??
印象深い作品であるには違いないけれど、これを見て羨ましくなるほど自分は疲れていないのかもしれない。

その少し前「のだめカンタービレ最終楽章前編」も観てしまった。
これこそ、色んな意味で究極の贅沢かも。
マンガ実写版は結局マンガだ。海外ロケとCG、本格演奏のBGM。
しかしアリエナーイ展開も許されてしまうのはアレだから。
演奏がかなり「????」でも「すばらしい」ことになってしまうのもアレだから。
業界の片隅に生きる自分からみたら、コンサートマネージメントのいい加減さもアリエナーイ。

まあ、面白かったけどね(笑)
posted by あひる★ぼんび at 23:49| Comment(0) | 映画

2010年03月09日

道の途中

Halfway。
映画は悶絶モノの甘酢っぱさで、ちょっと恥ずかしかった。
北乃さんかわいすぎ(笑)
美男美女カップルにいいひとばっかのありえねー映画ながら
この歌は大大大好きでありまっす。


卒業の季節だねぇ。
たくさんのおわりとたくさんのはじまり。
でも、それもすべて、みんなみんな道の途中。



あ、中学生諸君。本来はハーフウェーだからね。
主人公が、この単語の読み方を「ハルフウェイ」って間違えた、ってことがこの映画の題の由来だから。
posted by あひる★ぼんび at 21:25| Comment(0) | 映画

2009年09月07日

虹の女神(07年5月再録記事)

以前「虹の女神」の紹介書いてたよね?と、数少ないこのブログ読者の方から再録リクエストをいただいたので、載せておきます。
2007年5月15日に旧ブログに書いたものです。


虹の女神

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  ねえ・・・この虹、憶えてる?
  不思議な、虹・・・






虹。
たいがいは消えかけてる時に気がついて、あ・・・っと思う。

大切な人。
傍にいた時はその存在の大きさに気づかない。
遠ざかってしまって、失くしてから、はじめて気がつくもの・・・

思い出。
鮮やかに心に刻まれてるはずが、時間と共に薄れていく。
色づけはいつでもできるけれど、薄れていくそれを止めることはできない・・・。

映画館で見られなかったので、DVDを見た。
映画の話って、見ていない人にとっては余計なお世話、大きな迷惑になる。よって、ここではあらずじは辿らない。あ、でもこの映画、スタートがヒロインの事故死で、事件は「それで全部」なのでネタバレもなにもないとは思うけど(笑)岩井&熊澤コンビらしい、しみじみ系映画になっている。
天然ボケ役が多いのになぜか笑顔の少ない上野樹里さんと「リリィ・シュシュのすべて」などに出てる市原隼人クンの組み合わせが面白い。市原クンがとにかくコドモ過ぎで、なんとも歯がゆいんだけど、それがまたいい…のかな??

起伏の少ない日常のエピソードを誰の目線かわからぬ視点で、とりとめなく思い出してるようなストーリー。気が強くてさっぱりした性格なのに、恋愛についてはまるっきり意気地なしのあおい(上野)、何をさせても「使えないっぷり」が自然すぎて怒鳴りつけたくなる智也(市原)。
大学の映画サークルでの2人のじつに個人的な、ささやかな「青春」のひとこま。恋へと踏み切れない、伝えられない思い。
そんなひとこまを見せられて「おもしろいか?」と言ってしまったらそれまでだし、そういう2人の「大切な時間」に直接関係ない「どうでもいいエピソード(相田さん演じる年齢詐称女)」なんかをまぎれこませて、あおいのいない空白の時間を演出してたり・・・見方によっては???なんだけど。
でも、それがなんかいいんだ(笑)
成城大で撮られた雑然としたキャンバス風景がリアルだった。
こんな風景、こんな会話、確かにあったよなぁ…と、一定年齢以上の人は思ってしまい、映画そのものへの冷静な観察を妨げてしまう。ちょっとあざといかも(笑)
現在進行形で青春してる人は、この映画をどう見るんだろう。

映画の中で、あおいの告別式のあとに上映される、地球最後の数日を描いた「あおいの初作品にして遺作となった短編」が、脳裏に焼きつくように印象的。
ホルストの惑星(「金星」がメイン)にのせて、本編以上にベタな脚本、わざとらしく素人な演技…なのだが。


大切な人の思い出は、まるで虹のようだ。
最初から儚さをもった美しさで、それは心にかかるけれど、
時の流れの中では、やがては大きな空に同化して消えてしまう。
人は色々な人と出会いながら、出会った人の心に映像とぬくもりを残しながら、やがてはそこを去っていく。

それはただ、切ない。でもだからこそ、愛しい。

posted by あひる★ぼんび at 23:07| Comment(2) | 映画

2008年04月23日

この街にもいたんだ!あの…

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発見してしまった。
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そうか、そうなんだぁ。この街にもいたんだねぇ。
そこそこラーメンとか、ありんこ見つめてるおばあさんとか、踊りのうまいパーマ屋さんとか、いるのかね。
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僕は、応募しないけどww
このネタ、わかる人にはわかるよね


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久しぶりにミニ映画会でもやろうかな???

posted by あひる★ぼんび at 21:43| Comment(2) | 映画