2016年04月29日

ヤーコプス流「天地創造」

「天地創造」という題名から想像すると壮大な楽曲だろうと思ってしまうが、時代性を考えても、J・ハイドンの特徴を考えても、中庸にして温和な音楽が展開されている。
そんなことは誰もが周知のこと…でもないのが世間だ。
作曲者のことをさしおいて、「天地創造」という壮大な題名だけで興味を持つ人は案外と多く、そういう人はだいたい壮大なハリウッド史劇映画的なものを想像してしまうわけで^^;
クラシックに詳しい人やクリスチャンでない限りは、まあ、そんなところだろう。
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ハイドン:オラトリオ「天地創造」Hob.XXI-2
  ユリア・クライター(ソプラノ)
  マキシミリアン・シュミット(テノール)
  ヨハネス・ヴァイサー(バリトン)
  フライブルクバロックオーケストラ RIAS室内合唱団
  ルネ・ヤーコプス(指揮)
(HarmoniaMundi 3枚組(CD+PALDVD)EU輸入盤)



さて、この曲については以前、カラヤン指揮ヴンダーリヒ&プライ&ヤノヴィッツのザルツブルクライヴを紹介した。
あれはロマン派の巨大声楽曲的に演出されていて、それこそ「天地創造」の題のイメージから遠くないものだった。
今回のヤーコプス盤はそれとはある意味対極の演奏なので、まるで別曲を聴くようで面白かった。
20世紀中盤のロマンティックを極めたカラヤン盤と、21世紀初頭の「時代演奏」。
演奏には「流行」があって、40年越えの時の流れは大きな変革を生んだ。この間に「ピリオド演奏」というジャンルのようなものが成立したのは大きいだろう。
ただその実態は、考古学的な自由度があるのをいいことに、音楽学者や演奏者があれやこれやの自己流の工夫を持ちこむものだからすっかり玉石混交になってしまった。そうなると受け取る側もまた自分の審美眼に合致したものを良しとする。いよいよプロの評論が意味をなさないことになってきた感じだ。
さてこの演奏、なかなか面白い。
ひたすら活発なテンポ感、全体の強弱が大中小3段シフトしかないような設定、不完全な機能の楽器を不完全なまま鳴らす勇気。ハイドンらしいとか、その時代の忠実な再現とか、そんなことではなく、まさに近年のヤーコプス流にしっかり固められている。
添付されたDVDのレコーディングメイキングでは、コートを着たままの合唱団員たちやレコーディング会場に置かれた卓球台でゲームを楽しんだあとそのまま着席して演奏する楽団員など、緊張感はあまりない様子が映っている。演奏がはじまれば急にピシっとなるのが流石プロだ。ピリオド仕様のティンパニの刺激的な音を和らげるために布袋でミュートして叩かせている様子や、各パートのバランスを厳密に卓で調整する姿が確認できた。
演奏会ライヴではない、これはあくまで録音芸術なのだ。
CDは2枚組で、最初の1枚に1部2部のすべて、2枚目に3部が入っている。
原始的な響きが光に満ち、和らいでいく様子が、こうしてしまうと1枚目と2枚目で別曲のようにも聴こえてしまい、推移が多少わかりにくいかな?と思った。
バス・テノール・ソプラノ、独唱者は個性を前面に出すタイプではなく、あくまでハイドンの音楽に寄り添い、合奏に溶け込もうとしているようだった。幾分、ソプラノがモーツァルトのオペラのようなスタイルを感じさせるが、全体から乖離するような違和感は一切ない。
20世紀風スマートの極みのカラヤン盤や、記事にはしていないがピリオドスタイルのリリンク盤では感じなかったことがひとつ。
この音楽にはバッハやヘンデルがいて、モーツァルトがいて、ベートーヴェンがいて、彼らがハイドンの言葉を借りて聴き手に語りかけてくる。 そして時折、シューベルトやメンデルスゾーンの萌芽も感じる。
神が創る世界の広がりにリンクするように、まさに音楽の「天地創造」となっているようだった。
ひたすら地味でこじんまりとした、壮大とはほど遠い演奏だが、なんだか暖かく嬉しくなる演奏だった。

