2015年01月15日

孤独から孤独へ〜クラミの音楽

かなり以前のことになるが、FMでこの作曲家の「カレワラ組曲」を紹介していた。
解説者の発音に癖があって、その時は「うの・くらみ」という邦人作曲家だと思ってしまった。見事に北欧風の音を作る人だな…宇野蔵美。…って、いそうだからコワい。^^;
メロディが陰旋法っぽく、番組終了まで誤認と気付かなかった。

ウーノ・クラミ(1900−1961)はフィンランド南東部、ロシア国境近くのヴィロラハティで生まれ、同地で没した作曲家である。貧しい孤児で、音楽は当初独学、ヘルシンキでメラルティンなどに師事したあと、当時の定番ライプツィヒではなくパリに出てフローラン・シュミットに学んだ。パリで学んだことで、フランス音楽、特にインパクトの強かったラヴェルとストラヴィンスキーの影響を受けている。
作曲家としてはシベリウスが作品発表をやめた直後の時代を担うわけだが、民族的素材を好んだ点では共通するものの、聴こえてくる音は温度感や色彩感が異なる。音の選び方はシベリウスより当然斬新で…というより、当時のあまたの著名作曲家のいいとこどりをこれでもかと繰り出していて多彩である。
活躍時期と場所さえ違ったならば、現在以上に聴かれてもおかしくない音楽だと思う。作曲技法において孤高であったシベリウスが国際的に認知され、積極的に外部音楽をとりいれたクラミはローカルに甘んじている。純音楽とは不思議な世界だ。活動場所の選択や人脈形成がその後の知名度に影響を及ぼす例なのだろう。
「私には時間はあったが、お金はなかった。
 作曲家には時間と静寂がなければ、生まれるものは何もない。
 本当に音楽を書きたいなら他は全て捨てなければならない。」

クラミは世界相手に勝負する気はなかったのだろう。音楽を生み出すことだけに集中する、孤独な人間だったようだ。

このCDにはフルオーケストラの管弦楽曲が3つ収められている。
klami1.jpgクラミ:
幻想曲「北極光」op.38(1946)
幻想曲「チェレミシアン」op.19(1931)
カレワラ組曲0p.23(1943)
(大地の創生/春の芽吹き/テルヘンニエミ/
 レンミンカイネンの子守唄/サンポの鋳造)

サムリ・ペルトネン(チェロ)
ヨーン・ストルゴー(指揮)ヘルシンキ・フィル
(ONDINE フィンランド輸入盤)



最初の「北極光」は、初めてこの作曲家に接する人を排除しかねない難解さがある。時代を反映してか、多彩ではあるが混沌としている。気合をいれて落ち着いて聴けば、印象派から新古典派の音楽で、まさに音による抽象絵画として、楽しみを見出せるだろう。
続く「チェレミシアン」。チェレミシアンとはフィンランドに住む少数民族で、この曲は2部構成のチェロ協奏曲だ。おそらくその民謡素材を使っているのだろう。大変聴きやすく、シベリウスを聴きなれてる人ならば何の抵抗もなく聴けるはずだ。
最後の「カレワラ組曲」は手法がストラヴィンスキー的。10年近くをかけて書いたというから大変な力作だ。フィンランド色の強いメロディーとリズムで、個性を主張している。特に後半はその色合い濃く、素朴で哀しいメロディが醸し出す、遅れてきた民族主義といった風情になっている。クラミに先人たちのような民族自立思想があったかどうかは知らないが、作曲時期から考えてもロシアとスウェーデンに脅かされ、ナチスに侵攻包囲されていた故国の誇りを、音楽で主張したい気持ちは当然のようにあったと想像できる。
クラミの知名度はフィンランド以外では決して高くない。どう飾ってもやはりローカル色は拭えないかもしれない。でも、それもまた魅力になりうると思う。
posted by あひる★ぼんび at 21:44| Comment(0) | 音楽

2014年12月08日

ベーレの「冬の旅」

「水車小屋」と「白鳥」で初々しい声を聴かせてくれていたドイツのテノール、ダニエル・ベーレがついに「冬の旅」をリリースした。
わずか数年の間に、数々の舞台経験の成果か、声は陰影を深め、細いながらしっかりとした土台を感じさせるものに変貌している。
リート、オペラ、バロックや宗教曲と、広いレパートリーを歌うベーレだが、力が相殺しないよう充分気を付けて歩みを進めてもらいたいものだ。万一、感情過多になったり、声を張りすぎる癖をつけてしまうと、リートを歌う上では致命的になるわけで。

beh-win.jpg
シューベルト:「冬の旅」D.911
  *ベーレ編曲ピアノ三重奏伴奏版
  *オリジナル版

ダニエル・ベーレ(テノール)
オリヴァー・シュナイダー三重奏団
オリヴァー・シュナイダー(ピアノ)
(SONY CLASSICAL 2枚組 ドイツ輸入盤)




さて、このディスクは2枚組で、ベーレ自身の編曲によるピアノトリオ版と、オリジナル版の双方が収録されている。ペアでリリースしたのは、新アレンジに接した時の聴き手側の「これはまあ、これだ。だが、オリジナルで聴きたい!」という要望を見越しての配慮だろうか。
もしかして、何人かのテノールが録音しているツェンダーの奇妙キテレツな編曲(綺麗な言葉では進歩的、革新的という?)やプレガルディエンの管楽+アコーディオン版、プライの鈴木管弦楽版などに接して、正直な所で、ベーレ自身がそう思ったことからではないだろうか。
また、歌手にとって「現在の声」は現在だけで、すぐに変わってしまうものだ。
人間の声帯という精巧繊細な楽器ゆえである。曲の解釈もまた変化する。20代と50代が同じ解釈であるはずもない。
ベーレは現在の40歳の声で、40歳の解釈で双方を録音したかったのだろう。
編曲は作曲家には当然無断の行為だが、最大限の敬意はらって、原曲も録音した…おそらくそれもありそうだ。

トリオ版の「冬の旅」は全曲で約60分という、異例の快速である。だが、聴感上の速度はそれほどではないし、ルネ・コロの演奏の様な「怒りで早足っ!」といった解釈でもない。
このもたれないリズムが、風景を19世紀から21世紀の都会の雪道にしている。
確かに、ベーレの艶やかな軽い声は、ひきずるようなテンポには似合いそうもない。
それより特筆すべきは、ベーレの編曲がシューベルトの書法とか、時代性を全く考慮していないことだ。
ピアノパートに対し、弦2人が、あくまで補助ですという顔をしてみたり、とんでもない存在感を主張したり、素直ではないのだ。「おやすみ」の中盤以降、他、各所でフラジオレット奏法を多用し、その微妙なピッチのずれが軋みを生む。素人が演奏しているかのような無機的な音で歩行を邪魔してみたり、穏やかで豊かなカンタービレで暖炉の温もりを演出たり、またある場面ではオルガンを模した敬虔な音を響かせたりする。
ことに第15曲「からす」以降、精神のネジが飛んでいく様子が、ピアノのみの場合よりリアルに感じた。
主人公は肉体的には健康で死に遠く、しかし精神はもはや常人ではなく、奇妙なエネルギーを拡散するのみなのだ。
ただ、やはり、完璧な鉛筆画や水墨画に、絵の具で色付をしてしまったような蛇足感はどうしてもぬぐえなかった。

まあ、きっとそこで、オリジナル版を聴いてみて、ということなのだ。
こちらは演奏時間65分。通常運行だ。
所々、ピアノの装飾音や付点の解釈が聴きなれない響きを生んでいる曲もある。
大体は個性の範疇だが、唯一「!?」になるのは最終曲の前奏。ライアー逆回し(^^;)。
しかし、全曲を通してベーレの誠実な歌声は聴きやすく、かなり抑制した表現なので、安心して演奏に浸りこめた。
思うに、ベーレの「冬の旅」は死の旅路ではない。
トリオ版の主人公は精神が壊れたまま生き続けるだろうし、オリジナル版では、春が来れば日常生活に戻っていきそうだ。ただ、その日常は死を意識した人間のそれで、きっと常人のものとは別の生き方だろう。
冬の旅を青春の残照の中の音楽とするなら、これでいいと思う。

ピアニストがCDとは異なるが、YOUTUBEにベーレの去年のリサイタルがあったので貼っておく。


posted by あひる★ぼんび at 23:06| Comment(4) | 音楽

2014年11月19日

ノルウェーの宝石たち

IMCD.jpgオルセン:スヴァインユーレッド組曲op.60(7曲)
  ヴァルスレント/2つのアングレーズ
  小組曲op.68(5曲)
イスランスモーン:森の明かりop.15/瞑想op.17a
  パストラル〜「バベルからの帰郷」op.20
  愛の歌op.16/子守歌op.17b/愛の夢op.18
シーグル・リー:弦楽のための組曲op.60(3曲)

クリスチャンサン室内管弦楽団
(intim musik ノルウェー輸入盤)



オルセンとイスランスモーンは過去にこのブログでも取り上げていて、作曲者を検索して入ってくる方も意外と多いようなので、隠れた人気があるのだろう、とは思う。
3者の作品はどれも、グリーグの抒情的な曲に愛着のある人には強烈にアピールする曲想だ。
オルセンOle Olsen (1850-1927)はハンメルフェスト生まれ、トロンハイムで音楽の基礎を学んだ後、ライプツィヒでライネッケに学び、その後はオスロ(当時はクリスチャニア)中心に活躍した。
最初の組曲 は、ロルフセンが童話をベースに作った喜劇のための音楽。歌・オーロラと氷山・春・夢・ジプシーの中で・こびとと妖精たち・日没の歌、の7曲で、題名からの想像を裏切らない優しい表情の音楽だ。
あとのオルセンの曲はすべてピアノ独奏曲や独唱曲からの編曲で、どの曲も明快なメロディを持っていて親しみやすい。
イスランスモーンSigurd Islandsmoen (1881-1964)はヴァルドレス生まれ。オスロで音楽を学んだ後、やはりライプツィヒでレーガーに師事した。
合唱を伴う規模の大きな作品もいくつか残しているが、積極的に故郷ヴァルドレスの民謡・伝承音楽を採譜蒐集したことからも、民謡への愛着は強く、それは小品に強く表れていた。
ここに収録された曲も民謡風のメロディを持つ優しい表情の作品ばかりだ。
リーSigurd Lie (1871-1904)はドランメン生まれ、オスロで研鑽した後、ライプツィヒのライネッケに学び、帰国後はオスロ、ベルゲンで指揮者・合唱指導者として活躍したが、病気の為33歳で没したという。
ここで聴かれる組曲は終曲を欠く未完成曲。3曲目もピアノ曲の編曲なのだが、構想上から言う「未完成」なのであって、それぞれの曲自体は問題ない完成品だし、特に2曲目は抒情的な美しい曲に仕上がっている。
なぜか不当に忘れられたこういう作品を演奏し、CDにしてくれる演奏家がいるのがありがたい。
しかも、丁寧で、控えめながら愛情をこめて演奏している。
大国に生まれ、有名になってしまえば、多少駄作でも世間に知られ演奏もされるのに、小国のこういった作曲家たちの宝石のように美しい曲は、そのほとんどが埋もれてしまっている。
何か大きな理不尽を感じる。

posted by あひる★ぼんび at 23:23| Comment(0) | 音楽

2014年11月12日

さりげない響き〜スヴェンセンの音楽

ヨハン・スヴェンセン(1840―1911)はノルウェーに生まれ、生涯をデンマークで過ごした作曲家。
この時代の多くの北欧圏の作曲家と同様、ライプツィヒ人脈の延長線上にあり、メンデルスゾーンやシューマンへのリスペクトもしっかりと見受けられる。
高まる民族主義の風潮とドイツ風の厳格な構成美のバランスをどのようにとるか…というのがこの流れの作曲家が抱える課題となっていたようだ。
スヴェンセンは交響曲などの大曲に於いては、きわめて古典的な構成と旋律線の構築を心がけ、ブラームス風の作曲技巧も躊躇なく盛り込んでいた。
反面、小規模な作品には民謡素材をふんだんに取り入れ、自らの感覚で変容解体するようなことなく用いて、北欧の諸民族とその文化への愛着をみせている。

sve1.jpgスヴェンセン:弦楽作品集
・八重奏曲op.3
・ヴァイオリンと弦楽のためのロマンスop.26
・ノルウェー民謡「去年、山羊の番をしていた」による変奏op.31
・2つのスウェーデン民謡op.27
・2つのアイスランド民謡op.30
シューマン:夕べの歌(スヴェンセン編曲)

