2014年01月29日

冬の朝〜ルノルマンの歌声

ジェラール・ルノルマンは1945年生まれ、1970年代から活躍するフランスのシンガーソングライター。
高音で、線の細い、ヴィブラートの強いハスキーボイス、フランス語の明瞭さとぴったり決まる音程の良さが心地よかった。
youtubeなどで若いころの映像を見ると、ちょっと挙動不審(!)、神経質そうで少々狂気をはらんだ表情で歌っているものも多い。
そんな彼がアイドル的な人気まで持っていたというのは、お国柄なのだろう。
ハツラツ堂々とした態度のイタリアのシンガー、ジャンニ・モランディ(1944年生まれ)らと、大きく異なるのが面白い。
ルノルマンの歌唱はリズムの取り方に特徴があって、速度が速い曲も緩やかな曲も共通して微妙に伴奏とずれる。これが実に良い味で、決してイヤミにならない。単語がしっかり聞き取れるように配慮ゆえなのかもしれない。彼が「フランス人が愛するフランスのシンガー」であり、「歌詞の響きの美しさ」で多くの賞を得ていることも頷ける。



   冬の朝(冬の朝に見た夢は)
                 
   冬の朝を覚えている
   薄暗い夜と氷の中 僕は兄と並んで歩いた
   学校へ行く途中
   僕は友達と凍てつく風の猛攻撃の下で
   震えながら笑いながら雪合戦に興じた

   やがて教室に到着すると
   先生は僕たちを別の場所に座らせる
   もはやおしゃべりはできず
   僕たちはそれぞれ1人であると思わされた
   教室の古いストーブの暖かさの波に揺れながら
   僕たちの心は他の場所を彷徨い始めた 砂浜へ
      そう 毎日が暖かく美しい 僕たちの人生を蘇らせるところ
      学校のない完全に自由な夢
      そう 毎日が暖かく美しい 僕たちの人生を蘇らせるところ
      学校のない完全に自由な夢

   僕はあのすえた匂いを思い出す
   僕たちのあの教室
   夜明けの最初の淡い光
   すりガラスの窓ごしの 柔らかい目と悲しい顔を覚えている
   授業中に僕が見た夢の あの島々と
      そう 毎日が暖かく美しい 僕たちの人生を蘇らせるところ
      学校のない完全に自由な夢
      そう 毎日が暖かく美しい 僕たちの人生を蘇らせるところ
      学校のない完全に自由な夢
      
      ラララララ・・・


かなり意訳だが、だいたいこんなことを歌っている。
退屈な授業中の白昼夢。
僕自身は、結構授業に集中してしまうタイプの子だったので、あまりこういう経験はない。
でも、雪の日の登下校の楽しさや、暑すぎるほどのストーブ、
窓から見た雪の校庭の美しさは今でもはっきりと思い出す。
たくさんの友達の笑顔や声とともに。
「放課後、公園でゆきだるまを作ろう!」とか「雪合戦しよう!」とか
雪は寒さより楽しさを運んでくれるものだった。

今年は、雪は降るのかな?


posted by あひる★ぼんび at 23:36| Comment(0) | 音楽

2014年01月23日

オッターのメロディとシャンソン

アンネ・ゾフィー・フォン・オッタ―はスウェーデン生まれのメゾソプラノ。
バロックから新ウィーン楽派に至るまでのドイツ系作曲家全般や、近代の北欧作曲家の作品演奏で、高い評価を得ている。
クラシックだけでなく、クリスマス・ソングアルバムや、エルヴィス・コステロ等との共演アルバムもリリースしていて、音楽の幅の広さを感じさせる歌手だ。
コントラルト音域からメゾ、あるいはソプラノまで声域は広いが、どちらかというと軽い印象がある。
シベリウスやグリーグでは、その透明な声質が生かされ、美しい世界を作り出してくれていた。
そのオッタ―が今回とりあげたのはフランスの「歌」。

otterfran.jpg優しきフランス〜メロディとシャンソン
 *アーン、サンサーンス、フォーレ、
  ラヴェル、ドビュッシー、レフナーの歌曲
 *バルバラ、トレネ、ルグラン、コスマ、
  ムスタキ、フェレ、ルノワール他のシャンソン


アンネ・ゾフィー・フォン・オッター(メゾソプラノ)
ミュージシャン多数
(ナイーヴ 2枚組 フランス輸入盤)


1枚目にはアーン、サンサーンス、フォーレなど、フランス近代の芸術歌曲(メロディ)をピアノと室内楽伴奏で、もう一枚は、「パダンパダン」や「枯葉」などの古今のシャンソンの名曲集をサロン風アンサンブル伴奏で収録している。
オッタ―のフランス語は本場のものよりずっと聞きやすい。
つまりフランス人が聞いたらたぶんちょっと変??まあ、それはどうでもいい。
ドイツ語のように歯切れが良くなりすぎかな?という曲もあるけれど・・・むしろ粘りが少ないさっぱり味な分、メロディラインが際立っているように感じる。そしてなにより、全体を通して「心が歌っている」という至福の時を味あわせてくれるような、素敵な歌の花束に仕上がっている。

1枚目の「芸術歌曲」は作曲家による個性よりも、オッタ―の音楽性で統一されている。
過剰な表現を避けた印象で、選曲も穏やかなものが多く、声を張り上げるようなものはない。
まるでR・シュトラウスの「Morgen」のような朝の陽の光に満たされた静かな世界が続く。
最後に、サンサーンスの「死の舞踏」の室内アンサンブルと声楽版が、それまでとは幾分異次元の音楽に思えたが、これは2枚目の「シャンソン集」への布石になっているのかもしれない。
2枚目の「シャンソン集」は、売れっ子のクラシック歌手が、片手間に録音したものとは全く異なる素晴らしいもの。
クラシック風からジャズ風まで、アレンジも多彩であり、それぞれの奏者の見事な腕に支えられて、楽しく美しい音楽を展開している。
こちらは夜の雰囲気と、冬の気配。
それはわれわれ日本人がイメージしてきた「パリの風景」とは明らかに違うのだが、ピアフやトレネらのオリジナルとは異なった、しかし紛れもない「シャンソン」を聴かせている。
これらの歌はフランスでもナツメロ的に、もはやほとんど聴かれないものなのかもしれない。
そんな歌たちに、むしろクラシックの魂を宿すことで、新しい生命を得たように思えた。

シャンソンは歌詞の物語性で聴かせるもの、というイメージがあるが、歌詞の内容がわからなくても、言葉の響きと音楽の力、声の表情で楽しめる。感動も深い。そんな歌の力を再確認したアルバムだった。

posted by あひる★ぼんび at 23:39| Comment(2) | 音楽

2013年12月23日

冬の歌



冬の歌

息子よ、こんなに遅くにどこに行くの?向こうの森へは行かないで
妹は決して見つけられないよ、おお、あたしと一緒にいておくれ!
外はとても冷たく、荒れていて、風も激しく吹いている
ひとりで森に行くのかい、おお、あたしと一緒にいておくれ、我が子よ!

おお、母さん、母さん、ぼくを行かせて その目の涙を乾かせて
妹はぼくがきっと見つけるよ そして連れて帰ってくるから
あの子を見つけるまで ここでのんびりなどしてられない
雪や風にはぼくは慣れてる すぐに母さんのところに戻るから

母は長いこと彼を見送り 彼は森へと入っていった
風は静まり夜は過ぎ去った けれども彼は帰ってこない
雪が解け 風も去り また太陽が輝いて
花と緑が咲きあふれても 母はひとりぼっちのままだった

Winterlied

Mein Sohn,wo willst du hin so spat? Geh' nicht zum Wald hinaus,
Die Schwester find'st du nimmermehr,O bleib' bei mir im Haus!
Da drausen ist's so kalt,so rauh,und heftig weht der Wind;
Bist ganz allein im weiten Wald,o bleib' bei mir,mein Kind!

O Mutter,Mutter,las mich zieh'n,trockne die Tran' im Blick,
Die Schwester find' ich ganz gewis und bring' sie uns zuruck.
Bis ich sie find',ist doch kein' Rast,ist doch kein' Ruhe hier;
Den Schnee und Wind bin ich gewohnt,bald kehr' ich heim zu dir.

Die Mutter sah ihm lange nach,er ging zum Wald hinaus;
Der Wind ward still,die Nacht verging,doch er kehrt' nicht zum Haus.
Und der Schnee zerschmolz,der Wind verweht',kam wieder Sonnenschein
Und Blut' und Blatter uberall: die Mutter blieb allein.

メンデルスゾーンはこのスウェーデン起源の民謡詩に、シンプルだがしみじみとした音楽をつけている。それは静かだが寂しく厳しい冬の情景である。

この詩には思い出がある。
高3の受験直前の冬、この民謡詩を元にして物語を書いたことがあった。
わずか十数行で完結しているものを、大きく拡張してしまうのはナンセンスだったかもしれない。けれど、北欧の冷たい冬の情景と、妹を探して森をさまよう少年、帰りを待ち続けるひとりぼっちの母の姿が、奇妙なほどに心に焼き付いて、もっと描き込みたい衝動にかられたのだった。
大学ノート1冊分に膨れ上がった物語は詩情を越えてオカルトっぽくなってしまった。
しかし、友人たちには好評だった。
ノートは下級生や自分の良く知らないメンバーにまで回覧され、卒業前までに感想ももらえていたが、手許に戻ってくることはなかった。
受験期の焦燥感の裏返しで、さまざまな「余計なこと」をやっていた。
この曲を聴くたび、そんなことも思い出すのだ。




posted by あひる★ぼんび at 23:58| Comment(0) | 音楽

2013年12月15日

BRIO〜ROMANCE

BRIO?
はて、何だ?最初そう思った。
まず聴いてみた。
暗い。
いきなりのレッテル貼りになってしまうが、これは暗い。
よくもここまで短調の曲、しかもミディアム&スローの曲を集めたものだ、と思った。
だが、しみじみとしていて、とても心地よい。歌詞の意味はまるでわからないが、何か雰囲気だけで気持ちを委ねられる。つまり「哀」ではあるが「鬱」ではないのだ。

brio-ro.jpg
ROMANCE
  セファルディとガリシアの音楽

BRIO
ラリー・リプキス
ホセ・レモス(歌)

(DORIAN 米国輸入盤 )