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2016年04月10日

ヘルベックのオルガン交響曲

ヨハン・ヘルベック(1831- 1877)はヴィーン生まれのオーストリアの作曲家。
仕立て屋の子息だが、哲学・法学をヴィーン大学で学んだ後、ほぼ独学で音楽を身に付けたということだ。
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合唱団指揮からスタートし、やがてブラームスやヴァーグナーの大規模声楽作品の演奏でヴィーン楽壇の注目を集め、大先輩格のベルリオーズからも最高の指揮者と評価を受けている。また、ブルックナー同様、シューベルトを敬愛し、作品の紹介を積極的に行い、1865年には埋もれていたロ短調交響曲(いわゆる未完成交響曲)を初演している。
その後、円熟期に差し掛かる手前の40代半ばで肺炎で急死してしまったが、数々の業績を讃えて、死後、オーストリア王室から騎士の称号を授与された。
しかし、時の流れは非情なもので、死後140年近くたった現在ではその作品が顧みられることは少ない。
同時代の巨星たちの影ですっかり「忘れられた」存在になってしまったわけだが、彼の音楽が復権する為には、いつの日か積極的に再演してくれる大指揮者が現れることを祈るしかないのだろう。

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ヘルベック:交響曲第4番ニ短調
       交響的変奏曲

イレネー・ペロー (オルガン)
ハンブルク交響楽団
マルティン・ハーゼルベック(指揮)
(NCAメンブラン SACD ドイツ輸入盤)




この盤には、19世紀末当時の作曲界で「流行」していた「オルガン付交響曲」「交響的変奏曲」という2スタイルの曲を収録している。
最初は交響曲第4番。
この曲は編成にパイプオルガンを伴う、25分という短めの交響曲だ。ブルックナーが登場した時代と考えると、ずいぶん慎ましく聴こえる作品だ。
なにしろ「壮大にオルガンが鳴り、金管楽器が活躍する」…あのサンサーンスの第3のような作品とはほぼ真逆を行く。
4楽章構成。管弦楽も標準2管編成。
最初の楽章は、まるでバッハのオルガン曲の管弦楽編曲、かつてストコフスキーが好んでやっていたあのタイプの音楽を思わせる。
それよりずっと穏やかで遊びも少ないが、かえってそれが心地よい。
ファンタジー映画でそのまま使われそうな雰囲気まで持っている。おそらくバッハ時代のエコーを意識して、そのエッセンスだけを音楽化した為に、必要以上の重厚さや深刻さからは遠くなったのだろう。
続く楽章はブラームスの交響作品の緩徐楽章のような穏やかなもの、第3楽章は通例通りスケルツォだが、それは題だけで諧謔性も軽やかさも持たない地味な音楽だ。
終楽章は、これもバッハ風のフーガを取り入れているようだが、管楽器群はオルガンと一体化し、弦セクションはそこから遊離したテンポ感で細かい無窮動フレーズを鳴らし続けるという、ちょっと不思議な音楽…というか、時代を反映した実験的な響きも盛り込んでいる。

「交響的変奏曲」は主題と11の変奏で構成された36分ほどの管弦楽曲。音響変化が押さえぎみで、堅実さが前面に出ているひたすら地味なためか、少々長めに感じる。同じ題名の曲は、ちょっと思いつくだけでもフランクやダンディ、そしてドヴォルザークの作品などあるが、ヘルベックは特に楽器編成に手を入れることなく書いている。目先の奇抜さに頼らないのはある意味では自分の生み出す音楽に対する自信の表れでもあったのかもしれない。

この盤はマルチチャンネルを含むSACDハイブリッドで、オルガンも管弦楽も空気感たっぷりに収録され、ストレスのない音でこの未知の作品を楽しむことができた。指揮のハーゼルベックについてはブルックナーの第1交響曲(capricco)やのリスト交響詩全集(NCA)以外は聴いたことがなかった。誠実な音楽づくりで好感が持てる。この盤でのオルガンは70年代生まれのペローが担当しているが、ハーゼルベック自身もオルガニストとしても活躍中で、来日公演もあったようだ。