ヘンニング・クラッゲルード (ヴァイオリン)
ラーシュ・アネルス・トムテル(指揮)
リソール・フェスティバル・ストリングス
(SIMAX ノルウェー輸入盤)

この盤に収録された曲は、一般的にいう「北欧音楽」のイメージから離れない旋律にあふれている。
八重奏曲は、着想はメンデルスゾーンの傑作「八重奏曲」だという、4楽章37分の大作。
最初の楽章はグリーグのボルベアに通じる典的な活発さの中にあるが、2楽章以降は落ち着きを持ち、抒情の中に複雑な感情の推移を感じさせる旋律の交代がある。
テンポを緩める第3楽章は2グループに分かれた奏者の遠近法が面白い。緩やかな主旋律(明らかに優位)の影で、細かく性急なフレーズが奏でられる様など先進性も感じる。また、時折あれ?っと思うほどロマンティックなフレーズがちらりと顔を出し、それが強調も展開もされずにスルーされていくのも何か面白かった。
以前とりあげた若手ヴァイオリニストクラッゲルードの独奏を伴う「ロマンス」は穏やかで美しい。
期待ほど独奏ヴァイオリンの活躍がないままに終わってしまうが、爽やかな佇まいは一幅の絵のようだ。
ここから先の民謡の旋律を用いた小品は、どれもグリーグ風。
スウェーデン民謡のもの哀しい響きや、メロディ内に奇妙な転調を持つアイスランドの旋律が印象深かった。
これはあまりにもささやかで地味な作品集。
強い印象は残さないが、早春の風のようなさりげないさわやかさと優しさがある1枚だと思う。
posted by あひる★ぼんび at 23:42| Comment(0) | 音楽

2014年11月05日

LSO2題

ロンドン交響楽団は特に個性の強いオーケストラというわけではない。
それゆえにどんな音楽にも対応できる。
そして、常に高い水準の技術で非常に見通しの良い、ヨーロッパの他の楽団よりもアメリカの商業オーケストラに近い機能美を備えた演奏を聴かせてくれるイメージもある。

最近、自主レーベルから2種のライヴがリリースされた。
2013年10月、11月と2014年1月。ワンシーズンに収まってしまう短期間の中で、2つの録音は全く別のオーケストラの様相である。
これには驚いた。
この2つにはSACDに加えてブルーレイが付属していて、ハイレゾのオーディオと、少々オマケっぽい編集だが、演奏会の様子を収めた映像が収録されている。

まずゲルギエフによるベルリオーズ。
lso01.jpg

ベルリオーズ:幻想交響曲 op.14a
       序曲「ウェヴァリー」op.1
幻想交響曲(ライヴ映像)

 ヴァレリー・ゲルギエフ指揮
 ロンドン交響楽団
(LSO SACD+BLULAY UK輸入盤)

       


ハイスペックな録音によって昔の様な「音の塊」による熱気は体験できないが、こちらはいつも聴き慣れたロンドン響の音だ。
オーディオファンには怒られてしまいそうだが、家庭内のスピーカーで楽しむ音楽は所詮ヴァーチャル。そうなれば飽和も一種の迫力。しかし、ハイレゾ時代の今の音は分離もバランスも良く、定位もしっかりしているので無茶な音は出てこない。楽しみ方は時代と共に変わるということだろう。
ゲルギエフはロシア系指揮者の中では、野獣系ルックスの割に案外とスマートな演奏を聴かせる。先入観とのギャップの大きい指揮者だ。この演奏もかなり都会的に聴こえる。
特に第1楽章の見通しの良さは格別だ。どこか煮え切らなさのある楽章が、しっかりとした骨格のある音楽として存在している。
反面、第4、5楽章は魑魅魍魎の饗宴を期待すると肩透かしにあうかもしれない。
それでも結構楽器間の音量ダイナミクスに変化をつけているので、聴こえるはずのものが聴こえず、隠れているはずのものが前面に出ていたりで充分不気味。クラリネット奏者がほとんど息継ぎせずに細かく複雑なフレーズを強奏する様子には鬼気迫るものがあった。また、最近の彼の名物「つまようじ」指揮棒の細かい動きを食い入るように睨みつけ、微妙な指示を見逃すまいとする楽員たちの表情が印象的だった。
DSCF2786ss.JPG
こんなに多くの楽員が真剣に指揮者を見ている姿は珍しい気もした。
このアルバムのジャケットは「教会の大鐘」だが、演奏ではかなり控えめな金属音。ブルーレイにも全く映らないので実態が幻だが、薄く軽い音で、金属板を叩く様な響きだ。
怒りの日は普通のチューバ2本。総じて金管群の音は控えめだが、ティンパニとバスドラムの雷鳴のごとくの空気感はインパクトが大きい。
最後に、例によって、フライング気味の奇声入り拍手が「あぁ、イギリスだ!」と思った。

全体に録音の音量レベルが低いので、曲の「どこか」にあわせて、限界の音量まで上げて聴けば、違う印象の演奏に変わるかもしれない。メディアがどんなに高スペックになっても、実際の演奏会の音にかなうものではない。
これまでに何度もゲルギエフの実演は聴いているが、録音物とは別物だと感じている。

そしてガーディナーとのメンデルスゾーン&シューマン
lso02.jpg
メンデルスゾーン:序曲「フィンガルの洞窟」
         交響曲第3番「スコットランド」
シューマン:ピアノ協奏曲イ短調
同一プロのライヴ+ピリスのアンコール映像

 ジョン・エリオット・ガーディナー指揮
 ロンドン交響楽団
 マリア・ジョアオ・ピリス(ピアノ)
(LSO SACD+BLULAY UK輸入盤)



まずフィンガル。速度等は中庸な雰囲気なのだが、音がいつものロンドン交響楽団ではない。
曲は軽いのに不思議な不自由さを感じた。
極力、ヴィブラートを抑え気味にして、時代様式を持とうと努力している様子なのだが、映像で見ても、弦奏者の左手の動きの戸惑いが見て取れた。
ノリントンが客演したN響が学生オケの音を出してしまっていた、あれほどの衝撃はなかったけれど…。
ピリスとのシューマンも万事控えめ。ピリスもやたらに控えめ。
音楽を支えるはずの低音がうすいのは録音のせい?それともピアノ?ピリス?
冒険もやんちゃもない真面目な演奏で「音楽に何を求めるかで評価が変わる演奏」の範疇だとは思う。
そしてメインの「スコットランド」。
まず驚いた。ヴァイオリン・ヴィオラが全員立奏!
DSCF2783ss.JPG
最初に音だけ聴いていたので、ずいぶん弦が軽やかな演奏だな、と思ったが、そういうことか。
ボウイングやリズムの頭は合わせやすいかも。
そんなに大げさな曲ではないのに、なぜか奏者がきつそうなのは何故だろう。
とにかく、これはロンドン交響楽団の音ではない。
悪いとは言わないが、ピリオド奏法の原理を現代オケに持ち込むのは、機能美や各奏者の技量が生かせない状況になることは確かで、ガーディナーさん、それは自分のオケでやってくださいよ、と言いたくなってしまう。
この演奏には、メンデルスゾーンやシューマンの音楽の持つ哀愁や潤いもあるし、豊かな歌心もある。
だが、普通にやってくれればきっともっと名演奏になったろうに…なんて考えるのは贅沢なのかな。

posted by あひる★ぼんび at 23:52| Comment(0) | 音楽

2014年10月23日

アリーナのために〜ペルトの音楽E

先日、アルヴォ・ペルトが高松宮殿下記念世界文化賞(第26回)を受賞した。
テレビをつけたら、急にペルトが映ったので驚いたのだが、そういうことだった。

parttaka.jpg

「大きな栄誉を与えられたことに深く感謝します。私は、残りの人生をかけてこの栄誉に対し責任をもっていきたい」と、授賞式での氏のコメント。

いわゆる「現代音楽」というくくりの中に入れ込んだ場合、ペルトの音楽はかなり独特の個性を持っていた。
聴こえてくる音楽は、何百年も昔に遡った遙かな過去に向いているような、音楽の基本が「音」であることをつきつめたような、そんな特徴を持っていた。
その登場はショッキングでセンセーショナルだった。
最初期こそ前衛的で刺激的な音楽を書いていたが、しだいに作風は極端に凝縮、純化した。
いわゆる「ティンティナブリ(鈴鳴り)様式」を確立してからは、鋭角的でなく破壊的でない、純粋な音が、「ヒーリング」の時代ニーズに合致し、異例のセールスを見た。
だが、類似のスタイルを踏む作曲家が随分と増え「流行」のようになってしまうと、ブームの反動の「飽き」を言い始める世間に飲み込まれていく。
ペルトは今、その危険地帯にいる…と、素人の勝手な感想だが、近々の作品が、かつてのほど霊感にあふれ新鮮であるとは思えなくなってしまったのは、何故だろう…。

好きだけど(^^)

partali.jpgペルト:ピアノ作品集
  アリーナのために/アリヌーシュカの癒しに基づく変奏曲/
  ウクアル・ワルツ/アンナマリアのために/
  アリーナのために/断続する平行/偉大な都市への頌歌/
  アンナマリアのために/アリーナのために/フラトレス/
  鏡の中の鏡/4つのやさしい舞曲/2つのソナチネ/
  パルティータ Op.2/アリーナのために
イェローン・ファン・フェーン(ピアノ)
サンドラ・ファン・フェーン(ピアノ)
(ブリリアント 2枚組 オランダ輸入盤)


ひたすら美しい、白い音楽。
リュビモフの演奏した「アリーナ」は、永遠に降り続く雪の風景の印象だった。
なんと、その「アリーナ」をここでは4回に分け、合計約50分収録している。
この曲の実体は「主題と変奏」だが、変奏部分が即興ということなので、演奏者によって雰囲気が大きく変わる。
とはいえ、最初にリリースされ、それこそ世界中でかなり売れたリュビモフのスタイルが呪縛状態なのは想像できる。
ここでのファン・フェーンの演奏は同じレーベルのラルフ・ファン・ラートの演奏よりテンポも変奏のスタイルも落ち着きがあり、リュビモフに近いと感じた。
とにかく、純粋で美しい音の粒が静かに降り積もるさまは、聴く人すべてに特別な感情を呼び起こすだろう。
その感情は、悲しみであったり、温もりであったり、憧れであったり…人それぞれ違うはずなのだ。
2枚のCDに、初期のアグレッシヴな作品を含む、すべてのピアノ曲を収録している。ただ、自分が所有している盤は発売から9ヶ月で廃盤になり、規格番号を変更して先月再発売された。
ジャケットは全く変更なしだが、内容では、「フラトレス」と「鏡の中の鏡」の2曲が2台ピアノ版からチェロ&ピアノ版に差し替えられたようだ。
何か事情があったのかな?作曲家のクレーム?演奏上の問題???
まあ、そのへんはおくとして、とにかくこの「アリーナ」だけでもずっと聴いていたくなるような「永遠性」(中毒性?笑)のある音楽だ。
現実から抜け出し、なにやら魂が浮遊してしまいそうになるので、注意が必要!!

posted by あひる★ぼんび at 20:52| Comment(0) | 音楽

2014年09月30日

内田光子の新ウィーン楽派作品集

西洋音楽の近代の歴史の中で、大きなできごとは「新ウィーン楽派」の誕生。
ヨーロッパ全体の閉塞感からの脱却をめざす「もがき」もあってか、芸術のひとつの流れがシュールレアリズムに大きく傾き、その中からある意味自然発生的に生まれたともいえる。今にしてみれば、同時代に連携なく似たような作曲技法が試されている不思議もあるが、とにかく、20世紀初頭から第2次世界大戦を挟んでこの「12音技法」は生まれた。
この技法を体系的に確立させたのがアルノルト・シェーンベルクだ。
ユダヤ人だったシェーンベルクは、ナチス党が政権を握ったことで、ドイツでの活動が不可能となり、1933年、アメリカに亡命する。
彼が信頼する弟子のひとり、ベルクは、師匠と同じく「退廃音楽」として弾圧を受けた。
かなり数学的なこの技法を使いながら、聴く者に不思議な情感のようなものを感じさせる作品を生んでいる。しかし、師匠がドイツを去って間もなくの1935年、虫刺されを原因とする敗血症で死んでしまう。
そして、やはりドイツを離れなかったもうひとりの弟子、ヴェーベルンは、より技巧的に突き詰め、凝縮された音楽を書いた。芸術活動は制限されていたが、ナチスと程よい関係をとることで戦禍をうまく切り抜けた。1945年、終戦直後の混乱期にナチス残党と誤認を受け、米兵に狙撃され落命してしまう。
伝統音楽からの発展系として、無調音楽をつきつめることで生まれたシェーンベルクの12音技法、それをより精練させたベルクやヴェーベルンの音楽は、すでに現代では前衛と呼べないものだが、そこに流れる神がかり的なインスピレーションが、多くの作曲家に刺激を与え続けている。弾圧と禁止、多数の著名音楽家からの罵りにもかかわらず、まかれた種は世界中で発芽し、開花している。これらが西洋音楽の既存のルールの限界を顕わにしたものだったか、新たなる発展の可能性を示す糸口だったか、答えを出すのはまだまだ早計。100年に満たない時間ではいまだ答えは出しようがないだろう。