「BIRO」は古い音楽を現在に再現するために結成され、3人の奏者が撥弦楽器・管楽器・打楽器を持ち替えて演奏するスタイルの音楽ユニット。ここにカウンターテナーのホセ・レモスが加わって、スペイン系ユダヤ人(セファルディ)の伝承曲とスペイン北西のガリシア地方の音楽、そのほか古い歌謡を集め一枚のアルバムを作った。
先日の「ラルペッジャータ」からオシャレさと娯楽性を取り去ったようなサウンドは、民族音楽的に素朴でシンプルだ。
独唱のレモスは現在活躍中の若手だが、ここでは地の声を混ぜ、ポピュラーソングのように軽く自然に歌っている。よくあるカウンターテナーのリサイタルアルバムのような「聴きづらさ」は全く感じない。
反面、曲によっては煮え切らなさも残す。おそらく彼なら可能なはずの技巧的なメリスマを入れてみては?とか、ちょっと派手に高音を響かせてみては?と思ってしまうからだ。
音楽はあくまで淡々と、しかも下へ下へと沈み込むようだ。この辺のバランスが難しいのだろう。彼は多分、ツェンチッチやジャルスキ―とは違う路線にあるのだ。
彼にはモンテヴェルディやメルーラなどの定番を歌った別アルバムもあって、それも聴いたのだが、そちらはオーソドックスなカウンターテナーの声質と歌唱法ながら、何か模索しているように感じた。それより数段、こちらは生き生きとしている(曲はホント暗いけど・・・)。
これもひとつの個性として、この音楽界に長く生き残ってほしいと思った。

さて、ラルペッジャータでも感じていることなのだが、こうして聴こえてくるのは、いわゆる「古楽」でもなく「民族音楽」でもない不思議な、独特の音楽だ。
その色合いは、作曲家やとりあげた音楽の国籍に起因するわけではなく、あきらかに演奏家たちが発散している演奏オーラ(?)によるもの。
それはジャンル名をわけて確立させるにはマイノリティに過ぎるのかもしれないが、あきらかにこうして存在している個性的なものなのだと思う。
僕は結構、好きである。

posted by あひる★ぼんび at 23:50| Comment(0) | 音楽

2013年12月13日

ラルペッジャータのアルファレーベル集成

L'Arpeggiataをカタカナ表記すると「ラルペッジャータ」となる。「ッ」の位置がこれなので、発音に苦慮する。というか、単純なはずのに、なかなか覚えられない名称だった。
主宰者クリスティーナ・プルハールのルックスもまた、ありふれているようで個性的な…ストレートのロングヘアに前髪ぱっつん…年齢不詳な雰囲気が怪しげ(^^;)
そのラルペッジャータがアルファレーベルに録音した5種6枚のアルバムをまとめたボックスセットがリリースされた。

plu1b.jpgラルペッジャータ アルファレーベル録音集
  *カプスベルガー:ヴィラネッラ
  *ランディ:作品集
  *カヴァリエリ:魂と肉体の剣
  *ラ・タランテラ〜タランチュラの毒を清める方法
  *インプロヴィーソ、チャッコーナとベルガマスカ

クリスティーナ・プルハール:リーダー
ラルペッジャータ  ソリスト多数
(Alpha 6枚組 ドイツ輸入盤)


現在はヌリア・リアルやフィリップ・ジャルスキ―らのスター歌手との共演でヴァージンクラシックスからリリースを続けている彼女らだが、このアルファからのものも、特に昔のもの、というわけではない。
ラルペッジャータは「17世紀初頭のイタリア、ナポリ音楽に重点を置き、ほとんど知られていない音楽を蘇らせること」を目的に2000年に結成した団体なので、すべてそれ以降、これは2000年から2005年の録音である。

聴いたことがある人にとっては「想像の通り」のサウンドが展開される。
いわゆる「古楽」に西ヨーロッパの民族性を融合し、時代考証にこだわらない独特のスウィング感を持つ演奏になっている。この折衷をどっちつかずの中途半端とするか、洒落ていて聴きやすいと考えるかで評価が分かれるだろう。
5種の内訳は、まず、デビュー盤にあたるカプスベルガー(1580-1651)とランディ(1586-1639)にちなんだ作品集で、これらはクラシック系の歌手を起用し、純粋な古楽を心掛けている。
そしてアンサンブルの規模を拡大したカヴァリエリ(1550-1602)の大作「魂と肉体の剣」、そしてトラッドな歌手たちと共演し、自由な発想とリズムで埋め尽くした2つのアルバムが続く。
これらは、ほぼ同時代の音楽を題材に活動を続けているサヴァールたちの音楽とはかなり色合いが異なっている。
だが、どちらの様式が正しいか、などというのは野暮だろう。
どれもこれも、今聴くことができる「今」の音楽。
演奏家たちのオリジナル曲も、500年前の曲も、同じ「音楽」なのだ。
悲しみを和らげ、癒し、楽しみを与え、怒りを演奏の熱で昇華する、時代時代の感情が生み出した芸術。
どこの国のどんな時代の音楽も自由に聴くことができる「今」という時代に何より感謝したい。

posted by あひる★ぼんび at 21:38| Comment(0) | 音楽

2013年11月28日

グラフィティ〜ポンペイのいのちの記録

「遺跡」と聞くと、特別なものと考えて、特に神聖なものと結びつけてしまう傾向がある。
実像はそうではないはずだ。
すべては、そこで誰かが生きた痕跡であり、生活臭があってしかるべきもの。
現代の生活と切り離して考える癖がついてしまっているが、古代の人がすべての生活を神に捧げていたわけではないし、むしろ経済に対する義務が小さい分、もっと素朴な毎日があったはずだ。

ポンペイの遺跡というのがある。
ナポリ近郊の古代都市で、最盛期には2万人を超える人口だったらしい。
62年と79年のヴェスヴィオ火山の連続大噴火で壊滅した。
ポンペイは、一瞬での壊滅が不幸中の幸いとなって、壁の落書きからレストランのメニューまで灰の中から発掘され、その商業的に発展していた当時の豊かな生活が知られることとなった。火砕流による直撃ではなく、灰と土砂で埋まった人については、これも瞬間だったことで、遺体が朽ちて亡くなったあとが空洞になったという。のちにそこに石膏を流していくつかの復元像までも作られている。あまりにも生々しい悶絶するようなポーズの石膏像は自然の力の恐ろしさを実感させるようだ。

lind.jpg
M・リンドベリ:
  グラフィティ(2009) 〜混声合唱と管弦楽
  太陽を見よ(2007) 〜管弦楽


ヘルシンキ室内合唱団
フィンランド放送交響楽団 サカリ・オラモ(指揮)

(BIS スウェーデン輸入盤)



「ブロンズの桶が店からなくなりました。取り返してくれたなら、65セステルティウスを差し上げます。また、泥棒を教えてくれて、結果取り戻すことができたら、20セステルティウス差し上げます」
1958年生まれのフィンランドの作曲家、マグヌス・リンドベリが、ポンペイで発掘発見された「落書き」をテキストに合唱と小編成の管弦楽用に書いた作品である。

曲は35分ほど。合唱と室内管弦楽で繰り広げられる。
オルフの「カルミナブラーナ」ほどエネルギッシュではないが、活発で原始的な味わいがある。(メロディは多少「ゲンダイオンガク」な不安定さがあるけれど…)
歌詞内容は「落書き」なので当然とるに足らない内容なのだろうが、ただ聞いていたのでは全く意味が解らず、上品な経典からの引用と同じに響く。
リーフには英訳があるので読んでみるといい。
冒頭の一文のほか「俺たちは勇んでここに来た。それ以上の情熱でここから帰りたいのだが、あの女が足を縛ってしまった」
「もうけは幸せ」
「あなたは死んだ。もう何でもない。」
「なんとついてるオレ」
…そんな言葉を大真面目に歌っているという屈折した面白さ。
意味がわかればもっと楽しめる音楽だろうと思う。
正直、この音楽そのものに感動するのは難しい。
歌詞を補助的に描写するオーケストレーションもなく、滅びを暗示する音の構成もない。
かすかな音でさりげなく始まり、あっけなく終わってしまう。
けれど、並べられた文字列、言葉の響きで「生きている」ことに思いを馳せることができた。
2000年近く前だろうと、人は人。喜怒哀楽も欲も野心も持っていた。
彼等の時間は一瞬で町ごと停止した。
それを考えると何かとても不思議な気がする。
…2000年後、こんなネットの「落書き」はどうなっているだろう。僕たちが生きた痕跡はどうなっているのだろう…か。

何事もなく続いてきて、また続くはずだった日々が、突然に終わってしまう。
なんと恐ろしいことだろう…。

・・・

日本も火山の国なのだよね(汗)

posted by あひる★ぼんび at 23:06| Comment(0) | 音楽

2013年11月17日

マスカーニ・イン コンサート


mas-nose.jpg「イン・コンサート」〜管弦楽曲集

マスカーニ:
  コウノトリの神格化
  ヴィジオーネ・リリカ(叙情的映像)
  人形のガヴォット/異国風の踊り
  アヴェ・マリア/私の最初のワルツ
  パードレ・ノストロ(主の祈り)
  セレナータ(声楽と管弦楽編)
  組曲「永遠の都」


ジャンアンドレア・ノセダ(指揮)フィラルモニカ900
ルチアーノ・ガンチ(テノール)
(chandos イギリス輸入盤)


ここ数年、イタリア近代の「管弦楽曲」を積極的に録音しているノセダが、今回はマスカーニをとりあげた。
マスカーニと言って思い浮かぶのは、イタリア人以外からすれば「カヴァレリア・ルスティカーナ」と「友人フリッツ」、ちょっとマニアックな人で「イリス」…その程度だろう。
しかし大衆的な人気を得るにはそれだけでも充分なのかもしれない。
「カヴァレリア」は上演時間も短く、ストーリーもわかりやすく、メロディーも情熱的。
大ヒットもうなずけるものだ。
そんな音楽を期待して聴衆から、もっと、もっと、マスカーニ自身も2匹目のドジョウを…
と、そうならなかったのは不思議だが、活躍時期からすると、二つの大戦によるヨーロッパの混乱が大きなマイナスだったのだろう。
さらに、晩年は不幸だった。
庶民出身であり、大きな人脈を持てなかった彼は、スカラ座劇場の総監督の座を得るために、時の権力者・ムッソリーニに迎合し、ファシズム崩壊と共に破滅してしまう。
「貧しいパン屋の息子が、音楽の才能を開花させ指揮者・作曲家としてイタリア音楽界の最高峰に登り詰めるが、野心の果てに破滅」…彼のそんな人生そのものが、まるでヴェリズモオペラの台本のようだ。