posted by あひる★ぼんび at 23:32| Comment(0) | 音楽

2016年03月25日

ヘンシェル&岡原の「冬の旅」

ピアニストの岡原慎也氏は1994年にヘルマン・プライと「冬の旅」で共演した。
その時の演奏は、NHKによって映像に残されているが、本当に素晴らしいものだった。
絶望と、憧れと、諦念と、寂寥感、孤独感・・・それらが静かに二人の演奏家の周りでうずまくようだった。
しかし、その公演は岡原氏からすると「どうにか切り抜けたが」…と、不納得な仕上がりだったという。
スター歌手のスケジュール調整の関係もあって練習や打ち合わせが足りず、何より、親子ほども歳の離れた大家に気後れしてしまったようなのだ。
その後間もなく、氏はやはり大御所のテオ・アダムとも共演する。
それで氏は考えた。
・・・自分と同世代の歌手と共演し、納得のいく演奏をしよう・・・一種のリベンジをはかろう、と。
そうして、共演できる歌手を探したのだという。しかし、理想的なリート歌手は限定されていてなかなか見つからなかった。
そんな中、「僕なんかどう?」という感じで話を持ちかけてきた歌手がいた。
ディートリヒ・ヘンシェル。1967年ベルリン生まれのバリトン歌手。
国内のプロモーターの契約を持たなかったこの頃のヘンシェルの営業活動はかなり自由で活発だったようだ。
そうして岡原氏の口利きで日本デヴューしたヘンシェルは、96年以降、毎年来日を重ねた。もちろん岡原氏とはリサイタルで名コンビネーションを聴かせ、97年来日公演の「冬の旅」は大変な名演だったという評判である。
その「冬の旅」を1998年5月、ドイツでセッション録音したのがこれ。
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シューベルト:冬の旅(全曲)
  ディートリヒ・ヘンシェル(バリトン)
  岡原慎也(ピアノ)

(音楽之友社 国内盤)



このアルバムには「30歳のシューベルトが30歳のミュラーの詩に付けた曲を30歳の歌手が歌う」というキャッチがついている。
ヘンシェルの声は幾分ディースカウより重いが、歌いくちはソックリで、ちょっとしたクローン。しかも、若き日の、ではなく充実期のディースカウの雰囲気を持っている。
高音域で声質がガラリと変わることも、顎を引いた状態で顔の筋肉を上に引っ張って出すような発声もほぼそのままに聴こえる。ちなみに、最近はすっかり師匠の呪縛を抜けたようだが、まだこの盤では忠実なディースカウ・スタイルだ。
ヘンシェルの声には暖色の明るさはないので、キャッチコピーが表面上の特徴にはなっていない。だが当然、30歳の若者の旅は人生最後の旅とはなりえず、死の影や諦念は希薄に感じる。そんな歌の淡白な部分を、岡原氏は気合と気迫で埋めていく。歌手に寄り添い共に歌う姿勢が見事だ。相当な準備を持って取り組んだと思われ、どんな音も無駄に鳴らすことない丁寧な演奏。それを破る瞬間も欲しいと思ってしまうのは贅沢だろうか?いずれにしても冬の旅の名演のひとつと言えるだろう。
ちなみにこの盤の歌詩の邦訳は岡原氏によるもの。明快で素直な訳文で読みやすい。

ヘンシェルはその後も誠実な歌唱を聴かせ、一段と実力もつけた。しかし「大歌手フィッシャー=ディースカウの弟子にして後継者」とのふれこみで推されたものの、その目論見通りにはいかなかった。スターが持つ華やかさがなく、師匠のレパートリーをなぞることもなかったからだろう。
現在49歳の充実期を迎えているわけだが、これからどんな活動を展開してくれるだろうか。
岡原氏ともども、さらなる活躍を期待したいと思う。
posted by あひる★ぼんび at 23:13| Comment(2) | 音楽

2016年02月26日

シュライアー、若き日の「ブラームス・ドイツ民謡集」

自分がはじめてこの曲集を聴いたのはエディト・マティスの演奏だったが、LPとしてはシュライアーの旧録音がはじめてだった。
徳間がETERNA名義で出していたLPは、シュライアーの印象的な横顔だった。CD時代に入ってから「美しき水車小屋の娘」や「バッハ・カンタータ集」など数々のジャケットに使い回される名ショットだが、この時はかなりジャケ買い要素もあった気がしている^^
ジャケットに使われていたのはこの写真。
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テレフンケン(キング)からはドレスデン聖十字架合唱団のドイツ民謡アルバムとシャッフルされてリリースされた。しかし、演奏者名だけで内容詳細を判別できずに購入した為、中を見れば全く同じ録音・・・ごく近い時期に二重購入となってしまった。
今ならまあいいか…だが、当時高校生だった自分は、小遣いをやりくりしての購入であり、しかも2枚組は高額。物凄く悔しかったのを憶えている。当時は東ドイツシャルプラッテンの録音物は西側各社に権利が売られていて、日本でも、エテルナ名義での徳間以外ではグラモフォン名義でポリドールから、EMI名義で東芝から、テレフンケン名義でキングから、レーベル無銘でビクターから…という具合に、そこらじゅうの会社で「少しずつ」販売されていたのだ。しかも困ったことに録音データがデタラメだった。記載された年月日とロケーションはほとんど信用できなかった。ロシアのメロディアもめちゃくちゃだった(名盤「晩祷」など実際と10年ずれている)が、しかしそちらは書いてない場合がほとんどなので、そのほうが親切な気もしたぐらいだ。
ちなみにこれは一番最新のデータは1986年になっているが、完全な誤植。それでは70年代に発売できるはずもなく、幾つかの情報の多数決で1968年3〜4月ということで良いのだろうと思われる。