前回もとりあげたフィリップス・オリジナルジャケット・コレクションの中の1枚。

uchishoe.jpg
 シェーンベルク:ピアノ協奏曲op.42
        3つのピアノ曲op.11
        6つの小さなピアノ曲op.19
 ヴェーベルン:変奏曲op.27
 ベルク:ピアノソナタop.1

内田光子(ピアノ)
ピエール・ブーレーズ指揮クリーヴランド管弦楽団
(philips EU輸入盤)

まず、メインはシェーンベルクの「ピアノ協奏曲」
約20分、単一楽章の協奏曲。楽曲そのものは短めだが、編成は標準の2管弦5部にチューバや多数の打楽器を含む華やかなもの。
楽譜には以下の語句が記入されている。
1小節〜  アンダンテ      穏やかな人生            
177小節〜 モルト・アレグロ   突然わき起こる憎悪
264小節〜 アダージョ      鬱々たる日々は続くが…
329小節〜 ジョコーソモデラート だが人生は何事もなく過ぎてゆく
この曲は世界大戦中の1942年にアメリカで書かれた。
12音技法によって構築された曲だが、快活さと明朗さが勝っていて、とても聴きやすい。
楽譜出版(1943年)も初演(1944年)も言うまでもなく大戦中。
なのにこのふっきれた感じはどうしたことだろう?
激動の人生の終点近くになっての一種の悟りなのだろうか。
メロディーこそ12音技法独特の、知らない人が聴いたら調子っぱずれにしか思えない「例の」パターンだが、明確なリズムと古典的な構成。前衛というほど尖ったものではない。
ナチスの牙を逃れ、ドイツからアメリカに亡命したあたりで、伝統的な調性音楽の破壊とか脱却とか、そういう「闘争」からもすでに抜け出していたのだろう。

内田光子の鮮明なピアノが素晴らしい。
新ウィーン学派のスペシャリストとも言うべきブーレーズの迷いないサポートの下、余裕ある演奏を聴かせてくれる。かつてグールドの演奏で感じた、時代の危機感とか不安感、それらとの対決…は存在しない。あるのは純粋に「音」だけである。
その姿勢は、その後に続くベルクやヴェーベルンのピアノ独奏曲にも共通している。
音楽が、歴史や政治や思想と切り離されて「音」としてここに存在している。
聴くこと自体が、不思議な体験と思えてくるほどに。

posted by あひる★ぼんび at 22:18| Comment(0) | 音楽

2014年09月24日

時の終わりの為の〜メシアンの音楽

バイロンの小説の有名な一節に「真実は小説より奇なり」とあるが、実際は違うと思う。
多くの場合、真実は理にかなう流れの中にあるし、面白いオチもない。
そのエピソードが面白かったとしたら、それはうまく脚色されているのだろう。

オリヴィエ・メシアンの作品「Quatuor pour la Fin du Temps」
「世の終わりの為の四重奏曲」あるいは「時の終わりの為の四重奏曲」と訳されている50分程の室内楽曲。
クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ピアノという変則的な楽器編成、
それぞれに「ヨハネ黙示録」からの題名のついた8楽章の組曲的構成…という、進歩的作品である。
1940年の末に完成、初演は1941年1月、現ポーランド・ゲルリッツの捕虜収容所。
「チェロの弦は3本しかなく、ピアノは叩いた鍵盤が戻らないようなバッドコンディション、クラリネットはキイが溶けて壊れていた…収容所内は極寒で、明かりすらない、そんな劣悪環境の中、身を削るように作曲したこの四重奏曲は、かつてないほどの集中力で迎えられ、数千人の捕虜・看守らに感銘を与えた」…ということである。
このエピソードによって、戦後早いうちからこの作品は話題になり、人気曲の仲間入りをした。
上の話は概要だが、実際はもっと感動的に磨かれた話になっている。
こういった話の真偽で音楽そのものが変わってしまうわけではないけれど、
エピソード先行で人気の出たような曲は、結局のところ大きな影響をまぬがれないと思う。
最近の某氏の作品のように。

近年、曲の成立の検証や証言が進み、残念な状況がわかってきた。
まず、この曲は全曲そろって収容所で書かれたというわけではない。
当事者の証言によれば、チェリストは予備の弦を持っていた。クラリネットも致命的な故障ではなかった。
ヴァイオリンは、良品ではないが、演奏に支障はなかった。
また、ここのピアノは確かにアクションに問題はあったが、時折、ジャズ演奏等に使われてもいたという。
初演ではメシアン自身が演奏したので、本人がエピソード通りの状態だったと主張するならそれまでだが。
観客数は400名前後、多くても600名を越えていない。
だいぶいろいろ話を盛られたな…。
また、ゲルリッツ収容所がどのような環境だったかは諸説あるようだが、
収容自体が非道に違いなくとも、少なくとも彼ら音楽家に対する待遇は、ユダヤ絶滅収容所ほどの地獄環境ではなかったという。

ただ、ナチス党は前衛的音楽を「退廃音楽」として演奏を禁じ、常に弾圧していた。
音楽によって人心掌握し扇動する、後のソ連のような「社会主義リアリズム」の一環とはまた少し異なる、
ドイツの伝統音楽に対する信仰と、実際は単純な音楽しか理解できなかったヒトラー達の嗜好とある種のコンプレックスが生んだ大きな歪み。
それにしても、現代人の耳で聴いても前衛的なこの曲を、よくナチ施設の真っ只中で演奏できたものだと思う。
また、収容所の聴衆たちのすべてが、この作品を一聴で理解し、感動できる感性を持っていたことも、にわかには信じがたい。
極限状態の精神が生んだ芸術が極限状態の人達の心に共鳴したから…と結論付けるのはあまりにも短絡しているだろう。
あ、その意味では「真実は小説より奇なり」か!

messi.jpgメシアン:時の終わりの為の四重奏曲
 (水晶の礼拝/時の終わりを告げる御使いのヴォカリーズ/
 鳥たちの深淵/間奏曲/イエスの永遠性への讃歌/
 狂乱の踊り/虹の錯乱/イエスの不滅性への讃歌)
サティ:6つのグノシェンヌ

フェラ・ベス(vn) ゲオルゲ・ピーターソン(cl)
アンナー・ビルスマ(vc)ラインベルト・デ・レーウ(pf)
(philips EU輸入盤)



結構前にここで紹介したフィリップス・オリジナルジャケット・コレクションの中の1枚。
デ・レーウら、オランダ勢の演奏は、独特のテンポ感だが、全体的に耳にあっさりした音で、聴きやすい。
苦悩と、諦念と、それでもわずかに注ぐ宗教的な救済、人間界と自然界の対話…とらえかたで様々に表情を変える、音たち。
感動は…ん〜。僕の中にメシアンで感動できる耳は育ってないのかもしれない。
ただ、この音楽が持つ不思議な色合いが、いつのまにか心の片隅に染みてくる。
そんな感じである。

posted by あひる★ぼんび at 22:20| Comment(4) | 音楽

2014年09月12日

北欧の風〜クラッゲルードのヴァイオリン

積極的に北欧作品をリリースしているヴァイオリニストに、ヘンニング・クラッゲルードがいる。
彼は世界的に知られた大作曲家の大作ばかりでなく、ローカルな作曲家の小品や、メジャー作品の「おきかえ編曲」までアルバムにして楽しませてくれている。
同じノルウェーには大御所テレフセンがいるが、クラッゲルードも、将来的にテレフセンのようなエンターティメント性と芸術性を併せ持った名演奏家に成長して欲しい。美しい音と、確かな技巧がそれを期待させる演奏家なのだ。

ここではとりあえず2作紹介。
norv01.jpg「北欧のヴァイオリン音楽」
 スパッレ・オルセン(1903-1984):6つの古い村の歌
 アッテルベリ(1887-1974):組曲 第3番(2vnと弦楽版)
 ステンハンマル(1871-1927):2つの感傷的なロマンス
 ブル(1810-1880):ハヴァナの思い出/山の幻影
 ハルヴォルセン(1864-1935):ノルウェー舞曲 第3番
 シベリウス(1865-1957):6つのユモレスク Op.87&89
 シンディング(1856-1941):晩景 Op.12

ヘンニング・クラッゲルード(ヴァイオリン)
ダーラシンフォニエッタ ビャルテ・エンゲセト(指揮)
(naxos EU輸入盤)

哀しく、穏やかで、静謐な音楽を集めていて、とても美しい。美しすぎて、ついウトウトしてしまう。
きわめて室内楽的で柔らかい弦の音色。舞曲風の部分まで角を削ってしまっているので、果たしてこれらの音楽の本来の姿を伝えているか、といったら若干の疑問もある。どの作曲家も同色に聴こえてくる。まぎれもなくそれは「クラッゲルードの音色フィルター」の効果なのだ。
なお、アッテルベリでのセカンドパートもクラッゲルードが演奏し、ミキシングしているらしい。
別に違和感はないが、普通にもうひとり用意して演奏して欲しかった。
シベリウス以外は競合する盤が希少な曲ばかりなので、北欧音楽ファンには小さな宝物になる1枚だと思う。

音楽とは関係ないことだが、輸入代理店がつけた日本語帯の「ノルウェーのヴァイオリン音楽」は言うまでも無く誤訳。英語習いたての中学生じゃないんだから…(−−;)

norg01.jpg
グリーグ:ヴァイオリン協奏曲
 第1番ヘ長調Op.8(1854)
 第2番ト長調 OP.13(1867)
 第3番ハ短調Op.45(1886-1887)

ヘンニング・クラッゲルード(ヴァイオリン)
トロムソ室内管弦楽団
(naxos EU輸入盤)



グリーグはヴァイオリン協奏曲は書いていない。これは「おきかえ編曲」だ。
クラッゲルードとベルント・ジーメン・ルンド(チェロ奏者で、電子音楽作曲家でもある)が、3曲のヴァイオリンソナタのピアノパートを室内管弦楽になおし「協奏曲化」した。
2012年の編曲であり、当盤は2013年の録音だから、比較できる演奏は他にはない。
原曲の3つのソナタはヴァイオリン音楽の愛好家にとっては親しみのある作品であり、地味な印象ながら、人気もある。特に3番は名盤も多い。
ここでの編曲は控えめで、有名なピアノ協奏曲に聴かれるようなワグネリアンの姿は微塵もない。
ピアノで聴かれる鋭い立ち上がり部分やキレが消え、原曲以上にソフトで地味な仕上がりになっている。
また、協奏曲と呼ぶには伴奏に対してヴァイオリンソロの比重が極端に大きい。
これは「ヴァイオリンソナタ」の性質上、しかたないことなのだろう。
…どうせやるなら「後期ロマン派、ノルウェー国民学派万歳!」ぐらいに静と動を対比させながら、派手目に置き換えてほしかったなあ、とか、頑張って手を入れたのに出来上がりがコンチェルタンテ程度なら、原曲のままでも良かったのに…、とか、不満も湧いてくる。
編曲に際し、彼らは特にグリーグの管弦楽法を意識しなかった。グリーグは「ペールギュント」でもわかるとおり、制約のある小さな編成でも最大限の努力を惜しまず、別作品で弦楽合奏のみで書く時も、パートを分割して声部を増やしたりもしている。
この編曲にはそれがない。あえて真似ず、「なんちゃって」になることを避けている。
出来上がりを「偽作」にしてはいけない…彼らの音楽的な血でもあるグリーグへの敬意として、それは譲れない部分だったということだろう。
その辺を承知したうえでなら、しみじみ楽しめると思う。なにしろ、演奏が持つ独特の雰囲気と息づかいから、グリーグや、故郷が生んだ音楽への深い愛情が聴き取れるようだからだ。