さて、このアルバム。管弦楽曲集とはいっても、人気作曲家となる以前の純音楽(交響曲等)を収めているわけではなく、オペラ関係の編曲物を含む、重くない楽曲を集めている。
オーケストラの音もかなりおとなしく、ヴェリズモオペラの情熱を想像すると肩透かしにあうかもしれない。
初聴きの曲ばかりでも、マスカーニ独特の旋律の歌い回しは堪能できる。
おそらく、この中で知られている曲と言えば「アヴェマリア」ぐらいだろう。これは有名な「カヴァレリア」の 間奏曲に歌詞をつけたもので、イタリア系歌手のリサイタル盤で時折見かけるものだ。
珍しい曲を集めた貴重なアルバムではあるが、しかし、今回の演奏は…何かすわりが悪い。
3曲を歌うガンチはかなり淡白で、非力とは言わないが、こんなに大真面目に歌ってしまったら、まるで油抜きのウナギのかば焼きのようだ。
このアルバム全体を通して感じるのだが、マスカーニには世俗の毒が、きっと必要なのだ。
真面目に丁寧に演奏しただけでは良さが伝わらないという、演奏家にとって、きっと難しい音楽なのだ。
とはいえ最後に収録された「永遠の都」幻想的な不思議さも持ち、面白く聴けた。
ラストに淡々と流れ続ける静かな鐘の音が美しい余韻を残す。


posted by あひる★ぼんび at 23:35| Comment(0) | 音楽

2013年11月13日

新鮮な古楽〜ヤーコブスのマタイ

全体を通して、活発で明るい。活き活きとした弦、開放的な管、明瞭な発音の合唱、明るく、華のある独唱者達の声。
「この曲がそんなことでいいのか?」などと、考える隙すら与えないままの、超快速2時間40分だった。
受難曲なのに、まるで祝典音楽あるいはバロックオペラのような、一種の豪華さを伴う演奏だった。
以前にも書いたことだが、個人的には、バッハの宗教曲は「ロ短調ミサ曲」にしても、この「マタイ受難曲」にしても、あまり得意ではなくて、聖書への理解の薄さと曲の長さで敬遠していた。
食わず嫌いもいけないので、機会があれば演奏会にも足を運んではいるが、行くたびにいつも「3時間のガマン大会」を経験している現状だ。
このジャンルで有名な邦人演奏家Sさんのグループや、ベルギーの大御所Hさん…地元のホールは、売れ線の外来メジャーオケだけでなく、結構な頻度でこの種のものもとりあげてくれるので、それは嬉しいのだが…
ライヴ特有の傷、などという生易しいものではない演奏事故に遭遇しがちで、いかにこれらが難曲なのかということを思い知る。

しかし今回のこれはライヴではなく綿密に編集されたセッション録音なので安心して曲に身を委ねることができる。
しかもSACD、それもいわば「全方向サラウンド」なのだ。

jacomathha.jpgJ.S.バッハ:マタイ受難曲 BWV.244

 ヴェルナー・ギューラ(テノール/エヴァンゲリスト)
 ヨハネス・ヴァイサー(バス/イエス)
 イム・スンヘ クリスティーナ・ローテルベルク(ソプラノ)
 ベルナルダ・フィンク マリー=クロード・シャピュイ(アルト)
 トピ・レーティプー ファビオ・トゥリュンピ(テノール)
 コンスタンティン・ヴォルフ アルットゥ・カタヤ(バス)

 RIAS室内合唱団 ベルリン大聖堂合唱団 ベルリン古楽アカデミー ルネ・ヤーコプス(指揮)
(HM SACD2枚+DVD EU輸入盤)


ヤーコブスの演奏配置は第1合唱を正面に、独唱者と合奏団をその前に。
後方側向い合せに第2合唱と独唱、第2合奏団。これらが曲ごとに様々な組み合わせで演奏を展開している。
バッハはこの曲の改訂稿以降にこの「2グループ化」を取り入れたようだが、現代の音楽ホールでは統率上実用的とはいえず、結局は舞台上に2グループ並べて配置することになる。
だから、今回のヤーコブスのチャレンジは画期的といえるだろう。
面白いのは初期稿にあった「リュート」を復活させていること。
撥弦楽器のリズムの刻みは全体にリズミカルな活力を与えるのに実に効果的だ。

この録音は、合唱パートの人数や、初期稿・改訂稿折衷の編成をみても「バッハの生前の特定の時代考証を綿密に再現した」という種類のものではない。
その時代の音楽文化の活力と娯楽性をヤーコブス流に描き出した一種の現代作品とも言えそうだ。彼のモーツァルトの一連のオペラ録音と共通の「大きな生命力」…時にそれは粗野に過ぎたり、時代の枠を飛び出し気味なほどの…がそこにある。
演奏の隅々から「音楽を楽しもう!」そんな言葉が聴こえてくるようだった。

これだけ素晴らしい「マタイ」だが、ただひとつ2枚目の冒頭がなぜその部分?
プレスミス?編集ミス?と聴き直してしまった。
いっそ全曲まるごと1枚に入るBD−Aだったらどんなに良かったか、と思った瞬間だった。

マルチチャンネルで聴く場合、リアスピーカーから響くのは残響成分ではなく、フロントと同レベルの第2合奏・合唱・独唱そのものの音声なので、環境にあわせてバランスを調整してから楽しむことをお勧めする。
ステレオでも充分良い録音だと思うが、そうするとリアの分は遠めの音像なので、だいぶ印象が違っている。これはぜひ、マルチチャンネルで楽しむべきだ。
人工的なサラウンド付加ではないので、かなり刺激的な体験ができる。

posted by あひる★ぼんび at 23:17| Comment(0) | 音楽

2013年09月27日

サンスざんす。

アレハンドロ・サンス(アレハンドロ・サンチェス・ピサーロ)はスペインのシンガーソングライター。
91年に最初のアルバムを出している。当時の彼の音楽は、普通にあるスペインのポップスにイタリア風味を加えた感じの、どちらかというと古風なスタイルだった。
その歌唱には発声のムラというか、一種の荒さがあって、必ずしもうまくない…という印象があった。例えるならリカルド・コッチャンテのような(どっちにしてもわからない?かw)
大ヒットを飛ばすようになった97年頃からは、聴きやすく、メロディをしっかり歌いこむタイプの歌手に成長している。
20年以上過ぎて、現在では完全に自分のスタイルを確立したようだ。

ales.jpg

アレハンドロ・サンス
スタジオ録音アルバム集1991〜2009

(WEA 8枚組 EU輸入盤)


これはデビューから2009年までの8枚のスタジオアルバムに、デモ音源など24曲を加えたボックスセット。
1枚1枚、発売時のデザインのダブルジャケットに収められている。
外側のボックスともども紙質が薄くて少々頼りないが、印刷もきれいだし、なによりオリジナルのリーフがちゃんとついているのが良い。歌詞をいちいち読むわけではないけれど、アートワークにはアーティストや製作者の思いがあるわけで、実は重要な事だと思う。
こうしてデビューアルバムから順に聴いていくと、すんなりと耳に馴染む歌声は思ったより心地よかった。
初めて聴いた頃は、彼のルックスの○山雅治的なちょっとすかした雰囲気が抵抗感になってたかな?
実際、ジャケの写真も初期の頃は英米アーティストを意識したもので、アイドルっぽかった。
それが次第にラテン!スパニッシュ!なスタイルに変化しているのが面白い。
音楽そのものは大ヒット以降も大きな変化はなく、冒険がないぶん安心して聴ける親しみやすいスパニッシュポップスになっている。
この芯のぶれのなさがすごいと思う。
スペインやラテン諸国を中心に結構な人気なようだが、日本ではほとんど聴かれていない。
いい歌手なのになぁ・・・。
それにしてもこの人のスペイン語、ほんと早口だ(笑)

posted by あひる★ぼんび at 23:40| Comment(0) | 音楽

2013年09月03日

マンドリンずくしのヴィヴァルディ

ヴィヴァルディの協奏曲のアルバムなど、もはや珍しくもない…多くの人がそう思うはずだ。そのために演奏側もあの手この手を繰り出して、それはそれで面白い発見もできるのだが、何やら「初心の感動」から遠ざかっているように思えることがある。
たまに、昔のイ・ムジチの、抑揚たっぷりの歌うような演奏を聴くと、そんな思いにかられるのだ。

これも一見「あの手この手」の一枚と映るのだが、企画録音は1975年である。
まだ原曲すらリリースのなかった時代に、そこから編曲してアルバムを作ってしまったという大胆企画なのだ。しかし、違和感全くナシ。

viv-mandss.jpgヴィヴァルディ(ベーレント編曲):
・合奏協奏曲ハ長調
・リュート協奏曲・オーボエ協奏曲ハ長調
・マンドリン協奏曲ハ長調
・ヴィオラ・ダモーレとリュートのため協奏曲ニ短調
・2つのオーボエのための協奏曲ハ長調

越智敬、シルヴィア越智(マンドリン)佐々木忠(リュート)
レイマー・ペータース(ヴィオラダモーレ)
Pierre W. Feit、ディートヘルム・ヨナス(オーボエ)
ジークフリート・ベーレント:指揮/ドイツ・ツプフオーケストラ
(ACANTA・MEMBRAN ドイツ輸入盤)


ヴィヴァルディはイタリアの作曲家ということもあり、マンドリン等の撥弦楽器をソロにした協奏曲もいくつか残している。それはこの楽器の愛好家を中心に支持され演奏され続けている。
で、これもそれを集めたものだろう、と思った。が、まるで違った。
オリジナルのマンドリン協奏曲は2曲だけで、他はオーボエやヴィオラ・ダモーレ、リュートの協奏曲をマンドリンアンサンブルで伴奏しているのだ。
パッケージ表面にもリーフ内にも元曲の整理番号や楽譜資料の手掛かりが全く書かれていないので、直接耳を通すまで全くどの曲が入っているのか見当がつかない。
同名異曲、異名同曲が何百にも及ぶヴィヴァルディで、これはいけないと思う(^^;)

マンドリンは音量はそこそこなのだが、いかんせんサスティンが短く、そのためにパワーに結びつかない。
特に単音ではプツプツペンペンになってしまう。それをカヴァーするのがポピュラーの世界で多用される「トレモロ奏法」だが、ヴィヴァルディ時代にはそれほど使われなかった。だからここでは当然聴かれない。
よって、プツプツペンペンは合奏化しても変わらない。
そんな少々ぶっきらぼうな表情の合奏に、音量操作が困難なオーボエが入ってくると、もはや異種格闘技、かなり不思議なサウンドになる。だがこれがとても面白い。録音レベルをマンドリン合奏の響きに合わせた都合なのだろう、オーボエが巨人化している。そのアンバランスが生み出す微妙なローカル色(つまり田舎っぽさ!笑)が、かえってヴィヴァルディのメロディに生命力を与えている。これはおそらくバッハではありえない現象だ。
演奏は、ヨーロッパで活躍のベテランマンドリン奏者・越智敬ほか。
ほとんどが明快なハ長調主調の曲が集められ、独奏楽器が変わっても一枚を通してずっと同色だが、それでも楽しめる豊かな歌のあるアルバムに仕上がっている。

マンドリンは、庶民に愛され、長い歴史を生き抜いた伝統ある楽器。しかし、オーケストラからはずれ、貴族や富裕層から離れていったからだろう、絵画に描かれる機会も少なかったようだ。このアルバムのジャケットも、手にしているのはマンドリンではなく、リュートである。それにしてもこんな少々陰気くさい画ではなく、もっと明るいアートワークにすればいいのになぁ・・・。
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2013年08月29日

わたしの血〜オードランのグリーグ

gri-123.jpg
グリーグ:管弦楽曲集第1集
・交響的舞曲集 Op.64
・劇付随音楽『ペール・ギュント』第1組曲 Op.46
・劇付随音楽『ペール・ギュント』第2組曲 Op.55
・リカルド・ノルドロークの思い出のための葬送行進曲 EG 107

グリーグ:管弦楽曲集第2集
・2つの悲しい旋律Op.34(胸のいたで/過ぎし春)
・組曲『ホルベアの時代より』Op.40
・2つのメロディOp.53
・2つのノルウェーの旋律Op.63

グリーグ:管弦楽曲集第3集
・演奏会用序曲『秋に』 op.11
・抒情組曲 op.54(羊飼いの少年/ノルウェー農民の行進曲/夜想曲/トロルの行進)
・鐘の音 op.54-6(ザイドル編曲)
・古いノルウェーのロマンスと変奏 op.51
・組曲『十字軍の兵士シグール』op.56(王宮にて/ボルグヒルの夢/忠誠行進曲)

 ケルンWDR交響楽団(ケルン放送交響楽団)/アイヴィン・オードラン(指揮)
(audite SACD ドイツ輸入盤)


グリーグの録音は、これまでスウェーデンのBISが北欧のアーティストを起用して積極的にとりくんでいるが、これはドイツのauditeレーベルによる連続リリースで、指揮者こそノルウェー人だが、オーケストラはケルン放送交響楽団である。
ローカル色の強いグリーグにあっては、圧倒的に地元及び近隣北欧諸国の演奏家が有利になるのだが、この演奏はすでに定評のケルンの、機能的で上質のアンサンブルでじっくり聴かせる演奏になっている。
歌いすぎない、踊りすぎない、吠えすぎない。だが、堂々としていて、せせこましさがない。
どちらかというと暖色の音に感じるのだが、こんなに聴きやすい演奏はめったにないと思った。
指揮者のオードランはグリーグと同郷、ベルゲンに生まれ育ったという。
「この音楽の風味は、わたしの血です」と語るとおり、作品の隅々にまで愛情を込め、いのちを吹き込もうとしているように感じられた。
メニューインからヴァイオリンを、パヌラから指揮を学んだと言う彼は、大変バランスに優れた耳を持っているようで、グリーグがおそらく「ここはこのパートの旋律を生かしたい」と思ったろう箇所を浮かび上がらせる。
北欧諸国の主要オケやドイツで活躍し、かなり高い評価を得ているときいている。

最近はなぜか滅多に出会えなくなった声楽抜きの純粋組曲版のペールギュントも、当然ながら収録されている。
空耳はなはだしく、「山の魔王の宮殿で」や「アラビアの踊り」で、いるはずのない合唱の響きがはっきりと聴こえてくる。
自分の場合、バルビローリやビーチャムの声楽入り抜粋を幼いころから聴いていて、しかも近年はセリフ入りの全曲盤ばかりに接していたせいもあるのだろうか…?
ただ、小6の音楽の時間に聴いたもの(演奏者不明)や、低学年の頃に母に買ってもらったLP(カラヤン指揮ウィーンフィル)では、こんな声楽空耳はなかったように思う。
改めてカラヤン盤を聴いてみたが、やはり空耳はおきなかった。自分の脳の構造を面白く思った。
たぶん、この演奏の音に、なにかのスイッチがあるにちがいない。ふしぎな演奏である。

どれも最近のセッション録音で、鮮明なSACD盤。マルチチャンネル時のリアはかすかなアンビエントのみ。
ただ、トラック間にもう少し余裕を持ってほしい気もした。 まあ、それは演奏とは関係のないこちら側のわがままだ。
現在3集まで出ているが、5集まで続く予定らしい。先がとても楽しみだ。


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2013年08月10日

フォルクスリーダー

2010年にリリースされた「ドイツ民謡集」。

dvl-so.jpg

私が小鳥だったら〜ドイツ民謡集(24曲)
ドイツで活躍中の著名な歌手による

(SONY ドイツ輸入盤)


ハードカバーのブック装丁がされた丁寧な作りのアルバム。
栞にお使いくださいということだろうか、小鳥のイラストカードが1枚付録している。
それぞれの曲には、歌詩がイラストとともに記載されている。
さらに作詩・作曲者または出典となった楽譜の名称、年代、が書かれている。
同名異曲・異名同曲の多いジャンルなので、この2〜3行のわずかな文字列が、愛好家にはとても嬉しいものだ。

演奏は、全体的にかなりガチっとした印象。
内容からしたらもう少し楽しげでもいいかな?とは思うものの、ブラームスが編曲した民謡集の雰囲気で、あくまでクラシックの声楽アルバムになっている。
数曲で編曲とピアノを担当しているヘルムート・ドイッチュの真面目さも影響大だと思った。
演奏には、ゲハーエルやキルヒシュラガーといった有名どころも参加、さらに、ワーグナー歌手として売り出して、不評スタートとなってしまったクラウス・フローリアン・フォークトも数曲歌っている。彼はきわめて柔らかい歌いくちで、この人は楽劇よりリートとオペレッタで勝負すれば良かったのに…どういう経緯であのようなセールスになってしまったのだろう…と改めて思ってしまった。

これらの演奏、あちこちからの寄せ集めではなく、ニューセッションである。
おりおりに数多く収録をして、そこから抜粋したのだろう。
ベルリンドイツラジオとバイエルン放送協会のロゴがついているので、何らかの番組プロジェクトなのだろうか、と思う。

「民謡」と呼ばれるものは本来「ある楽曲がヒット→聞きかじりで歌う人続出→楽譜を離れて流布→似て非なる別の曲として存在し続ける」のパターンを踏んだものなのだろうが、そういった経緯の曲はここにはほとんど採用されていない。
つまり、このアルバムは、ドイツ伝承曲集ではない。
ハイドン、モーツァルト、ライヒャルト、シューベルト、ブラームス、そしてジルヒャー…そういった著名な作曲家が作り、正規に出版された「民謡風のリート集」である。
例外的なのは、モーツァルトの魔笛のパパゲーノの歌のメロディを借りた替え歌と、ボーナストラックの素朴なトラッドアレンジの曲だが、これがなかなか楽しい。
ジルヒャーがリート編曲した「タラウのエンヒェン」や、「3つのバラ」「ローレライ」などは、いわゆる「民謡集」の定番だと思うが、シューベルトの「菩提樹」は、ジルヒャーが最終節のメロディを使って有節歌曲にした愛唱歌集で有名な版ではなく、「冬の旅」第5曲がそのまま歌われていたりする。また、少しも民謡風ではない「リュートに寄せて(ロホリッツ:詩)までそのまま入っていたりする。
そんなふうに全体的に選曲の方針は今一つ不明だが、外国人、特に文化の全く異なる現代の日本人にはとっては、そもそも「楽しく聴ければそれで良し」なのかもしれない。

ここ数年、CarusからSWR(南西ドイツ放送)第2のプロジェクトとして同コンセプトのアルバムが数多く出ている。
ドイツでは流行なのかな???
きわめてまじめな安らぎ。耳にやさしく、とても心地よかった。


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2013年08月03日

アナログ時代の楽しい音楽


maribe.jpgマルティノン/フランス音楽名演集
・イベール:ディヴェルティメント
・サン=サーンス:交響詩「死の舞踏」op.40
     交響詩「オンファールの糸車」op.31
・ビゼー:組曲「子どもの遊び」op.22
・マスネ:歌劇「ル・シッド」からのバレエ音楽(7曲)

ジャン・マルティノン(指揮)
パリ音楽院管弦楽団 イスラエルフィルハーモニー管弦楽団
(DECCA ユニバーサル)


高校時代、イベールのディヴェルティメントのこの演奏が好きだった。
当時聴いていたのはキングから出ていたLONDONレーベルの「マルティノンの芸術」シリーズ、廉価LP盤だった。
自分のオーディオ装置は家庭用としては大きめの40p越えのウーファーをもつ大きなシステムだった。
小さな集合住宅の居間である。
当時、音楽鑑賞の時間は夜10時〜11時と決めていたので、あまり大きな音は出せなかったが、そこそこの音量でも、ロックとは別の不思議な高揚感が経験できた。
壁や窓を揺らして鳴るバスドラ、アンサンブルをかき回すピアノの打鍵、位相をほとんど無視して耳を突き抜けるようなホイッスル・・・バランスの良し悪しも演奏そのものの精度もわからないが、ひたすら楽しいパレードの風景が、とにかく楽しかった。

時は流れ、CD時代になって、その新メディアの薄っぺらい音に違和感を持ちつつ、それでもいつしか扱いの簡単さからLP盤から遠ざかった。
この演奏がCD化される前には、デュトワ/モントリオール盤を購入し聴いた。
スマートで上品、オシャレなその演奏は確かに美しかったが、楽しくなかった。
あれ、こんな曲だっけ…?