季節はいよいよ秋。
音楽をじっくり聴くにはいい季節になった。
もちろん、まだ暑い日もあるのだが、しばし北欧の風で爽やかさを楽しもう。

posted by あひる★ぼんび at 23:34| Comment(0) | 音楽

2014年09月04日

フローラン・パニーのベストアルバム

いくらこの種の音楽の愛好者だとはいっても、極東日本では情報も限られる。
まして積極的に情報収集に励む時間が持てない現状では。
パニーがフランス語圏でどの程度の人気なのかは知らない。この人ならこの曲!というビッグヒットも知らない。だが、youtubeなどへのファンによる動画投稿数・再生数、アルバムの数などから察すると、かなりの人気なのだろうと想像できる。
ルックスは一言で言えば「怪しげ」。美男とは言えない、ジョン・マルコヴィッチ系の雰囲気なのだが、青さよりも渋さが売りになるヨーロッパではきっとイイ男なのだろう。
肝心の歌のほうだが、曲の国籍と売り込み先で発声法を切り替えている様子で、アメリカン・オールディズ風の太く落ち着いた声、イタリアオペラ風の朗々とした声、憂いをこめたシャンソン風、軽快なポップス風…若干、楽曲ごとに解釈を類型化して取り組んでいる感が強いものの、多様性が面白いと思った。
声域はハイバリトンからリリックなテノール、明るい響きで全体に落ち着きと軽やかさが同居していて聴きやすい声だと思う。

140903.jpg
フローラン・パニー
  Les 100 Plus Belles Chansons(1986-2005)

(Blue Wrasse Mercury EU輸入盤 6枚組)


手っ取り早く彼の全貌を知るには便利なセット。
金属缶に紙ジャケットのアルバム6枚を収めたベスト盤で、1986年のデビュー曲から2005年まで、スタジオ録音を中心に数曲のライブ音源を含めた全100曲。
アーティストの音楽に係る姿勢や思想を知ろうとするならオリジナルのアルバムを聴いたほうが良いのは確かだが、ここにはこの歌手のほとんどのパターンが網羅されているので、かなりの満腹感が得られる。
(付属のブックレットはフランス語の題名のみで歌詞はついてない。言葉の意味がわからないと無理、という方には向きません。題名すらわからなくても、声と音楽の力で感動が可能な感性の方にはお勧め^^;)

以下の動画はyoutube引用。消えてたら御免なさい。
イタリアのダッラの名曲「カルーソー」のカヴァー。
名テノール・カルーソーが「海辺のホテルで愛人と人生の最後の数日を過ごす…」という内容で、生への執着を痛切に歌い上げている。


Le Soldat(兵士)
兵士が塹壕の中で愛する妻子に手紙をつづる。「私は兵士だ。心配はいらない。私を誇りに思ってくれ…もう還らないだろう…」


posted by あひる★ぼんび at 23:54| Comment(0) | 音楽

2014年06月26日

リシッツァのナイマン

マイケル・ナイマンは1944年ロンドン生まれの作曲家。
王立音楽院、キングスカレッジで音楽史や作曲を学んだが、卒業後は近接世代の作曲家たちの前衛的な流れに賛同できず、1970年代は主に評論家として活躍していた。
しかし、80年代以降は、「プロスぺローの本」や「英国式庭園殺人事件」そして「ピアノレッスン」などの映画音楽を主体に世界的に知られるようになった。
彼が関わる映画そのものは、結構刺激的で湿っぽいストーリーのものが多いが、そこに淡いメロディ、少ない音数ながら不思議な構成の彼の音楽が乗ると、双方に「深み」を与える相乗効果があるようだ。

今回、ウクライナ出身「新世代ピアニスト」として話題のリシッツァが、そのナイマンの映画音楽を集めたアルバムをリリースした。
lisiny.jpg
マイケル・ナイマン:
  ピアノの為の音楽(25曲)


  ヴァレンティーナ・リシッツァ(ピアノ)
  2013年12月録音

 (DECCA EU輸入盤)

*『ピアノ・レッスン』〜楽しみを希う心/ビッグ・マイ・シークレット/
  ディープ・スリープ・プレイング/ヒア・トゥ・ゼア/ロスト・アンド・ファウンド/
  すべて不完全なるもの/アトラクション・オブ・ザ・ペダリング・アンクル/抱擁/
  あのとき芽生えた気持ち/シルバー・フィンガード・フリング/
*『アンネの日記』〜キャンドルの灯/イフ/さよならモルチェ/教室/ホワイ/
*『数に溺れて』〜シープ・アンド・タイズ *『キャリントン』〜フライ・ドライヴ
*『ガタカ』〜ディパーチャー *『ことの終り』〜ダイアリー・オブ・ラヴ
*『ZOO』〜時の流れ  *『カメラを持った男』〜オデッサ・ビーチ *『クレーム』〜変化 
*『英国式庭園殺人事件』〜羊飼いにまかせとけ*『ワンダーランド』〜ジャック/ビル


ピアノ音楽愛好のウルサ方から苦言が出るだろう事も厭わず、弱音主体、ペダル多用で全曲を貫き通している。
それはその楽器を最大限美しく響かせようというより、音楽としての効果と、そこから湧き上がる感情を優先しているように思えた。
これまでの、リストやラフマニノフをバリバリ弾きまくっていた彼女の印象とは全く違うのだ。
これまでの演奏で獲得したファンや、世間の期待を思い切り裏切ってみせるあたり、リシッツァは本当にロックな奏者だと思う。
ここにはナイマンを世間に知らしめた「ピアノレッスン」と、アニメ「アンネの日記」の音楽を中心に25曲が集められている。
どの曲も静かで哀しい。本当に美しい。
ただ、76分間続けて聴くのはどうだろう?
強烈な誘眠効果が出てしまっているのは、意図なのか、事故なのか。
少し前に出たダニエル・ホープの「スフィア」やヒラリー・ハーンの「アンコールズ」もそうだったから、こういう「癒しと言えば癒しだが、集中して聴くのは拷問に近い」…という感じが流行なのだろうか。
もしかすると、スピーカーの前に鎮座して音楽だけをじっくりと聴く、というクラシック音楽鑑賞の基本スタイルは、もうとっくに時代遅れになっているのかもしれない。
2、3曲抜き出して聴いたり、BGMとするなら最上級の音楽なのだから。

posted by あひる★ぼんび at 23:22| Comment(0) | 音楽

2014年06月17日

ピサレーヴァのシューマン

ナジージェダ・ピサレーヴァ。
1987年生まれのロシアのピアニスト。
特に難しい名前ではないけれど、なかなか覚えられない(笑)
同姓同名、同世代のスポーツ選手がベラルーシにいるが、こちらはピアニストだ。
その演奏力に加え、愛らしいルックスも手伝って、デビュー直後、一部のピアノ音楽愛好家の間で話題になった。
その彼女が去年リリースしたのが「シューマン作品集」。
これが正式デビューアルバムということになる。

cnade002.jpg
R.シューマン:ピアノ作品集
 ・ピアノソナタ第1番op.11
 ・スケルツォ、ジーグ、ロマンツェとフーガop.32
 ・3つの幻想小曲集op.111

ナジージェダ・ピサーレヴァ(ピアノ)
録音:2013年セッション

(classical records ロシア輸入盤)



シューマンの曲は、技巧的にもロマンティックにも、解釈の幅が持てるわけだが、彼女はいたって「中庸」で真面目に弾いている。どの曲も極端に大きくテンポや強弱をいじることがない。
いや、新人の1歩めがもし異常な雰囲気を醸し出す解釈だったら、その演奏家はアブない人なわけで、つまりこの平穏な解釈はこれからの伸びしろをしっかり示していると思えた。
ただし、選曲はただ者にあらず。
いきなり「ピアノソナタ第1番」という、よく言えば変化に富んで多彩、悪く言うと散漫な曲で始まるのだ。
かなり異常な雰囲気を持つこの曲を真面目に弾くと…結構、あちこちでおもしろいことが起こっている。狙いだとしたらスゴイ。
それだけでなく、なにより、シューマンからこの曲を受け取ったクララはこんな風に弾いたのかも、と思えるような、作品に対するというより作品の意図に寄り添うような解釈も各所に感じられた。
次の曲もop.32という、あまり馴染みの無い曲集。
普通ならば「子どもの情景」とか「森の情景」あたりの愛らしくロマンティックなものをやりそうなのに、そうきたか!という感じだ。
これだけを聴いたのではわからないが、彼女には控えめな中に潜ませた独特のリズム感があるようだ。
歌心とリズムのバランスを聴くにつけても、多くのロシア系女流のようにチャイコフスキーやメトネルあたりを聴きたいと思った。
ひとつ残念なこと。これは彼女のせいではないのだが、
全体の印象が少々ごつごつしてしまっている。
使用楽器がベヒシュタインだから、というのではない。鮮明ではあるが固く残響の薄い録音のせいと思われる。
まるで、歴史的楽器を弾いてるような響きで、最初の違和感が消えるまでひと楽章分を要した。

なお、このアルバムは自主制作ではないながら、大手の輸入代理店を持たないロシアのマイナーレーベルのものなので、入手するのが難しい。
こうなると知名度はすぐには上がりようがない。
だが、話題にならないことで、学習と練習の時間がたっぷりとれるというのは、ある意味ではラッキーかもしれない。
若手の才能つぶしは「伸びるべき時期にその時間をセールスプロモートで消費する」形で、いくつも例がある。
勉強不足見え見えの状態でコンチェルトを録音させるなどはよくあることだ。
このまま、アイドル展開して売ろうと企むどこぞのプロモーターにひっかっかる事なく、しっかりとした芸術家として音楽界に名をのこせたらいいと思う。
今のピサーレヴァの演奏を手放しに誉めるつもりはないけれど、存在に注目していきたい演奏家だと思えた。

posted by あひる★ぼんび at 23:42| Comment(0) | 音楽

2014年06月01日

ヴェローナ2006年のトスカ

ローマのアレーナ・ディ・ヴェローナ。
紀元14年〜30年ごろまでに完成した楕円野外闘技場で、数々の映画に登場する有名な遺跡。
…というより、現役のイベントスタジアムだから、遺跡とはいわないか。
闘技場としては25000人以上、現在の劇場としては16000人を収容できるという。
ここでは毎年6月から8月に、オペラ公演が行なわれ、世界中から観光客が訪れている。

今回取り上げるのはそのヴェローナでの「トスカ」。
2006年の公演収録で、発売も購入も視聴もだいぶ前だが、改めてUP。
tos00.jpg
プッチーニ:歌劇「トスカ」
トスカ…フィオレンツィア・チェドリンス
カヴァラドッシ…マルセロ・アルバレス
スカルピア男爵…ルジェーロ・ライモンディ
アンジェロッティ…マルコ・スポッティ 他
アレーナ・ディ・ヴェローナ管弦楽団&合唱団
ダニエル・オーレン(指揮)
(ARTHAUS blu-lay ドイツ輸入盤)



フーゴー・デ・アーナによる豪華だが保守的な衣装、大胆奇抜だが物語に完全に溶け込んだ舞台背景、巧みな照明効果。
巨大な野外公演イベントとして最高クラスの「総合芸術」であり「娯楽作品」になっている。

飲み物とおつまみを片手に、ラフな格好で開演を待つ人々、
直前には手に手にキャンドルを灯し、雰囲気を盛り上げる。
そういった観客の姿に驚きと羨ましさを感じ、イタリアに根付く伝統文化としてのオペラを印象付けられた。
tos1.JPG

カヴァラドッシ役はアルバレス。少々ファットで、動きが重いが、声量は充分。
トスカ役はチェドリンス、歌姫の上品さより、カルメンの様なワイルドな所作と感情の吐露で迫力がある。
tos2.JPG

そしてスカルピア役は大御所ライモンディ。堂々としていてカッコ良い。
一見して「うわっ、こいつか!」と思わせる絵にかいたような悪徳軍人官僚キャラクター。
tos3.JPG
tos5.JPG
tos6.JPG

聴かせどころの「テ・デウム」は輝かしい衣装の司祭や僧侶たちの行列、豪快な祝砲、2階建ての豪華セットに支えられて、圧巻だった。
tos9.jpg
それはラストよりも印象深い大クライマックスを作っていた。
悪役のほうが存在感がある、というのはオペラ公演ではよくあることだ。
「トロヴァトーレ」のマンリーコよりルーナ伯爵、
「カルメン」のドン・ホセより闘牛士エスカミーリョ。
「カヴァレリアルスティカーナ」のトゥリッドゥより馬車屋アルフィオ。
気弱だったり正義感だけの男だったりする主役より、悪役敵役はその人物背景も性格も複雑に描きこむ傾向があるからだろう。
どんな物語も平穏が乱されることがきっかけではじまる。まきこまれる「主役」より、事件のきっかけを作る「悪役」が重要なのだ。