最近、たまたま安い中古を見つけて、この演奏に再会した。
大きな期待と不安を胸に…聴こえてきた音は…
薄っぺらいCD独特の乾いた音だった。
とても残念。
この音質の違和感は、ベルグルンドやオーマンディのシベリウスなど、ほとんど期待するたびに失望させられている。LPと違うことはわかってるんだけどね。
何を今さらなのだが、何事も第一印象は大きいものだ。
救われるのは、演奏が、やっぱり楽しいことだ。
活発さ優先で、隙も多く乱れぎみだが、それも欠点には感じない。
50年代〜70年代の多くの演奏が、豊かな感情にあふれているように感じるのはなぜだろう。
「アナログ時代」と「デジタル時代」では、技術や音だけではない、人間の感覚や精神構造、感情の推移、価値判断の基準とタイミング…すべてに大きな違いがあるようだ。
多くはいつの間にか「今」に慣らされ、違和感は「時代」で片づけられてしまうものだけれど。


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2013年07月26日

分解と、諦念からの悟り〜シルヴェストロフの音楽G

シルヴェストロフのピアノ曲から聴こえてくる音楽は、ヒーリングとかニューエイジとか、そっちにジャンル分けされそうな浮遊感を持つ。 そには彼の管弦楽作品のような咆哮や怒りのような感情はない。もはや難しい作曲技法も様式も超越して、ほとんど感情の赴くままにつぶやいているふうだ。
ソ連時代の長い抑圧、愛妻の死、突然の環境変化…彼の感性はおそらく何度も分解されたことだろう。
自分ではどうすることもできない国家からの弾圧、その理不尽な仕打ちと事の顛末。
体制の路線変更後には「職業作曲家として商業的である必要性」を見せ付けられ、彼は明らかに自己崩壊をおこしている。
それは強い諦念ではあったろうが、しかし、彼の場合、そこから一種の悟りに向かったように思える。
題の後ろにいつの間にかつけられた作品番号に驚くが、ここ数年で一気に楽譜が出版されたので、作曲年代と作品番号の大小は関係ないようだ。

bluminasilve.jpgシルヴェストロフ:ピアノ独奏曲集
・素朴な音楽 (ワルツ/夜想曲/妖精物語/田園曲/夜想曲/前奏曲/ワルツ)(1955/1993)
・使者(1996ピアノ版)
・2つのワルツ Op.153
・4つの小品 Op.2(子守歌/牧歌/バガテル/ポストラディウム)(2006)
・2つのバガテル Op.173(2011)
・キッチュな音楽(5曲)(1977)

エリザヴェッタ・ブルミナ(ピアノ)
(GrandPiano ドイツ輸入盤)



聴こえてくるメロディは、いつでも儚く消える。
聴く者は、記憶のかけらに、ふと同じ色を見つけるけれど、確かめることができない…そんな感覚になるだろう。
どの曲もほとんど気まぐれな構成で、作曲技法云々は超越してしまっている。
さらに、以前書いたジェニー・リンのアルバムと同じく、サスティンペダルを踏みっぱなし?と思える響きのつながりで輪郭線をにじませて、不思議な感覚をかもしだす。

とにかく、静かなアルバムである。
夜中、静かな部屋で聴くのに最適な1枚だ。

posted by あひる★ぼんび at 22:15| Comment(0) | 音楽

2013年07月17日

ベズイエンの「詩人の恋」

シューマンの「詩人の恋」は出版以前は「歌の本の叙情的間奏曲からの20のリート」という20曲構成の曲集だった。これは愛好家なら周知の事だが、こちらでの録音は極めて少ないようで、自分の知る限りトマス・ハンプソンだけのように思う。
この「原型」、出版された改訂稿からするといかにも垢抜けないメロディを持っていて、初めて聴いた時は強烈な違和感だった。
しかし、それも作曲家の足跡のうちと考えれば、興味も尽きない。

schdech.jpg・シューマン:『詩人の恋』
美しい5月に/私の涙から/薔薇ゆり鳩/君の瞳を見つめる時
君の顔は(op.127-2)/君の頬を寄せてくれ(op.142-2)
私の心をゆりの杯に/聖なるラインに/私は恨むまい
花がわかってくれるなら/フルートとヴァイオリンの響き
あの歌を聞くと/若者はおとめを愛した/明るい夏の朝に
私の恋は輝く(op.127-3)/僕の馬車はゆっくりと(op.142-4)
私は夢の中で泣いた/夜ごとの夢/昔のおとぎ話/忌わしい歌
・ベルク:7つの初期の歌
夜/葦の歌/ナイチンゲール/夢の栄光/室内で/愛の頌歌/夏の日々
 アルノルト・ベズイエン(テノール)
 ユラ・マルグリス(ピアノ)
(oehms ドイツ輸入盤)


ハンプソン以外の演奏も聴いてみたいとずっと思っていたところ、20曲版が新たにリリースされるとのインフォを見て、大変に期待した。しかもテノールである。爽やかに歌われればメロディラインのもたつきが改善されるかな?とも思ったのだ。
…ところが…聴いてみれば、通常の16曲の改訂稿、つまり「詩人の恋」に外された4曲を「もとあった位置に」あてはめただけのものだった。
これでは曲間の音の繋がりや気分をたち切るだけ。
マーラーが交響詩「巨人」を交響曲に改訂する中で削除した「花の章」を、改訂後の交響曲第1番にそのままぶちこむような、無粋な感覚である。
先に書いた通り「詩人の恋」の初期稿「叙情的間奏曲からの20のリート」はいかにも推敲前の荒削りさがあって、これを知ることは、シューマンの職人技の証明になる。
シューマンは同一ジャンルの楽曲を短期間に集中作曲する癖があった。しかし、改訂作業は別だったようで、職業作曲家として、芸術家として、作品の向上には時を惜しまなかったようだ。この「20のリート」も、最初に書いた1840年から出版の1844年の間に充実した名曲に生まれ変わったわけだ。出版前に削除した4曲も、約10年ののちには別の曲集で出版している。(op127&op142)不思議なのは、これらの曲にはそれほどの改訂がない。むしろ最初に書いたときに単曲として完結してしまって、気分が分断されるため、あえて省いたのだろう。

このアルバムで歌っているテノールのベズイエンは、近年ワーグナー歌手としても名を見かけるオランダの歌手。とても地味な声の持ち主だ。中音域は美しさもあるが、表情をつけようとすると極端に声質が変わってしまったり、「私は恨むまい」の高音が苦しそうだったり…名盤ひしめく「詩人の恋」ではいかにも分が悪く思えてしまった。
テノールだから爽やかという、聴衆の先入観はあなどれないと思う。
この地味な声で本当の初期稿「叙情的間奏曲からの20のリート」を歌ったらどうなったのだろう?むしろ違和感が少なくなるだろうか。現行「詩人の恋」より音域の狭いその版によって、地味だが深い印象になったかもしれない。
併録のベルクの「初期の7つのリート」のほうが、言葉と音の関係を読み取るうえで、彼の声質はマッチしている。何より、聴きなれない曲なので、いらぬ期待も先入観もないわけで。
先日のモーツァルトのレクイエムの件もそうだが、代理店やショップのセールスインフォはあてにならない。詐欺とまでは言わないが、タイトルぐらいはアルバム通り表記してほしい。ジャケット画像を読めばいいって?
確かにどこにも「原典版」「初期稿」の字はない。
いや、最初に目に付くインフォの文面に「売らんかな」が見え隠れするから「ちょっとなぁ・・・」と思うのだ。

posted by あひる★ぼんび at 23:33| Comment(0) | 音楽

2013年07月10日

コボウの「白鳥の歌」

シューベルトの「白鳥の歌」のアルバムを聴くとき、楽しみにしていることがある。
それは1枚のアルバムを構成するプログラムの組み立て方。
以前にも書いたが、出版社「ハンスリンガー」がまとめた14曲では一夜の演奏会としても、CDにするにも短い。
そこで演奏者やプロデューサーやメーカー企画係(?)は工夫を凝らすことになる。

kobsch.jpg
・シューベルト:『白鳥の歌』 D.957
・メンデルスゾーン:ハイネの詩によるリート
 旅の歌/朝の挨拶/夜ごとの夢に/
 歌の翼に/挨拶/新しい愛


 ヤン・コボウ(テノール)
 クリスティアン・ベズイデンホウト(フォルテピアノ)
(ATMA カナダ輸入盤)


宗教曲や古典オペラで活躍するテノール歌手、ヤン・コボウが、ベズイデンホウトのフォルテピアノ(コンラート・グラーフ1819年)で録音したアルバム。
彼は「白鳥の歌」14曲のあとに、メンデルスゾーンがハイネの詩に付曲した6曲を加えている。
これだけでは何の変哲もないようだが、この「白鳥の歌」で面白い構成を試みている。

レルシュタープの7曲はそのままの順で歌っているが、
次のハイネの6曲の順を入れ替えているのだ。
「漁師の娘〜都会〜海辺にて〜ドッペルゲンガー〜彼女の絵姿〜アトラス」
の順である。そして、最後にザイドルの「鳩の使い」
本来、シューベルトがどのような順番に並べるつもりだったのか知るすべはないし、そもそもこんなふうにまとめて出版する意図があったかもわからないが、不思議なことにこのコボウの試みは聴き手にやさしく感じた。
どこまでも陰鬱なこの6曲だが、こう並べなおすと、シューマンの連作歌曲のようにひとつながりに聴きとおせる。
レルシュタープと曲想の脈絡がとれないのは相変わらずだし、ザイドルが全く異質なのも救いようがないが・・・
平静を装う感情がやがて分解され高揚し、あげく放心、しかし最後に激情という形で甦る…
普通の並びだと「生から死、あるいは絶望から消滅」なのだが、このように並べると「生から生」という感じになるのが不思議だった。
詩の内容だけでなく、ピアノパートの音型やその密度、強弱バランスからもかなり納得いく並べ方だと思えた。

コボウの声はパワーはないが、柔らかく、若々しい。
これまでにも彼の歌うレーヴェやシューベルトを聴いているが、どれも爽やかな印象だ。
数年前、実演ではコボウのエヴァンゲリストに感心できなかったのだが、それは声が若すぎ、リリックすぎたせいだった気がする。
年齢的には彼ももう決して若くはないのだが、もっと歳を重ねれば、深み、あるいは陰りとくすみが出るものだ。宗教曲を歌うのはそれからでもいいはずだ。
この爽やかな声が生かせるような作品を、今のうちに数多く録音してもらいたいと思った。

posted by あひる★ぼんび at 23:28| Comment(0) | 音楽

2013年06月26日

Beatitudes〜V.マルティノフの音楽B

題名は重要だ。
現代曲の場合、その曲への理解の入口になる。
実際は「こじつけ」であったり、「大人の事情でそうなった」ものも多数あるようなのだが、音だけでは理解できない、あるいは誤解してしまいそうな場合には、作曲者の言い分(言い訳とも)は大変に助かるものだ。

ロシアの作曲家マルティノフ(1946〜)は奇跡的なほど美しい「Come in!」で知られている作曲家。
このブログでも以前にその「Come in!」「ガリシアの夜」を取り上げている。
ロックバンドのプロデューサーも務め、民族的・宗教的な音楽も多数書いている。
それらはどれも毒気を含んだ怪しさがあって、美しさだけではないのが面白い。
初めて「Come in!」を知った頃は、他の作品は何一つ知らなかったのだが、その後は連続的に作品に接する機会がもてたし、CDもここ数年で数作品がリリースされているので、注目度が上がってきているのではないかと思う。

さて、これ。
martykro.jpgマルティノフ : 「真福九端」The Beatitudes
  Schubert-Quintet (Unfinished)*
  「告別」 Der Abschied

クロノス・クァルテット
デヴィッド・ハリントン、ジョン・シェルバ(ヴァイオリン)
ハンク・ダット(ヴィオラ)、ジェフリー・ツァイクラー(チェロ)
ジョーン・ジャンルノー(チェロ) *
(NONESUCH EU盤)


ショップのインフォでは「真福九端」と訳されている。
正教会の祈祷文で、カトリックの「真福八端」にあたるもの。
うわ、っと思った。これは先制パンチだ。まずこの時点で聴くのをやめる人もいるはずだ。
「宗教的」だからではなく、漢字四文字が必要以上に怪しさを醸し出してしまっている。
一般人には和訳したところで馴染みがあるわけではないのだから、原題のままで良かったのでは?
代理店さん、その辺、失敗しましたね(笑)
まあ、どうでもいいことかもしれないけれど、「題名の重要さ」はあなどれないから。

聴いてみれば、ほぼ「Come in」と同様の美しき天上世界。
クロノスカルテットのクールな演奏が、ピシッと決まった感じで心地良かった。
ロシア正教の古い聖歌をモチーフが、ミニマル的に繰り返される。
マルティノフを先入観で聴く人にも優しい。全てを許すかのような音楽だ。

カップリングはシューベルトの四重奏曲の断片を元にした五重奏曲と、マーラーの「大地の歌」の「告別」を元にした音楽。
注意を払いたいのは両作品とも「元にした」であって「そのもの」ではないということ。
編曲ではなく、コラージュと変容である。
共通して流れる気分は、死への思いと惜別の思い。
マルティノフの父と、9.11テロの追悼の意味もあるということだ。
現世の事故や事件の苦悩・苦痛を、天上への思いが和らげ、浄化への道すじを示してくれる、それは遠い道のりだけれど…といったところだろうか。
「Beatitudes」に比べると集中力が必要な音楽だった。

posted by あひる★ぼんび at 22:53| Comment(0) | 音楽

2013年05月31日

都会のシベリウス

「あのヴァンスカが約20年ぶりにシベリウスの交響曲の再録音に着手!しかもオケはアメリカのミネソタ管!」
そんなインフォと共に発売された2番5番のSACDは、並外れた美音とよどみないスマートなテンポ感覚が衝撃だった。
sibe25.jpg

シベリウス:
交響曲第2番、第5番


オスモ・ヴァンスカ指揮
ミネソタ管弦楽団

(BIS スウェーデン盤 SACD)



それは「あのヴァンスカ」という言葉で勝手に想定していたシベリウス像とは明らかに異なっていた。
美しい。そして上手い。だが、何かが違う…。
2番4楽章の主題もコーダも、特別、雄大に聴かせることもしていない。
民族の誇り?独立への願い?これは純粋な「交響曲」であって、プロパガンダでも祝典音楽ではないのだよ、それに今は21世紀なんだよ・・・と言わんばかりに。
もちろん、高度な演奏技術と迷いのない解釈は大きな安定感となっていた。

第2弾は1番4番。
sibe14.jpg

シベリウス:
交響曲第1番、第4番


オスモ・ヴァンスカ指揮
ミネソタ管弦楽団

(BIS スウェーデン盤 SACD)


個人的な事だが、自分にとっては、大好物と最も苦手曲の両極端の組み合わせ。でも意外と多いんだよな、このカップリング…
一番驚いたのは1番の1楽章の超快速!もはやパロディかと思うほど速い。
そして、編成も音量も豊かなのに、軽い。
全曲を通して、無茶なルバートも、これみよがしのクレッシェンドもないので、この曲が持つ「熱と涙」は全く感じない。これもまた、今迄のは皆、君たちの勝手な先入観だよ、というかのように。
逆に4番は、落ち着いたテンポ感覚で、あれ、なんとすっきり分かり易い音楽なんだろう…と思えた。頭痛的にうずまくノイズと、耳鳴りのようなかすかな音響にまぎれて聴こえる、どこか懐かしいフレーズの断片。そして突然立ち現れる森や湖のイメージ、おおっ、と思う間もなく消えてしまう数々の場面…。
こちらは1番とは対照的に、これまで先入観で語られてきたいくつものエピソードを、音で具体化したような印象だ。1番より4番のほうが、この演奏家たちにはしっくりしているかな?
今更、フィンランドのオケはローカルで、アメリカのオケは都会的などというつもりはないが、明らかに国籍の違い、伝統習慣の違いはあるのだと思った。

ミネソタ管弦楽団は旧称ミネアポリス交響楽団。1903年創立だから今年で110年ということになる。オーマンディ、ミトロプーロス、ドラティ、スクロヴァチェフスキ、マリナー、デ・ワールト、大植英次、ヴァンスカ…歴代、音楽監督・主席指揮者には世界中の著名な音楽家が起用されてきた。
ヴァンスカは2003年からこのポストにつき、これまでにベートーヴェンの交響曲全集などをリリースしている。
噂によると、このミネソタ管は現在、運営存続が危機とのことだ。
すでに団員も多数が脱退してしまい、演奏会もできない状態だという。
このまま労使交渉が破綻すれば、やがてヴァンスカも去ることになるだろう。
そうすると、このプロジェクトも宙ぶらりんになってしまう。とても残念なことだ。
posted by あひる★ぼんび at 23:11| Comment(0) | 音楽

2013年05月23日

ペライア40年の軌跡

遠い昔。高3頃の思い出。
高校へは「ゆっくり歩いて30分」位。徒歩通学だった。
学校からそれほど離れていない所に、いつもモーツァルトの音楽を流している家があった。
単に「クラシック」ではなく、いつも「モーツァルト」だった。
1学期の、ちょうど今頃の季節だったと思う。
その家の家主が庭先で植木の剪定をしていた。
その人は、歳の頃80前後だろうか。中肉で小柄、ちょっと厳しい雰囲気の、おじいちゃんと言うより老紳士というのがふさわしい方だった。
その日も開け放したガラス戸からモーツァルトが聴こえていた。
目があったので、軽く会釈した。こちらはそのまま通り過ぎるつもりだった。
「君、そこの高校の子かな?」急に話しかけられて、少々ビビりつつ「はい…」と答えた。
「君はこの前、レコード屋で店員といろいろ話してた子だよね〜。いや、違ったらごめん。だけどその楽器ケースだ、間違いないと思ってね。」
そう、僕のことだ。当時僕はオーボエを持って通学してたし、行きつけのレコード屋は道すがらにあった。
「これ、何の曲かわかるかな?」
「モーツァルトの24番のピアノ協奏曲ですかね」
「おー、やっぱり詳しいね。演奏してるのはペライアだ。若手の中では最高だと思う。君はどう思うかな」
「もう少し近づいて聴いていいですか」
…この時、僕はモーツァルトはあまり聴いていないこと、でもハスキルが弾いた20番が好きだということ…そんな話を15分ぐらいしたと思う。
老紳士はモーツァルトの魅力を熱心に語ってくれた。モーツァルトがいいと思えるようになったのは50過ぎてからだと言っていた。だが、今はなぜかそればかり聴いているとか。
その時から、その方と5・6回は音楽の話をした(立ち話程度だったが)と思う。
が、やがて僕は受験準備で忙しくなり、通学ルートが少し変わって、冬頃からは全く出会うことがなくなった。
卒業した翌年の夏、その方の家の前を通る機会が2度ほどあった。
しかし、雨戸は固くしめられ、夏草が生い茂り、モーツァルトは聴こえなかった。
次に通ったその秋の終わりには、家は取り壊され、更地になっていた。

あの頃、あまり関心がなかったモーツァルトが、今はなぜかとても心に響く。
僕も、いつの間にかそんな歳になったのだ。

perah-1.jpg

マレイ・ペライア〜40年の軌跡
CBS、SONY録音集大成

マレイ・ペライア(ピアノ&指揮)
イギリス室内管弦楽団
ネヴィル・マリナー(指揮)アカデミー室内管弦楽団
ベルナルト・ハイティンク(指揮)アムステルダムコンセルトヘボウ
ラドゥ・ルプー(ピアノ)ピーター・ピアーズ(テノール)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン) 他
(SONY EU盤 CD68枚+DVD5枚)



アメリカのピアニスト、マレイ・ペライアが演奏家生活40周年を記念しての個人全集。
存命中、しかも現役の演奏家がこういうセットを出すのは異例のことだと思う。

正直なところ、ペライアは、その頃からずっと気になっていたピアニスト、というわけではない。
当時、ペライアはモーツァルトやシューマンを「地味に奏でる若手」のイメージが強かった。
若手の中ではコチシュ、ラーンキ、シフなどのハンガリー勢が、リストやバルトークそしてラフマニノフ…という技巧的で刺激的なレパートリーでセールスを展開していて、そちらが目立っていたわけで。
ペライアのことは、忘れたわけではなかったが、積極的に聴く機会もなかった。
そんなふうに何十年もの時が過ぎていたのだ。

にもかかわらず、突然にこのセットを購入しようと思ったのは、使用期限の迫ったクーポンの消化目的だった。
同じ位の値段の「DGカラヤン1970」と天秤にかけた。
ワタクシ、その程度の消費者である。
カラヤンはいわば時代の象徴で、好き嫌いは別としても幼少期から親しみ、多くの啓蒙を受けた。でも、とふと考えた。カラヤンについては「DG1960」と「EMIコンプリート」をすでに所持していて、それらは、自分に蓄積され幾分美化された演奏との落差で、感動よりストレスが大きかった。では、印象の蓄積のないペライアにしよう!きっと強烈な音楽との出会いがあるはずだ。

結果は…まさに、1枚1枚、驚きの連続だった。

BOXにはモーツァルトの協奏曲全曲も収録されている。他人の作品の編曲の1〜4番、K107の3曲ももれなく収録、さらに2台ピアノ、3台ピアノ(2台版)、コンサートロンドも収めている。ペライアのモーツァルトへの愛着を深く感じる演奏だ。
先に書いた話で庭先に聴こえてきた「24番」は多分1975年9月に録音され、翌年米国でLP盤が発売されたもの、ということになる。

果敢なチャレンジもある。ピリオド全盛の昨今に、ピアノでチェンバロ曲を演奏、しかも、その表現は左右の手のバランスの異なるロマンティックなアプローチだ。
ペダルはあまり踏まないようだが、全体の起伏や表情は意外と濃厚に感じる。
それにしても、チェンバロ協奏曲全曲など、バッハをかなり多く演奏しているのには驚いた。こんなふうに明るく聴きやすいバッハもいいものだ。

ペライアの穏やかな演奏は、猛烈なファンを生むことがないと同時に、猛烈なアンチも生むことはないだろう。
BGMなんぞにしたら、耳にやさしすぎて、いつのまにか通り過ぎてしまう。
…そんな演奏が素晴らしいのか?そう思われるかもしれない。
聴いてみるのが一番だと思う。ちょっと気になる曲なら、どれでも。
それほどレパートリーの広い人ではない。
その選択は、なんらかの思想に基づいているのだろうか。
どの曲も愛情込めて演奏していて、やっつけ仕事を感じさせるものがひとつとして、ない
…つまりは全霊をこめた演奏なのだ。