実は、この上演では、スカルピアがトスカに刺された後の最終幕が急にエネルギー減衰したように感じてしまった。
名アリア「星も光りぬ」から、カヴァラドッシ処刑、そしてトスカの投身…という一連の刺激的な場面の演出が地味だったせいだろう。
舞台が監獄と屋上では、派手な装飾もライティングもできないのはわかる。
そこまでがあまりにも豪華すぎたのだ。
tos7.JPG
特に、最終シーンだけがそこまでのダイレクトな「リアル追及」から「抽象的表現」に変わってしまったのも原因か。
巨大女神像の頭の上で自由の女神スタイルのポージング…スポット…暗転。
音楽の切迫した速度感のまま一気に城壁のてっぺんに駆け上がり、飛び降りてしまえば「!!!」の衝撃だったのになぁ。
チェドリンスの身軽な身のこなしなら、それも可能だったろうに。
tos8.JPG
今回の指揮者オーレンはいわゆる国際的スター指揮者ではないが、このヴェローナ公演は慣れているのだろう。
残響のタイミングもよく読んでいるようで、もたれない颯爽としたテンポで全曲を通している。
実際の舞台、または映像の場合、演奏精度はあまり問われない。というより、わかるはずもない。
聴き手は体に感じるすべてを総合的に判断するからだ。
オペラは、「総合芸術」である。そして「最も贅沢な娯楽」である。
その意味では、最終的に演出に多少の煮え切らなさはあっても、この上演は上質の興奮を伝えてくれている。
Blu-lay化されて画質・音質とも申し分ない。
日本語字幕もついて、しかも廉価版企画。何の不満もございません。
いや、それより現地で鑑賞したいなあ(^^)

そういえば、昨年のヴェローナ日本公演「アイーダ」は売れ行きが悪かったようで中止になったという。
歴史的背景の無い日本ではこの仕様の上演はあまりにもバブリーだ。
もはや余裕を持ってそういう豪華公演を楽しめる経済力の持ち主は限定されてるということだろう。

posted by あひる★ぼんび at 19:41| Comment(0) | 音楽

2014年05月26日

リュビモフのシューベルト

シューベルトの音楽は、その「歌心」によって愛好されることが多い。
反面、のみこまれそうな孤独感と、死の影…そういった不安や恐怖を感じるという声も耳にする。
耳あたりにおいてまず「歌心」なのだろう。
しかし病気と貧困など、彼をめぐる生活のウサを思えば、何やら不穏なものを感じつつ聴くことになるだろう。
その辺は音楽そのものより、聴き手の予備知識にかなり左右されると思うのだが・・・。

晩年、1827年にピアノ独奏用に書かれた即興曲集全8曲。
この曲もよく「死の影」や「孤独感」をキーワードに語られることが多い。
だが、個人的にはあまりそう聴こえない。
僕がシューベルトにはまり込んだ時期が高校時代で、この曲を初めて聴いたのもその頃だった。
人生の重さなど全くわからぬ頃、身近な人を送った経験もなかった頃だ。
シューベルトの晩年作品に多いタタタタタタタ タタタタという明るい響きの和音の連鎖は、高校受験から卒業前後の雪の残る風景と空気をいつも思い浮べてしまう。
最後のリート「鳩の使い」や、その数年前に書かれたザイドル作詩のリート群にも共通して感じた春先の色合いだ。
いまだにその感覚から抜けられないし、抜けようとも思わないのは、シューベルトは「それほど悩んでいなかった」とも思えるからかもしれない。
孤独感は、確かに感じる。
風景は明るくとも、そこを歩くのはひとり。
だが、彼はきっと寂しくはなかったのだ。
自分自身の人格と絶えず語り合い問答議論することが好きで、にぎやかな宴で友人と酒を酌み交わすことと、ひとりで心と向き合うことが同じ土俵の上にあるような…そんな性格だったのではないか。
「冬の旅」は病的に暗く、本人が書きながら憔悴しきるほどだったという証言があるが、それとて書きあがるとすぐに友人に披露し、出版を考えるなど、書棚のコヤシにするどころか、案外と悦に入っていたようだし、自分の芸術心を満足させる目的ではなく「聴かせる」こと前提に書いていたことでもわかる。
ナポレオン戦争からその反動期の中央ヨーロッパは、彼でなくても誰もが死と向かい合っていた。
音楽家はその中で、娯楽やひとときの慰めを提供する職業でもあった。
明日の事を思い悩むほど平和な時代ではない。現代の感覚とはきっとかなり違うはずだ。

schlubi.jpgシューベルト:
 ・4つの即興曲 Op.90 D.899
 ・4つの即興曲 Op.142 D.935


アレクセイ・リュビモフ(フォルテピアノ)
2009年7月録音

(ZIGZAG オーストリア輸入盤)



さて、リュビモフはECMでのペルトやシルヴェストロフ等の現代曲の録音で知られるロシアのピアニスト。
ここではシューベルト時代の楽器を使って演奏している。
使用楽器は1810年マティアス・ミュラー製、1830年ヨゼフ・シャンツ製。
どちらもエドウィン・ボインク氏の修復によるもので、うまく調整されていて古楽器的な響きの浅さや不安定さは皆無だ。
各曲とも遅めのテンポだが、聴感はサラリとしている。
均衡のとれた古典的なタッチの、決してもたれることないその演奏から、シューベルトの憧れや夢の一端を聴きとろうとする時、自分の記憶の奥底にリンクする。
そこで出会うシューベルトに「哀しいですね」と語りかけてみる。
しかし、彼は静かに微笑みながら、ただうなずくだけ・・・。
静かに耳傾けるたび、不思議な懐かしさと共に、そんなシーンが浮かぶのだ。

posted by あひる★ぼんび at 22:02| Comment(0) | 音楽

2014年05月23日

コヴェントガーデンのボエーム

「ラ・ボエーム」、こういう古典的メロドラマは、その世界に入り込むためのハードルが低い方がいい。
輝かしいテノールとソプラノが張り合うような作品ではないし、まして、ひげもじゃのプロレスラーのような、あるいは飽食メタボな巨漢が「貧乏な詩人です」とか、刺しても死にそうにないほど太ったオバちゃんが「病気なの、ごほっ」とやるのでは、なかなか感動しづらい。
映像のないCDや、その場だけの生舞台ならともかく、映像として残すにはいろいろ難しい作品だと思う。

boe03.jpgプッチーニ:歌劇「ラ・ボエーム」
 ロドルフォ:テオドル・イリンカイ ミミ:ヒブラ・ゲルズマーワ
 マルチェッロ:ガブリエーレ・ヴィヴィアーニ
 ムゼッタ:インナ・デュカク コッリーネ:コスタス・スモリギナス
 ショナール:ジャック・インブライロ ベノワ:ジェレミー・ホワイト
 アルチンドーロ:ドナルド・マクスウェル
 指揮:アンドリス・ネルソンス
 コヴェント・ガーデン王立歌劇場&合唱団
(OPUS ARTE Blu-lay EU輸入盤)


おそらくこれは、オペラに親しんでいる人が持つ公約数としての「ラ・ボエーム」のイメージ通りのもの。
素朴ながら容姿の整ったロドルフォとその友人たち、ちょっと逞しいが、美人のミミやムゼッタ。
2009年12月、コヴェント・ガーデン王立歌劇場の舞台公演を収録したものだ。

boe02.jpg
boe04.jpg

コープリーの演出、オマーンの美術。
30数年以上も前から基本を変えていない演出で、全く奇をてらったところなく、安心して観られる。
自分はオペラ演出は題材の年代と離れてはいけないと思っているほうなので、それも嬉しかった。
近年、やたらセットを抽象化したり、現代やら未来にタイムワープさせたりして、いっそ音楽だけやってろ!と言いたくなる舞台も多くなっている。
「トゥーランドット」や「こうもり」を精神病院の一室での物語にしてしまうとか、箱馬と布だけのセットで「カルメン」ですよ、とか、現代の商社舞台のモーツァルトとか、そんなのは演出家の自己満足だろう。オペラそのものが虚構空間だとはわかっているつもりだし、それによって音楽そのものに変化はないのだが、やりすぎてしまってはあの世で作曲家も泣くんじゃないだろうか?
そんなわけで、このように安心できる演出で、物語の設定にぴったりの若いキャストで、ひたすら甘く哀しい物語を綿々と描いたこれは、とても素晴らしかった。
キャストにスターがいない??
確かに、新進若手と研修生ばかりの「若い」公演だ。
もし、もっと輝かしい歌唱を望むなら、この映像を観た後で、古今お気に入りの名歌手のCDを聴いて、脳内変換で楽しむのもありだと思う。

boe01.jpg

それにしても、ふくよかで生命力あふれる容姿と声を持ったゲルズマーワのミミが、ラストであっけなく息をひきとってしまうというのが、違和感よりも、貧しい者たちがいつも隣り合わせている「死」の恐怖を実感させた。
ミミの薬の為に売れるものは売り、暖をとるために燃やせるものはすべて燃やしてしまった彼らは、この先、あの冬を生き抜けるのだろうか。
薄暗いアパートの部屋からは未来が見えない。
それが若者達の生命力との対比になって、不思議な感覚にさせられた。

posted by あひる★ぼんび at 23:33| Comment(0) | 音楽

2014年05月14日

フェンビーという影〜ディーリアスの音楽C

若きフェンビーは晩年のディーリアスの目となり手となって、いくつもの名曲を生み出した。
盲となり四肢も麻痺したディーリアスがどの程度の状態だったのか、当時のフェンビーが日記を残してはいるが、当事者であり、客観的な記録ではない。
今となってはディーリアスのとりまきの言葉以外、知る術もないのだ。
フェンビーはゴーストライターとまでは言わないが、彼が手を入れた曲はディーリアスが自力で書いていた時代の作品より、簡素で明瞭な曲が多く、それはほぼフェンビーのスタイルに変貌していると思われる。
フェンビー自身の作品は?というと、彼はほとんどの自作曲を生前に破棄してしまい、残さなかった。
したがって具体的な比較対象ナシ、である。

そのフェンビーによるディーリアス作品集。
devn.jpgディーリアス:
*ヴァイオリンソナタ(1〜3番)
*舞曲(Dance)
*フルートと弦楽合奏のための二つの小品
  (ラ・カリンダ/歌と踊り)
*小管弦楽のための5つの小品
(小さな女の子のためのマズルカ/小さな女の子のためのワルツ
 /ワルツ/現代の赤ん坊のための 子守唄/トッカータ)
*弦楽のためのソナタ

ユーディ・メニューイン(ヴァイオリン)エレナ・デュラン(フルート)
エリック・フェンビー(ピアノ・指揮) ボーンマス・シンフォニエッタ
(EMI 2枚組 EU輸入盤)


フェンビーは1枚目ではヴァイオリンソナタのピアノを、2枚目では室内アンサンブルの指揮を担当している。
ヴァイオリンソナタは、ここでは最初の「番号なし」以外の3曲を収録。
この1番や2番はまるでドビュッシーの作品の様で、チョイ聴きでは、管弦楽でのディーリアスの印象からは遠く感じる。
雰囲気の勝った音楽で、特に感動的な瞬間はないが、聴き込むとその度に違うメロディーとリズムを感じるから不思議だ。
フェンビーはさすがにディーリアスの音楽に必要なピアノの強弱のバランスを心得ている。
自由に飛翔するイマジネーション。
比べるとメニューインのヴァイオリンは固いが、作品を堅実に演奏していると思う。
そして、ディーリアス&フェンビー共同作業の作品となる3番。
これは全体に簡素な作品。
筆の遅いフェンビーにディーリアスは不満タラタラだったようだが、完成品は3曲の中では最もディーリアスらしく聴こえる。
静かな印象だが、宗教的な敬虔さはなく、ちょうど、フォーレの晩年作品のような浮遊感だ。
feme.jpg
ピアノの前のフェンビーとメニューイン。