高校生だったあの日、あの老紳士にレクチャーされなければ、ペライアを意識することもなかったかもしれない。人や音楽との出会いとは、不思議なものだ。
演奏を聴きながら「あの頃」を思い出していた。
そこでは、僕はあの道を歩いていて、あの老紳士は、いつものようにモーツァルトを聴いているのだ。
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2013年05月17日

新世代の魔女?〜リシッツァのラフマニノフ

リシッツァが「新世代の」と言われるのは演奏の特徴や年齢からではない。
1969年(1973年の表記もあり)ウクライナ生まれのピアニスト。
どこかの音楽事務所が企画してセールスを展開するのではなく、自らが演奏シーンを録画してYoutube等にアップ。ウワサ・風評によってその才能への評価を増幅させる。
こういったインターネットメディアを利用した巧みなプロモーションを自分の意志で展開する…まさにこれが「新世代」なのだ。教師の推薦で受けるコンクールに入賞することだけが、アーティストの入り口ではない。ネット動画でデビューというのはロック・ポピュラーや映像作家だけではない、ということだ。

lisitsa-1.jpg
ラフマニノフ:
ピアノ協奏曲集(全4曲)
パガニーニの主題による狂詩曲


ヴァレンティーナ・リシッツァ(ピアノ)
マイケル・フランシス:指揮 ロンドン交響楽団

(DECCA 2枚組 EU盤)



今回、メジャー中のメジャーレーベル、DECCAからリリースするのはラフマニノフの協奏曲集。新人であれば、普通だと2または3番からぼちぼちレコーディングをスタートするものだが、いきなり「全曲」である。
これも自分でソロパートを演奏したVTRをオーケストラに送り付け、売りこんだのだというから、すごい。
もちろんオケ側は多大な関心を示し、この録音へと繋がったそうだ。
それにしてもよく回る指だ。そして打鍵が強い。
スタイルとしては…うまく例が思い浮かばないけれど、若き日のアルゲリッチに近いだろうか。
リシッツァは5曲を難なく駆け抜け、少しも緩まないその感覚で、聴く側の体感する時間はやけに短く感じる。それほど馴染みのない1番や4番がとても面白く聴ける。
大きな手ではないのだろう、2番冒頭の「鐘」も分散させて弾いている。
跳躍した音型は「速さ」でカバーしているようで、めまぐるしく音数が多く感じるのはそのせいかな、と思う。
詩情?・・・それはとりあえずおいておこう。
歌うべき部分は充分すぎるぐらい「ねっとり」弾くのだが、ピアノ自体の響きにこだわっていないのか、淀むことなく、リズミカルに弾き飛ばしているように感じた。その辺が好みが分かれる部分だろう。
共演オケがバランス重視であまりにもあっさりしすぎているせいもあるだろうか?
とにかく上質な演奏には違いなく、こうなると受け取る側が「ラフマニノフの音楽に何を求めるか」で評価が変わるように思えた。
とにかく鮮やかで、そう・・・きわめてcoolなのだ。
今後、どんなレパートリーで、どんな演奏を聴かせてくれるのだろう。
個人的には「好み」ではないのだが、この才能の発展と行き先にはとても興味がわいた。

◎おまけ◎
リシッツァがプロモ用に録画したソロ部分のみの第2番第1楽章


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2013年05月13日

フィンランド!〜カヤヌスの音楽

ロベルト・カヤヌス(1856‐1933)はフィンランドの歴史に深く名を残す音楽家。
指揮をハンス・リヒターに、作曲をライネッケやスヴェンセンに学び、激動期フィンランドを中心に、ヨーロッパで活躍した。
現在のヘルシンキ・フィルは彼の薫陶で成立したといえる。
シベリウスとは深い因縁を持ち、友好・敵対の両時期があったらしく、ゆえにおそらくはお互い「忘れ得ぬ存在」だったろう。
シベリウスの地位が急激に向上した時、大学教授職をめぐって、カヤヌスはそれを阻止しようとした。当然ながらかなり険悪な関係になったが、すぐに両者の立場は安定し、和解したという。
その後カヤヌスは独特の個性を持ったシベリウスの音楽に深い理解を示し、積極的に演奏した。
また、ソ連軍がシベリウスの山荘に迫ったときは、脱出避難の手引きもしている。
シベリウスは指揮もしたが、その分野では一流にはならなかった。
カヤヌスの場合は作曲もしたが、そこに名を残すことはできなかった。
現在知られるのはいくつかの小曲と交響詩「アイノ」ぐらいだ。しかし、この「アイノ」を1891年に聴いたシベリウスは大きな感銘を受け、それが大作「クレルヴォ(交響曲)」など、民族を意識した一連の作品を作り始めるきっかけになったという。
お互いのベストポジションで世界と勝負。以後両者揃って「フィンランド」という国を国際的に高める存在となっていったわけだ。

これはカヤヌスの管弦楽作品を集めた珍しいアルバム。
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ロベルト・カヤヌス:
フィンランド狂詩曲第1番(1881)
クレルヴォの葬送行進曲(1880)
シンフォニエッタ(1915)
交響詩「アイノ」(1916年改訂版)

ラハティ交響楽団 オスモ・ヴァンスカ:指揮
ヘルシンキ大学合唱団
(BIS スウェーデン輸入盤)


どの曲も穏健で、当然ながらワーグナー風の時代の匂いもするが、顕著なわけではない。師のスヴェンセンの音楽に雰囲気が似ている。
シンフォニエッタは全4楽章25分で、同じ頃のシベリウスの交響曲第5番に比べると、ずっと古風で可愛らしいが、3番や6番に雰囲気も規模も近いものを感じる。
問題の「アイノ」はまさに「賛歌」といった旋律線を持つ堂々とした曲。演奏時間14分のうち、男声合唱が加わるのはわずかに最後の2分間だけ(贅沢!)
この曲の初稿は1885年で、シベリウスが聴いた1891年時点でのスコアと、ここでの演奏版がどう異なっているかはわからない。おそらく、響きや旋律に感銘を受けたというよりは、盛り上がる民族運動の中、それを具現するオーケストラ曲の登場そのものに感動したということだったのかもしれない。
芸術はその時代や環境とは切り離せない。
今の時代の自分の耳には、どれも聴きやすいローカルな佳曲だ。
カヤヌスの作品にはプロパガンダ要素はなく「弾圧の悲劇」や「独立の歓喜」といった劇的な高揚があるわけでもない。
だから、そこに秘められたであろう「思想」まで聴きとることはできなかった。
案外と、純粋に「音楽」なのだ。深読み禁止。そのほうが楽しめると思う。
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2013年05月07日

カラビツとシルヴェストロフ

それはソ連が崩壊して間もない頃だったろうか。西側のマイナーレーベル、あるいは急な民主化に便乗して国有音源を流出させるロシアのバッタ屋?などから、多数の未知の旧ソ連音源が流通しはじめた。
その時に、名だけは知っていたが実際に聴いたことのなかったリャトシンスキーの作品をまとめて聴くことができた。USターゲットのRUSIANDISC盤である。
自分の頭に出来上がっている「ロシア音楽」のイメージは、チャイコフスキーとその周辺、そして有名なロシア民謡・歌謡、それとはまるで正反対の当局御用達作曲家たちの「情」を排した音楽だった。
リャトシンスキーの印象はその中間点、ただ、過剰な音響がストラヴィンスキーに近いと思えた。
ウクライナの民族音楽テイストを期待した気持ちは裏切られた。
それは本当に勝手な感覚なのだが。
その後、リャトシンスキーの門下生であるというシルヴェストロフを知ったわけだが、師の音楽との違いが大きすぎ、驚いた。師弟関係の影響はこういう芸術の世界ではわかりにくいものなのかもしれない。

karab.jpgイヴァン・カラビツ (1945-2002)
 管弦楽の為の協奏曲2番(1986)
 管弦楽の為の協奏曲3番「哀歌」(1989)
 管弦楽の為の協奏曲1番「キエフへの音楽の贈り物」(1981)
ヴァレンティン・シルヴェストロフ (b.1935)
 エレジー(2002)
 別れのセレナード(2003)

ボーンマス交響楽団  キリル・カラビツ:指揮
(naxos US盤)


このアルバムは二人のリャトシンスキー門下、カラビツとシルヴェストロフの作品を集めたもの。
通して聴いてみて、初めて、リャトシンスキーとシルヴェストロフが繋がる思いがした。
カラビツの「管弦楽のための協奏曲」は、2番、3番、1番と順序を変えて収録。この辺の意味合いはわからないが、ストラヴィンスキー風でもあり、恩師へのリスペクトを感じる2番から、シルヴェストロフそっくりの3番、手さぐり(かなり意図的な)を思わせる1番…と異なる3つの顔を映し出している。
不思議な位置関係で奏されるハンドクラップまで登場するオーケストレーションが面白い。世界初録音だそうだ。
全体的には多少「怖くてアヴァンギャルドになりきれませんでした」という迷いのようなものも感じるが、他の作品も聴いてみたくなった。
カラビツはウクライナの音楽を牽引する重要なポストにいたという。あっけなく除名追放されたシルヴェストロフとは対照的である。
それに続くシルヴェストロフ。カラビツの訃報に接した彼が、カラビツが病床で書いたという動機を用いた「エレジー」そして追悼にカラビツの婦人に捧げた「セレナード」。
ECM盤の強いイメージの中で聴きなれた音楽なので、まさに「あ、そういうことか」という瞬間が待っていた。1枚のアルバムを同色で塗り固めたECM盤のような催眠性や陶酔感はないが、独特の空気感が心地よかった。
確認できたのは、シルヴェストロフは突然変異ではなかった、ということ。
もし彼が社会主義体制の国境の絶壁に踏みとどまったなら、カラビツに、カラビツが飛び出せばシルヴェストロフに変身したのだろう。
そんなことを考えながらこのアルバムを聴いていた。
posted by あひる★ぼんび at 21:52| Comment(0) | 音楽

2013年04月08日

これでいいのでしょう〜キングスカレッジのモツ

moreq.jpg・モーツァルト:レクィエム ニ短調 K.626
(ジュスマイヤー版&別補作版)
・モーツァルトのレクィエムについて
(オーディオ・ドキュメンタリー)