2枚目はまず、フェンビーが初期作品を編曲したフルートとアンサンブルによる小曲3曲。
どれもメロディー豊かで耳にやさしい音楽だ。
有名な「ラ・カリンダ」も普段演奏される版よりも爽やかで軽快。こんなふうに霧が晴れた鮮明なディーリアスもアリなのか、と思う。
「5つの小品」はそれぞれにつけられた可愛らしい題名の割にいくぶんマニアックな雰囲気。
続く「弦楽のソナタ」は弦楽四重奏曲の合奏版で、有名な「去りゆくつばめ」を含んでいる。
どれもダークさは微塵もなく、このあたりがフェンビーの持ち味なのだろうと思った。
フェンビーがディーリアスと作業をすすめた日々はディーリアスが世を去るまでの6年間。
これが長いか短いかは捉え方しだい。
彼自身はその後も、生涯を通して「ディーリアスの芸術」の影の支え役だった。
それは没した今も、彼のその「名」を支配し続ける、終わりのない芸術活動なのだ。

posted by あひる★ぼんび at 22:11| Comment(0) | 音楽

2014年04月18日

アントルモンの協奏曲録音集成

フランスのピアニスト・指揮者のフィリップ・アントルモンも、今年でもう80歳。
個人的には、以前ここでとりあげたペライアと同様、思い入れはやや薄い。
それはアントルモンが地味だから、というわけではない。
彼はリストやラフマニノフなど、ヴィルトーゾの王道曲をレパートリーにしていたし、録音にも積極的だったのだが、日本での発売元・CBSソニーの宣伝がいまひとつパッといていなかったからだろう。
インターネットが普及していなかった頃は、FM放送と音楽雑誌の記事広告だけが情報源。
圧倒的に情報量が少ない時代、メーカーがゴリ推しすればスターに、反対に宣伝しなければ無名と捉えられてしまう。人気度の操作も捏造も今以上に容易だった。
CBSソニーの日本での「売り」は、ずっと、ホロヴィッツであり、グールドだったのだろう。
そんなこともあり、これまでアントルモンの演奏の本質が聴き取れる程、数を聴く機会が持てずにいた。

今年、アントルモンの80歳を記念して、SONYでの協奏曲録音を集成したBOXセットがリリースされた。

entrbox.jpg


 フィリップ・アントルモン
        SONY協奏曲録音集成

    (SONY 19枚組 EU輸入盤)



・グリーグ:協奏曲  ・ハチャトゥリアン:協奏曲
・ラフマニノフ:協奏曲第1番/第2番/第4番/パガニーニ狂詩曲/
前奏曲Op.23-3/Op.23-6/Op.3
・リスト:協奏曲第1番/第2番/ハンガリー幻想曲
・モーツァルト:協奏曲第22番/第13番/第17番/ソナタ第4番
・サン=サーンス:協奏曲第1番〜第5番/オーヴェルニュ狂詩曲/
ウェディングケーキ/アフリカ幻想曲
・チャイコフスキー:協奏曲第1番 ・ラヴェル:協奏曲ト長調/左手の協奏曲
・ファリャ:『スペインの庭の夜』・ジョリヴェ:協奏曲・バルトーク:協奏曲第2番/第3番
・バーンスタイン:交響曲第2番『不安の時代』・フランク:交響的変奏曲
・ガーシュウィン:協奏曲ヘ調/ラプソディ・イン・ブルー
・ストラヴィンスキー:カプリッチョ/ピアノと管の協奏曲・フォーレ:バラード
・ミヨー:協奏曲第1番/世界の創造(五重奏版)
・ダンディ:フランスの山人の歌による交響曲

フィリップ・アントルモン(ピアノ)
ユージン・オーマンディ:指揮フィラデルフィア管弦楽団
レナード・バーンスタイン:指揮ニューヨーク・フィル
ロバート・クラフト:指揮コロンビア交響楽団
イーゴリ・ストラヴィンスキー:指揮コロンビア交響楽団
パリ・コレギウム・ムジクム
アンドレ・ジョリヴェ:指揮パリ音楽院管弦楽団
ダリウス・ミヨー:指揮パリ音楽院管弦楽団
フランス弦楽三重奏団 ジャック・ジュステム(ヴァイオリン)
小澤征爾:指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団
ピエール・ブーレーズ:指揮クリーヴランド管弦楽団
ミシェル・プラッソン:指揮トゥールーズ・キャピトール管弦楽団
シャルル・デュトワ:指揮フィルハーモニア管弦楽団


収録曲はモーツァルトの4曲を除くとすべて非ドイツ系の音楽。
彼のレパートリーにドイツ音楽がないわけではなく、たまたまSONYレーベルでは録音しなかったということだろう。
その代わりにジョリヴェやミヨー、ダンディなど、作曲家の名は知られているが曲には馴染み薄いフランス系作曲家の作品が多く含まれている。
アントルモンの演奏は、左右の手のバランスも、全体のダイナミクスも、テンポのゆれもとても自由に聴こえる。正にロマンティックなスタイルだ。良識の範囲内とはいえ、この自由なスタイルはベートーヴェンや古典派音楽には不似合いかも。まあ、それらについては他に良いピアニストがいるので、詮索せずに、まずは目の前にあるものを楽しむとしよう。
何といっても、このセットに含まれるサン=サーンスのピアノ協奏曲全集は、安定した名演だ。全5曲(さらに2番4番は2種)に加え、オケと共演する小品も録音していて、アントルモンのサン=サーンスへの思い入れを強く感じた。
そしてジョリヴェ。この曲は、初演の騒動がスキャンダラスだったり、「赤道コンチェルト」という通称に各方面からクレームがついたりで、音楽とは違う事で聴き手を構えさせかねないものなのだが、アントルモンは熱っぽく、理屈抜きに面白く聴かせてくれる。
ラフマニノフはなぜか3番は録音していないようだ。実に自由にテンポを揺らしながら雄大に、ロマンティックに歌う2番の演奏を聴くと、3番も聴きたくなるのだが…。
共演者の豪華さは特筆もの。
SONYの看板指揮者のオーマンディやバーンスタイン、ブーレーズに加え、小澤まで加わっている。
さらに、ストラヴィンスキーやミヨー、ジョリヴェら、作曲者自身が指揮をとっている。
アントルモンのヨーロッパでの人気と実力と期待の大きさの証明でもあるだろう。

録音は1958〜81年と、長期にわたるので、ばらつきはあるが、アナログ全盛期らしい豊かな音だ。幾分、ピアノが巨大化していたり、オケが平面的に聴こえる曲もあるが、うちの機材との相性は悪くなかった。
編集が「?!?」な部分があったりもするのだが、まあ、それは廉価大箱の宿命。そのうちペライアの時みたいにメーカーからアクションがあるだろうから、とりあえず気にしない(笑)

若き日のアントルモン。
丁寧な解釈と技巧、生き生きとした音楽を聴かせてくれる。
最近は指揮者としての仕事ばかりのようだが、改めて、素晴らしいピアニストだと再確認できるセットだった。

posted by あひる★ぼんび at 22:15| Comment(0) | 音楽

2014年04月11日

フルートが描く風景〜ヴァスクスの音楽G

久々のヴァスクス。

vasksfl.jpg
ペトリス・ヴァスクス:
・フルート協奏曲
・ソナタ(アルトフルート、フルートの為の)
・アリアと舞曲(フルートとピアノ)
・鳥のいる風景

ミヒャエル・ファウスト(フルート)
パトリック・ガロワ指揮
シンフォニア・フィンランディア・ユヴァスキュラ
(naxos EU輸入盤)


ナクソスへの新録となれば、またソロはガロワかな?と思っていたら、ガロワは指揮だった。
今回のソロは、ヴァスクスがこのフルート協奏曲を献呈したミヒャエル・ファウスト。
ドイツの奏者らしいが、初めて聴いた。
意味不明な音列になるほど、滑らかにかつ技巧的に聴かせる。
反面「歌」に対しては淡白であっさりしている。
だが、ヴァスクスの作品はこれぐらいが丁度良いかもしれない。
旋律的な部分はラトヴィアの民謡要素がかなり強いので、あまりねっとり演奏すると、それが浮き出てしまい、現代的な部分とのバランスが奇妙になりそうだからだ。
フルート協奏曲は、まず、意味ありげなような、ないような、かすかな「音」ではじまり、やがて民謡風の音楽が奏でられる。やけに日本風に聴こえるのが彼の「コールアングレイ協奏曲」に良く似ている。最初の楽章の哀愁をたたえた堂々とした佇まいは、まるで葬送行進曲のようにも響く。その後、戯れるような早い楽章は奇妙に鋭角的な音を交えながら進み、再び緩やかな楽章へと流れていく。構成は他の彼の作品と同じパターンを踏んでいるが、しかし、闘争とか葛藤はさほど感じない。33分という演奏時間は、現代の管楽器の協奏曲としては大規模だが、とても聴きやすく、耳に心地よい曲だった。
続く無伴奏のソナタは思い切り現代風。かといって、感情を排した無機的な音楽ではない。
アルトフルートが奏でる不思議な音列。「夜」という題名は何を意味しているのだろうか。
ピアノを伴う「アリアと舞曲」は協奏曲と同様の旋律的な作品。協奏曲と同種のメロディを持っている親しみ安い曲だ。
最後に再び無伴奏で「鳥のいる風景」という8分ほどの曲が収録されている。彼の弦楽四重奏曲などに聴かれるのと同様の、自然界の描写である。

ヴァスクスの曲を聴くたび、日本の某売れっ子作曲家が、特にその技法について結構辛らつに批判していたのを思い出す。
いや、ヴァスクスとその某氏の音楽、表面的にはかなり似ているのですがね(笑)
大きく違うのはヴァスクスには民族意識と宗教観の具現があるということ。
それらを強調すれば、おのずと直接的な作曲技法は後退するのも当然だ。
技法を凝らして自己満足的な「作曲の為の作曲」だったり、逆に商業的な成功だけを意図して書いたりの、無国籍・無宗教な日本の「ゲンダイオンガク」より数段、感動できると思うのだけれど。

posted by あひる★ぼんび at 23:09| Comment(0) | 音楽

2014年04月02日

「束の間の音楽」〜ラルペッジャータ版パーセル!

エイプリルフールというと、どうでもいいウソ記事が新聞に堂々と掲げられたりするが、あれはどうも・・・最近は普段から何が嘘で何が真実かわからないことばかりで、改めてこんなことするなよ!と思ってしまう。

さて、そんなエイプリルフール記事のごとく、どこからどこまでがマジなのかわからないアルバム。
purce.jpgパーセル:「束の間の音楽」〜パーセルの音楽による即興
・『Twas within a furlong』・『Music for a while』
・『Strike the viol』・『An Evening Hymn on a Ground』
・『In vain the am’rous flute』・『A Prince of glorious…』
・『O solitude』・『When I am laid in earth』
・『Wondrous machine』・『Here the deities approve』
・『Ah! Belinda』・『Hark! how the songsters of the grove』
・『One charming night』・『Man is for the woman made』
・『O let me weep』・『Curtain Tune on a Ground』
・コーエン:『Halleluja』

 フィリップ・ジャルスキ(C-T)
 ラケル・アンドゥエサ(Sp)ドミニク・ヴィス(C-T)
 ヴィンチェンツォ・カペッツート(C-T)
 ラルペッジャータ
 クリスティーナ・プルハール(指揮&テオルボ)
(エラート CD+DVD EU輸入盤)

これまでも、モンテヴェルディでスウィングするアレンジを披露していたラルペッジャータだが、今回はそれと同じ要領で、パーセルを素材にアルバムを作った。
いつもの古楽器に、エレキギターやベース、ドラムスなどを加えての演奏。この段階で軽くジャンル越えをしている。
カウンターテナーやソプラノの声楽陣も、「作曲年代」ではなく「曲想」に準じた発声と表現で、実に自由に歌っている。
この主宰者プルハールの民族音楽テイストと、ジャズ志向には抵抗感のある人もあるだろう。そういう人は避けて通ればいいだけのことだ。
怪しげな自作音楽を、さも考証成果であると発表する一部の古楽研究家よりは、よほど潔いと思うし、自分はこういうセンスは大好物だ。
もともとパーセルの音楽はモンテヴェルディよりも明快で、わかりやすいこともあって、ちょっとポップなアレンジも無理なく嵌っていると思えた。

例によってオマケのDVDが面白い。
レコーディング、あるいはその前後の時間列にセッションを録画したもので、楽器編成や演奏者の時に嬉々とし、時に真剣に奏でている姿を確認できる。
デビューの頃から全く変わらないジャルスキは、今回の歌唱も端正で耽美的。
対照的なのがカペッツートで、この人は極端に演劇的に感情の赴くままに歌う。
映像で観るまで、ポピュラーかトラッド系の女性歌手かと思った。歌っている時の表情は、面白いほどジャルスキと同じなのだが、歌い方が少々下品で酒臭い(^^;)
そして驚いたのは、マツ○並みに大きくなったプルハールの姿。こういう激太りは少し体調が心配になってしまう…。

(このアルバムのオフィシャルPV。おそらく期間限定公開だと思われます)

このアルバムは、副題の通り「パーセルによる即興」であって、パーセルそのものを味わいたいなら別のものをお薦めする。
どんなにしっとりと歌おうと、パーセルの持つ色合いとは微妙に異なる色彩感になっているのだから。
しかし、演奏者たちと、その特徴を知っていて、そこに少しでも愛着があるなら絶対に楽しめるはずだ。

posted by あひる★ぼんび at 23:45| Comment(0) | 音楽

2014年03月20日

ローマ3部作!