 エリン・マナハン・トーマス(ソプラノ)
 クリスティーヌ・ライス(メゾ・ソプラノ)
 ジェイムス・ギルクリスト(テノール)
 クリストファー・パーヴス(バス)
 ケンブリッジ・キングス・カレッジ合唱団
 エンシェント室内管弦楽団
 スティーヴン・クレオベリー(指揮)
録音:2011年6月26-27日、9月27日キングズ・カレッジ聖堂
(THE CHOIR OF KING'S COLLEGE SACD+CD 英国盤)

この盤、各ショップのインフォが間違っている。
輸入代理店のデマがそのまま宣伝に使われているようだ。
もうすでにいくつかのレビューサイトで話題になっているようなので、改めて書くのもなんだが…
まず、情報不足。これはSACDハイブリッドなのだが、SACD層は2chステレオのみでマルチはない。それはそれでいいのだが、残響の長い教会の聖堂での録音であるから、空気感再現にはマルチを入れておいてもよかったのではないかな、と思った。それこそ、告知には書いてほしかった。
決定的な問題は、宣伝文のような「いいとこどり」の折衷バージョンではない、ということ。
普通のジュスマイヤー補筆版で全曲演奏後、付録に、別の補作版を収録している。
当初、インフォを見た時、折衷版?補筆研究者の「思想」が消えてしまうではないか?指揮者や企画者はなぜそんな愚行を?と思っていたのだが、現物を見て逆に安心した。
が、リスナーの中には「騙された」と思う人もいるのではないかなぁ。
ちなみに補足収録しているのは、
ショッキングな新発見として話題になった「アーメン・フーガ」をモンダー補作版で、
より華やかになったF.バイヤー補作R.レヴィン再校訂の「サンクトゥス」、
D.ドゥルース補作の「ベネディクトゥス」、
R.レヴィン補作による「クム・サンクティス・トゥイス」
そしてマイケル・フィニスィー[1946-]による変化に富んだ結構大胆な「ラクリモサ」。
それぞれは見事な補作なのだが、ショップのインフォ通りに本編に組み入れなくて本当に良かったと思う(笑)

演奏は安定安心のケンブリッジクォリティである。
ただ、最後まで「死」への哀しみや恐れ、あるいは慟哭といった、ダークな感情を呼び覚まされる瞬間がなかった。全体には美しい演奏、と言えるのだろう。
しかし、歌いだしの「Requiem〜」の発音・発声がやけに強く粗野に響いて「うわっ」と思った。それはそれぞれの文頭に共通していて、下品ぎりぎりとすら思える。そいういった男声の強さに対して、女声パート…当然少年が担当しているわけだが…総じて細く弱めで、この曲では聴きなれないバランスを作っているようだった。あ、かつてホグウッドの演奏がそんな印象だった。
ジュスマイヤー版をどうこう批判する気にはならない。彼の補作は、どの部分も素直な音の並びで、かなり健闘していると思うし、越えられない壁を知りつつ、モーツァルトへのリスペクトの中で書かれていると思う。(楽器法や和声の不備が必ずしも「醜」ではないわけで)
さっきも書いたが、もしこの中に後半の別版を散りばめたら、支離滅裂な印象になってしまう。祝典的な衣装をまとったバイヤーの「サンクトゥス」はここにそぐわないし、独唱と重唱が散りばめられたフィニスィーの「ラクリモザ」もかなり異質である。
もしかすると・・・当初はインフォ通り折衷版全曲で一枚作ってみたものの、それではあまりに坐りが悪くて現在の形でのリリースになったのかな?と思えないでもなかった。

ちなみに「THE CHOIR OF KING'S COLLEGE」はこの合唱団の自主レーベル。
これが2枚目の発売になるわけだが、今後、この名門合唱団の素晴らしい演奏が次々にリリースされることを期待している。
posted by あひる★ぼんび at 21:32| Comment(0) | 音楽

2013年03月13日

天球の音楽〜ホープの現代小品集

「ヴァイオリニストの小品アルバム」というと、一般的にクライスラーの諸作品に技巧と親しみが両立したサラサーテやヴィニャフスキなどを混ぜてプログラムを構成する場合が多い。
だが、それはほとんど、奏者の好みというより、企画会社側、売る側の都合なのだろう。
自分の職場でも、リサイタルを演奏家に依頼するときは、集客を考えて「良く知られた曲で構成してほしい」という要求をしてしまう。
本音のどこかでは「年がら年中ツィゴイネルヴァイゼンとタイスばっかり聴きたくない」と思うのだが…、狭い(マニアックな)愛好家対象のコンサートならともかく、広く一般大衆を考えるとやむをえない…わけだ。
(大衆をバカにしてるのではない。知らない曲がプログラムに入っていると、感想が「大変すばらしかったが、知っている曲をやってほしかった」の意見が多数になってしまう現状があるのだ)

マニアック向けの、いや本人もマニアックな演奏家のひとりにダニエル・ホープがいる。
彼のヴァイオリンは必ずしも美音ではなく、しっとりと「歌」を聴かせるイメージは薄い。
では、正確無比な技巧?それも違う。 はて??
切り口は違うものの、かのギドン・クレーメルに近い印象もある。
とにかく楽譜のバージョンにひと癖もふた癖も持たせたりして、その演奏そのものを比べる対象がない状況に持ち込んでくる。
演奏ではなく行為において賛否議論を起こそうとする感じだろうか?
そんなホープであるから、「ヴァイオリン小曲集を出しました」と言っても、先に書いたようなありふれた作品集にはならない。
これまでもコンチェルトのカップリングに通俗小品を入れたことはあるが、それだけでアルバムを構成するということはしていないのだ。で、今回のこれ。
hopesph.jpg
『スフィアズ -天球の音楽』
・ヴェストホフ/バズラ編曲:鐘の模倣
・エイナウディ:アンダンテ、パサージオ ・ペルト:フラトレス
・グラス:エコーラス ・フォーレ/ラター編曲:ラシーヌ賛歌
・アーヴェルバフ:24のプレリュードから第15曲、第8曲
・カッツ=チェルニン:エリザのアリア(ワイルド・スワン組曲から)
・バラノフスキ:ムジカ・ウニヴェルサリス、ビアフラ
・G.プロコフィエフ:スフィアズ ・イグデスマン:レント
・M.リヒタ―:ベルリン・バイ・オーヴァーナイト
・K.ジェンキンス:ベネディクトゥス(平和への道程から)
・J.S.バッハ/オリヴィエ・フォーレ編曲:プレリュードBWV855
・ナイマン:トライスティング・フィールズ
・グンダーマン:ナッハシュピール(ファウスト/エピソードIIから)
ダニエル・ホープ(ヴァイオリン)
ベルリン・ドイツ室内管弦楽団 サイモン・ハルジー:指揮
(DG ドイツ輸入盤)


一体全体、何ゆえのこの選曲?というアルバム。
よく言えばサービス旺盛、盛り込みすぎて、こういうものに慣れている自分でも通して聴くのはつらくなってしまった。覚悟不足だったわけだ。
選曲の中ではフォーレの「ラシーヌ」とペルトの「フラトレス」、バッハの「プレリュード」が有名曲なので、そこでホッとひといきつける感じはある。
ただ、編曲の仕方がまた素直とは言い難く、むしろ難解にする「遊び」が施されているので、安心はできない。いや、まあ、全体的には静かな曲が並んでいるし、ミニマル的な癒し効果のある音楽が多いのだが…
静謐な現代曲集と考えれば「掘り出し物」、そのへんの名曲集だと思って購入した人にとっては「意味不明または愕然」だろうと思われる。
さらに刺激や高揚を求める人にはただの睡眠導入剤にしかならないかもしれない。演奏者&企画者は大真面目?それともひそかにニヤリ?
いずれにしてもこれは大変化球である。審判は聴き手。判定やいかに。
posted by あひる★ぼんび at 23:49| Comment(0) | 音楽

2013年03月09日

ロ短調ミサ〜サヴァール一家の音楽H

言わずと知れたバッハの名曲中の名曲、「ロ短調ミサ曲」。
マタイ受難曲と並んで、宗教音楽の最高峰のひとつとも言われる。
僕がこれを初めて聴いたのは高校生の頃だった。
とにかく「長い…」という感想だけで、感動できなかった。
誰の演奏だったかは忘れたが、輸入LP盤だった。
当然、演奏が悪かったのではなく、僕の感性に対して、曲がはるかに大きすぎたのだ。
その後、実演でも聴く機会があったし、CDも数点持つぐらいには聴いていた。
しかし、最初の印象をひきずってしまったのか、どちらかというと苦手な曲になってしまっていた。
とにかく冒頭のキリエこそ強烈だが、あとは1時間40分、ひたすら淡々としているわけで…。

今回、これを手にしたのは、バッハのこの曲だったからではなく、サヴァールさんの新録音だったからである。
フランス南西部のフォンフロワ修道院(12世紀建立)で行われている音楽祭で収録されたDVDと5.1chSACDをハードカヴァー・ブック仕様にパッケージした「豪華盤」である。

bachbmoll.jpgJ.S. バッハ:ロ短調ミサBWV232
      メイキング・ドキュメンタリー付き


ジョルディ・サヴァール(指揮)
ラ・カペラ・レイアル・デ・カタルーニャ コンセール・デ・ナシオン
セリーナ・シェーン(S) イェツァベル・アリアス・フェルナンデス(S)
パスカル・ベルタン(A) 櫻田 亮(T) ステファン・マクラウド(B)
録音:2011年7月19日
(ALIA-VOX 2SACD+2PAL-DVD EU輸入盤)


この演奏、その最初のキリエが思いのほか柔らかく優しく奏でられる。
これだけでもかなり「あれ?」なのだが、いつものようにいきなり「殴られない」からあとのギャップが小さい。
SACDマルチで再生すると、各奏者は独特の立ち位置にあって、不思議な音場になっている。2Lレーベルの録音のように各奏者が独立して聴こえる程マイクが近いわけではないが、溶け合った状態のその音が、曲ごとに微妙に色合いを変える様子は新鮮な驚きだ。
独唱者を内包する小さな編成の合唱、というより「さまざまな重唱の積み重ね」は、精緻すぎずラフすぎず、終始安らかな世界を描き出している。
サヴァールが研究に基づき導き出した楽器編成と組み合わせは絶妙の極み。
それは編成の大きなモダンオケ・大規模合唱では決して聴こえてこない響きであり、かといって今では一般的になった「(いわゆる)古楽」のせわしい演奏とも次元が異なっている。
楽譜を再現している、というより、演奏者同士が生まれてくる音を聴きあいながら紡いでいく、いつものサヴァール風味に彩られている。
バッハの大曲すら、この味付け。
穏やかな顔をして、「サヴァール」という香辛料は、かなり強烈なのかもしれない。
posted by あひる★ぼんび at 23:58| Comment(0) | 音楽