レスピーギ作曲ローマ3部作。
この曲を初めて聴いたのは中学の頃、NHK交響楽団の演奏だったか。
そのあと、じっくり聴いてみたくて、エヴェレスト原盤の廉価盤LPを買った。
演奏はサージェントとグーセンスだった。特に意味があって選んだのではない。3部作を1枚にまとめたものが行ったレコード屋では見当たらなかったからだ。実際、当時流通していたLPは「泉」と「松」の組み合わせがほとんどで、「祭」は省く演奏家が多かった。あっても別曲とのカップリングというのが一般的。「祭」は軽く見られてるんだな、というのは中学生にもわかる待遇だった。res2g.jpg
DGのイエローラベルをパックって、そこに筆書き風ロゴで日本語題字を入れた、あまりにダッせえジャケット(デザイナーさんごめん!)に当惑しつつ、聴いた。
サージェントの「ローマの泉」と「ローマの松」は特に印象に残らなかったが、グーセンスの「ローマの祭」の主顕祭の破壊的どんちゃんさわぎにノックアウトされた。
最初がそれだったので、この曲に関しては大人しい演奏は全く受け入れられなくなった。
大人になってからいくつのも別の演奏を聴いたり、スコアを見たりして、はじめて、あれはいくつもの演奏ミスが幸運にも爆発的エネルギーに結びついた珍しい例なのだと知った。
スヴェトラーノフの演奏もそうなのだが、この曲は、テンションが上がりきっていれば、ミスもミスとは呼べなくなるフレーズに満たされた音楽なのだ。
例えば最後の音も、楽譜通り正しく鳴らされるより彼らの演奏のように、狂ったピッチと勢いで無調爆発音になっているほうが「ふさわしい」とすら思えてしまう。
そのへんがこの曲自体が音楽的にどうだこうだ言われる所以でもあるのだろう。

これは最近リリースされたSACD。
res1s.jpgオットリーノ・レスピーギ:
 ローマ3部作
  ・ローマの泉
  ・ローマの松
  ・ローマの祭

 ジョン・ネシュリング(指揮)
 サンパウロ交響楽団

 (BIS SACD スウェーデン輸入盤)

実は、演奏者が南米系ということで、熱狂的な爆演を期待して購入した。
南米系の爆演ではエンリケ・バティス指揮のものが有名(オケはUKのロイヤル・フィルだけど)で、あの強引さは独特だったからだ。
しかし、その期待は見事に裏切られた。ある意味真逆だった。
全体を通して神経質なほどに弱音を大事にした演奏で、パートごとの旋律の歌い上げが見事!
丁寧な「ローマ3部作」に出会うのは実に久しぶりだった。
その丁寧さが際立つのは元々地味な「ローマの泉」。なんと美しい音の風景画だろう!!
弱音方向にふり幅をとった演奏は、最強音もバランスを崩さない。
だから「アッピア街道の松」に大伽藍という表現は当てはまらないし、「主顕祭」も実にリズミカルで楽しげではあるが、決して乱痴気騒ぎではない。
こんな風にものの見事に交通整理されてしまうと、聴き手は冷静に「レスピーギの音楽」を探求したくなるだろう。
見通しの良すぎる録音は、曲が熱く盛り上がり始めても、直接の音のエネルギーには結び付かない。
音のダンゴが熱演に思えるような誤認がおこらないのだ。
アンプの音量を思い切り上げ、かなり離れて聴けばきっと印象が変わるだろうけれど…。
しかし、後方のバンダとの呼応など、マルチチャンネルの醍醐味もしっかりと味わえ、これまでの2chステレオ盤にはない実際の演奏会の臨場感を楽しめるものになっている。
演奏の方向性は期待とは違ったが、これは名演・優秀録音だと思う。レスピーギ再発見、だ。


posted by あひる★ぼんび at 23:51| Comment(0) | 音楽

2014年03月14日

ダムラウの歌声

ドイツのソプラノ、ディアナ・ダムラウによるオペレッタとミュージカル、映画挿入歌名曲集。

dam.jpgフォーエヴァー
ウィーン、ブロードウェイとハリウッドの忘れられない歌


ディアナ・ダムラウ(ソプラノ)
ディヴィッド・チャールズ・アベル:指揮
ロイヤル・リヴァプール管弦楽団

(ワーナー・エラート  EU輸入盤)


これはモーツァルトの魔笛の「夜の女王」で見事なコロラトゥーラと、それ以上に強烈なルックスを印象付け、またリートのリサイタルアルバムでは穏やかで端正な表現でじっくり「詩」と「音楽」を味あわせてくれている彼女の、また別の面が垣間見えるアルバムだ。
選ばれた曲はどれも有名で、彼女の技術をもってすれば、単に「それっぽく歌う」のは簡単だろう。
だが、彼女はそうはしなかった。
それぞれの曲にどんな歌唱スタイルを適用するか練りに練って、解釈がステレオタイプになってしまうのを見事に避けている。

収録している曲は以下の通り。
ナインス・ゲート〜ヴォカリーズ
マリーツァ侯爵夫人〜ツィンバロンの響きを聞けば
どこかから来た従兄弟〜輝く月
ジュディッタ〜私の唇にあなたは熱いキスをした
メリー・ウィドウ〜唇は黙っていても
こうもり〜侯爵様、あなたのようなお方は/チャールダーシュ
マイ・フェア・レディ〜素敵だと思わない?/踊りあかそう
スウィーニー・トッド〜カワラヒワとナイチンゲール
ポーギーとベス〜サマータイム
南太平洋〜ワンダフル・ガイ
オペラ座の怪人〜ウィッシング・ユー・・・
ウエスト・サイド・ストーリー〜アイ・フィール・プリティ
オズの魔法使い〜虹の彼方に
アリエル〜パート・オブ・ユア・ワールド
白雪姫と七人の小人〜いつか王子様が
アリス・イン・ワンダーランド〜きらめく昼下がり
メリー・ポピンズ〜2ペンスを鳩に
スノーマン〜ウォーキング・イン・ジ・エアー
嵐が丘〜キャシーのヴォカリーズ


気だるいイメージで歌われることの多い「サマータイム」がやけに爽やかだったり、「マイフェアレディ」の「Wouldn't It Be Lovely」を敢えて母国ドイツ語で歌い、田舎娘の訛りっぷりを「正しく」披露する。英語で歌ったのではダムラウ自身の訛りなのか演技なのかわからないということだろうか。また、アデーレは可憐じゃなく狡猾な女ですといった感の「こうもり」のクープレ、ジュリー・アンドリュースのイメージから完全に脱却した「2ペンスを鳩に」、大人に成長したドロシー(笑)の「虹の彼方に」、やはり立派な佇まいのスノーマンの名歌…
決して無理に声を作らず、かといってその「声」だけに頼ることない歌いぶりで、深い解釈を武器に、ひとりの歌手の歌唱とは思えないほどの多様性でのぞんでいる。
ドイツの歌手、アメリカのミュージカル畑で有名な指揮者、イギリスで映画音楽で活躍のオケの組み合わせでできたアルバムというのも面白い。
一曲ゲストのヴィリャソンの違和感はまあ、おいておこう…。
全体を通して、素晴らしいアルバム。ただ、充分リラックスした雰囲気なのに、なぜか少々聴き疲れするのは、音楽が持つ空気が、目まぐるしく変化しすぎるせいだろうか。
折角の素敵な歌唱なので、聴き流さずに、半分ぐらいづつ、ゆっくり聴くことをお薦めする。

posted by あひる★ぼんび at 23:53| Comment(0) | 音楽

2014年03月08日

ホロヴィッツのカーネギーホールライヴ集

ヴラディミール・ホロヴィッツ。
彼が20世紀最大のヴィルトーゾ・ピアニストのひとりだった、ということに異論はない。
ただ、個人的にはホロヴィッツの奏でる音が好きなわけではない。どちらかというと「苦手」だ。
感覚と感情だけで楽しむことを強要されるような…なにやら強迫観念に近い印象があるからだ。
そのホロヴィッツがカーネギーホールで行ったコンサートの、現在耳に出来るほとんどを収めたBOXがこれだ。

horbox2.jpgVladimir Horowitz live at Carnegie Hall
 1943年4月25日、1945月3月28日、1946年4月6日
 1947年2月3日/3月28日/4月28日、
 1948年2月2日/4月2日
 1949年1月17日/2月21日/3月21日
 1950年1月23日/3月20日/4月24日
 1951年3月5日/4月23日、
 1953年1月12日/2月25日、1965年6月9日
 1966年4月17日/11月27日/12月10日、
 1967年11月26日、
 1968年1月2日/2月1日/11月24日/12月15日
 1975年11月16日/11月23日
 1976年5月18日、1978年1月8日
ヴラディミール・ホロヴィッツ(ピアノ)他共演者
(SONY 41CD+1DVD EU輸入盤)


このライブ録音集は年代順に、しかも、明確なミスも編集修正なしヴァージョンで収録している。ラフマニノフのソナタでは演奏中に弦が切れて、中断後何事もなかったかのように続きを弾くリアル感。
聴いて癒される種類のものではないが、音も鮮明で、生々しさやスリルが楽しめるBOXセットだった。

かのアルトゥール・ルービンシュタインを一時的に自信喪失させ、音楽の再学習に向かわせたほどの衝撃的な登場、老齢まで「自らの演奏思想」を貫いた天才演奏家。そのスター性に宿命的につきまとう精神的病理との戦いだったという彼の生涯の一端を窺い知ることができる。
通常、クラシック音楽の演奏は「はじめに楽譜ありき」で、それに忠実であることを要求される。
「作曲家は楽譜にすべてを託している」と考えれば当然。だが、演奏家は楽譜の再生装置ではない。
思想信条、信仰、時代の要求、そして、音楽に対する姿勢…それらによって大きく変わり、影響を受けるものだ。
ホロヴィッツの演奏には、曲によってはめまぐるしい音列が加えられ、解釈の域を越えて「編曲」状態のものもある。これらは嫌いな人には曲芸のようにしか聴こえないかもしれない。しかしそれは、これらの曲が作られたそれぞれの時代では、もともと「芸術」以前に「娯楽」だったことを意識させる。
楽譜そのものは、実音で残すことのできなかった時代の記号にすぎないわけで、読み取ったうえで、TPOに即した解釈を加えて再構築するのは決して間違いではない。そのフィルターの強度が問題になるのだろう。ホロヴィッツは、並はずれてそれが強烈なだけだ。

観客を入れないセッション録音ではわからなかったことなのだが、こういったリサイタルで彼が弾く曲は限られている。
長年にわたり、連日似たようなプログラムに取り組んでいる。
技巧的に難度の高い曲を爽快にひき飛ばしながら、彼は何を思っていたのだろうか。
およそ音楽の余韻には無頓着な、娯楽とファッションの一環として捉えているような上流階級の聴衆たちを前に、紳士淑女が気に入るだろうパッセージを、やはり気に入るだろう超絶技巧でもって披露し続けること…そのせいで、彼は演奏することにではなく、自分の存在に疲れてしまうのだろう。
ホロヴィッツは何らかの限界を感じると、神経性の腸炎や重度の鬱に陥り、引き籠り、数年の休養を余儀なくされる。
年代にブランクがあくその直前にあたる演奏会では、その葛藤まで感じるようだった。
たとえば、シューベルトの21番のソナタ。小曲をバリバリ弾くばかりではなく、こういう内省的な曲もやってみよう!という彼にとっては意欲的挑戦だったろうが、どうやら報われなかった。観客の要求と異なるプログラムは、一部のファン以外からは酷評だったようだ。
それは何より彼を傷つけ、立ち直るのに数年かかる引き篭もりのきっかけとなってしまう。
それにしても、ショパンのワルツの冒頭で笑いが漏れ、静かなトロイメライの最後の音を掻き消して我先にと拍手するような低レベルの聴衆(失礼!)に、彼は何を伝えたかったのか。
絶えず楽譜の研究学習を続け、録音も公開演奏もしないレパートリーまでしっかり暗譜していたという彼なのに、この場所で、このようにしか生きられなかったのか?
そもそも場を選べなかったのは、巨大な大人の事情なのかもしれないけれど。

この後、カーネギーでの演奏会に区切りをつけて、活動場所を変えてからも、最晩年までブレないコンサートへの取り組み方は凄いとは思う。
老境に入っても中壮年期の情熱を忘れないギラギラ感があった。それは時に壮絶ミスタッチの原因にもなるわけだけれど・・・。
ルービンシュタインのように「大変身」する生き方が出来なかったホロヴィッツの、ひとつの覚悟だったに違いない。
(ちなみに、ワタクシはルービン爺の演奏が大好きなのでありますが)

posted by あひる★ぼんび at 23:01| Comment(0) | 音楽

2014年02月25日

人生と愛の歌〜ディーリアスの音楽B

フレデリック・ディーリアス(1862−1934)はイギリス生まれの作曲家。
以前もここで取り上げている。→ @ A
ディーリアスは若い頃の並はずれた不摂生と、梅毒感染と、極端に神経質な性格が災いして、晩年期は視力を失い、四肢も麻痺してしまった。
そんな老作曲家を献身的に補助したのは、エリック・フェンビー(1906−1997)である。
1928年からディーリアスが没するまで、口述される音符を楽譜にまとめ、校訂した。
死後も作品の再改訂、修正、そして作品紹介と、献身的に活動する。
「この坊やはよろしくない…単純なメロディーすら書き取ることが出来ないのだから!」
さんざん世話になりながらそんな風に言い放つ偏屈な老作曲家に20代の若者がよく従ったものだ、と思う(汗)

先日の某氏と某氏の瑣末な代筆問題を聞いた時、ふと頭をよぎったのはディーリアスとフェンビーの関係だった。
いや、もちろん比べられる種類のものではないのだけれど、多少のひっかかりがあったためだろう。
実際の口述筆記がどのような過程で進んだのか、フェンビーの回想録はあるものの、どこまでがディーリアス自身の指示なのか、今となってはわからないことなのだ。

deli-l.jpgディーリアス:
  生命の踊り
  組曲「イルメリン」(トマス・ビーチャム編)
  人生と愛の歌
  組曲「村のロミオとジュリエット」(デイヴィッド・マシューズ編)


 デイヴィッド・ロイド=ジョーンズ指揮
 ロイヤル・スコティッシュ・ナショナル管弦楽団
(Dutton Epoch イギリス輸入盤) 



このCDにはめったに聴けない曲が並んでいる。
「イルメリン」は1890年頃に書かれた彼のオペラの1作目で、北欧のメルヒェンを題材にグリーグ風の音楽が展開される佳曲。残念なことにほとんど上演されないまま埋もれてしまった。(かつて1種だけ全曲盤がリリースされていたことがある。再発されないかなぁ…)この中の特に印象的な部分を抽出して1931年に新たな小曲「イルメリン前奏曲」が誕生するが、このCDに聴かれるのはそれではなく、元々のオペラそのものから名指揮者で、ディーリアスの応援者だったビーチャムが切り出した組曲である。

「人生と愛の歌」は1913年から1918年頃に書かれ、未完のまま放置された作品で、これは1930年にフェンビーによって名曲「夏の歌」に生まれ変わる。
世界初録音となるこの曲が聴いてみたくて購入したのだが、残念ながら正直「?!?」だった。
完成形の「夏の歌」とは似ても似つかぬ混沌とした17分。
音響的には初期から中期の特徴をしっかりもっていて何ら違和感はない。でも、未発表・未完成になるには正当な理由があるものなのだ。
ディーリアスとフェンビーの「感動的なエピソードの数々」が真実であるとするなら、この作品は書棚にそっと眠らせておくのが最適だと思った。

「われわれはヒースの生い茂っている断崖の上に腰を下ろして、海を遠望しているとしよう。高弦の保持された和音は青く澄んだ空とその情景を暗示している…曲が活気を帯びてくると、君はヴァイオリン群に現れる、あの音型を思い出すだろう。わたしは波のおだやかな起伏をあらわすため、その音型を導入しておいたのだから。フルートがすべるように海上を飛んでゆくカモメを暗示する。この冒頭の素材は2つのクライマックスのあいだに再現され、最後にも現れて静謐のうちに曲を終結に導いてゆくのだ。」(三浦淳史訳)

こんなふうに音として元ネタが顕わになってしまうと、楽曲解説などで親しんだこの「ディーリアスがフェンビーに語った楽曲コメント」の意味合いが変わる。
これはあくまでディーリアスの勝手な完成イメージで、フェンビーはこれだけを頼りに、必死にあの混沌とした原曲から音を拾い再構成(というより作曲)したことになる。

ちなみに、このCDにはフェンビーの「仕事」はひとつも含まれていない。
にもかかわらず、いつも以上にフェンビーの存在の大きを意識してしまった1枚だった。

偏屈な老人の傍らで青春を過ごしたフェンビーも1997年に90歳で没した。
フェンビーの生涯は、ディーリアスの筆記者・紹介者として、音楽家のキャリアを開始し、大戦に邪魔されながらも、指揮者・作曲家、音楽教授として生きた。また、最期まで、彼の「永遠の憧れ」を卑しめるようなこともしなかった、厳しく潔い人生だったと思う。
多くのディーリアスの「有名曲」は、フェンビー、ワーロック、グレインジャー、そしてビーチャムなど、同時代ないしは少し若い世代のイギリスの音楽家たちによって構成を整理され、管弦楽法を手直しされている。それはゴーストとか偽作とか「本当は…」とか、いうことではなく、支持者たちの苦労や創意も含めて「ディーリアスの音楽」なのだと理解できるのだ。

posted by あひる★ぼんび at 23:38| Comment(0) | 音楽

2014年02月19日

新アレンジの「展覧会の絵」

「展覧会の絵」の管弦楽版を聴くたびに、そこににつきまとう「ラヴェル編曲版」の呪縛を感じてしまうのは、この曲を知る世界中の聴衆、演奏家、そして作曲編曲を生業としている人のほとんどがそうだと思う。
例えば「最初のプロムナードはトランペットのソロで」などと、ムソルグスキーの知った事ではないはずだが、ストコフスキー編曲版のように、たとえ弦楽合奏でスタートしても、脳内でトランペットに置き換えてしまう人も多いのではないだろうか。
「古城」はこんな風、「ビドロ」は、「キエフの大門」は…とおそらくはすべてラヴェルのサウンドを基準にしている。作曲者はピアノソロで書いただけなので、本来どんなイメージで編曲しても自由なはずなのだが。
あるいは、ラヴェルは「標準的な感性」で編曲に取り組んだということだろうか?
ラヴェル編曲版がなくても「そうきこえる」ものなのだとしたら…とまで考えてしまう。

bm.jpg
ムソルグスキー: 展覧会の絵
         死の歌と踊り
         子ども部屋

ピーター・ブレイナー(指揮&編曲)
ニュージーランド交響楽団

(NAXOS BD-A EU輸入盤)



さて、これはその「展覧会の絵」の新たなる編曲版である。
ブレイナ―は、おそらく敢えてラヴェルの呪縛を否定せず、更に意欲的なストコフスキー版も視野に入れつつ、全体はメーカーの宣伝文句通り「ハリウッド映画音楽風」に仕上げている。
具体的にどこが?と言われると分析が必要になりそうだが、弦や管の組み合わせ方が明晰でわかりやすく、メインのメロディを目いっぱい歌わせる。
メロディを内声部に分散させ複雑な和声を重ね合わせ…なんて難解になりそうなことは避けている。メロディとそれを支える伴奏というシンプルな設計。
さらに、打楽器の頻繁な使用、クレシェンドの頂点でそれを重ねて「大きさ」を演出する方法・・・
このわかりやすさが全体を映画やゲーム音楽的に「感じ」させているようだ。
あくまで、すべて聴感なのだけれど。
それはマイナス要素ではなく「オケの標準的な楽器を、通常奏法の範疇で、しかし斬新な響きを目指して」がコンセプトなのだろうから、確かに成功しているし、上質な演奏と編曲だと思った。
ただ、ここまでやっているのを聴くと「キエフの大門」あたりでは、もっとド派手に、なんなら祝砲を数発ぶっ放すぐらいの勢いがあってもいいかと思ってしまった。
なにしろ音符をやたらに伸ばしているので、壮大ではあるが「同じ味での満腹感」が先に来てしまう。
このあと、同じ手法とコンセプトで声楽作品に編曲を施した「死の歌と踊り」と「子ども部屋」が収録されているが、両組曲とも落ち着いて聴けるもので、とても良かった。
収録順は逆の方が…と思わないでもなかったけれど。

演奏の質とは無関係だけれど、このBD−A、メニュー画面の下の演奏者名が違っている。
140125_0900~01.jpg
ブレイナーじゃなくてスラットキンですと。
あ、そうか!購入者に「何と無礼な〜!」と言わせたいのか(笑)
オマケディスクじゃない正規品でコレって、ちょっとなんですぞ。

posted by あひる★ぼんび at 23:56| Comment(0) | 音楽

2014年02月13日

ヴァーチャル・ハイドン

hai.jpg
「ヴァーチャル・ハイドン」
ハイドン:独奏鍵盤楽器のための作品全集


トム・ベギン
(ハープシコード・クラヴィコード・スクエアピアノ
・フォルテピアノ・19世紀ピアノ)

(NAXOS BD-A 4枚組 EU輸入盤)


ハイドンの曲は、自分としては、モーツァルトやベートーヴェンの作品に比べると「この曲がああだこうだ」言えるほど知らない状態だ。
これまでにブーフビンダーやショルンスハイムの全集演奏でかなりの曲数を聴いてはいるが、なぜか強い印象が残らなかった。
流していると、いつの間にか曲が進んで、いつの間にか終わっている、そんな感覚を度々味わってきたものだ。
自分はピアノ学習者ではないし、というかほとんど弾けないし(笑)スカルラッティのソナタでもそうなのだが、楽しみ方のポイントが掴めないのかもしれない。
ギターを弾かない人が、速弾きのロックギタリストの演奏を聴いてもただのピロピロにしか聴こえないようなものか。
そんなわけで、購入に際しては「安い」とはいえ迷いもあった。
しかし、「ハイドン時代の楽器でハイドンの音楽環境をヴァーチャルに再現した音場設定」への興味に背中を押された。
購入したのは一昨年だが、ここに書くのがこんな時期になったのは、つまり自分の中では結局不幸な位置づけなのかもしれない。

音はキレイ。ただ、題名通り、無残響状態で録音し、あとから宮殿や貴族の客間のヴァーチャルな残響を付加している故に、自然な響きには程遠い。古雅な気分にはならない。
また、「空間」優先のためか、アクションが目に浮かぶようなリアルさとは幾分異なる、巨大で鮮明な響きが延々と続く。
自分は鑑賞時は結構な音量をとるのだが、さすがに疲れる。
ためしにググッと音量を絞ってみると…あ、このほうがいいかな???
ついでに隣室のスピーカーのみを鳴らすと、素敵な「癒し」の音楽に!
折角の鮮明録音なのに…なのかもしれないが、だいたいそんなものなのだ。
アナログLPからCDになった頃の「聴き疲れ」を思い出していた。

このアルバム、3枚のブルーレイに、ハイドンのほぼ全ての鍵盤楽器作品を収録している。
演奏しているトム・ベギンは、ハープシコード、クラヴィコード、スクエアピアノ、フォルテピアノ、19世紀ピアノ等を曲によって弾き分けている。作曲年代と、何らかの記録、記譜された音域、そして演奏者の好み(笑)で選ばれたようだ。
楽譜を検証し、記録文献や絵画を元に「最適な楽器が見つからない場合は、作る」ところまでこだわっているのが凄い。
また、演奏はとても分析的だ。どんな早いフレーズも感情的に爆発する部分がない。
演奏に選ばれている楽器は「時代」を反映して、必ずしも美音ではない。それが「リアル」なのだろうし、そこにつきまとう独特の煮え切らなさを、味と考えるかストレスに思うかで評価が変わってきそうだった。
最後4枚目に収録のブルーレイ映像は3時間に及ぶもので、楽器選択のポリシー、調整の検討、そして各楽器の演奏風景と実際の演奏空間を目と音で直接確認でき、かなりおもしろかった。
本編より楽しめ、これだけでも満足できる、といったら演奏者に失礼か(汗)

posted by あひる★ぼんび at 22:43| Comment(0) | 音楽