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ブラームス:ドイツ民謡集(15曲)
ドヴォルザーク:ジプシーの歌 op55

  ペーター・シュライアー(テノール)
  ルドルフ・ドゥンケル(ピアノ)
(徳間 LP/CD 国内盤)




ここで選ばれているのは以下の15曲。
*あつあつになってしまった
*すてきな乙女よ、入れておくれ (1:31)
*今晩は、ぼくのおりこうなかわいこちゃん
*僕の想いいだくすべては
*いとしいひとよ
*僕の彼女は赤い唇
*お起き、いとしい人よ
*どうやって家の中に入ったらいい?
*今夜わたしは眠れない
*ああ、今宵出掛けられたら
*優しい娘が歩いていた
*マリアはさすらいの旅に出た
*おねえちゃん、おねえちゃん
*ああ、天使のような羊飼いの娘よ
*陽はもう輝かない


ある意味ではありふれた選曲にみえる。音楽的な完成度を考慮したうえで、歌い手にも聴き手にも心地よい選曲にするとだいたいこうなるのだろう。「菩提樹が立っている」や「下の谷間では」等が選ばれなかったのが残念な気もする。とにかくシュライアーの声質には静かで緩やかな曲が似合う。活発すぎたり強音を持つ曲だと、それこそヒステリックにシュライアー(絶叫)してしまう傾向があるし、感情を込めすぎると突然に奇妙な発音になりがちなので^^;

「ジプシーの歌」の方は中の1曲「わが母の教え給いし歌」が有名だが、その他の曲も味わい深い。
シュライアーは元々のヘイドゥクによるドイツ語詞ではなく、ヴェレクの再訳を用いている。彼はこの曲を68年の当録音と、79年、83年の計3回録音しているから、気に入っていたのだろう。
先に述べたような唐突な強声が気にならないでもないが、いや、それはそれで刺激的でいいのかな?
煌びやかなピアノパートともども鮮やかな印象の演奏だ。
シュライアーのこの頃の曖昧さのない正確な音程はこれらの曲のメロディラインを一層鮮明に浮かび上がらせ、その美しさを堪能させてくれる。すばらしい1枚だと思っている。

posted by あひる★ぼんび at 23:32| Comment(0) | 音楽

2016年02月15日

タヴナーのピアノ独奏曲集


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タヴナー:
ゾディアック(1997)/イパコエ(1997)/
ペリン(1977)/マンドゥードルス(1982)/
プラティルパ〜ピアノ独奏版(2003)/
2匹のネコの思い出(1986)


ラルフ・ファン・ラート(ピアノ)
(naxos EU輸入盤)



ジョン・タヴナー(1944-2013)の音楽はこのブログでは「神秘のヴェール」を随分前にとりあげた。
今回のこれは彼の書いたピアノ独奏曲を集めたもので、声楽や管弦楽とは少し異なる世界が繰り広げられている。
彼の後半生の音楽は「神秘主義」として語られることが多く、正教、ヒンドゥー教、イスラム教など他宗教の要素を積極的に取り入れていたという。
信仰に関しては本人は正教徒であると主張していたようだが、改宗していた時期もあるようで、彼にとっての宗教は絶対的なものではなく、「神秘的なもの」への興味、宗教哲学のコレクター趣味だったのでは?と思えてならない。
書かれた作品は案外、多様式には響かない。「教会旋法を用いた宗教的作品」として耳に届く。にもかかわらず、宗教的な敬虔さとか感動とかとは少々違う方向を持っていて、信仰信条吐露ではないようだ。
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タヴナーの風貌は壮年期以降のフランツ・リストの肖像を思わせる。
リストはある時期から悟りの境地に入っていたようだが、タヴナーからは現世の色々な欲というか煩悩のオーラのようなものが^^;
ただ、思うに「煩悩」は現代の豊かな生活には重要であると思う。世捨て人が良いはずもない。

さて、タヴナーのピアノ独奏曲は多くはないようで、ここに収められた数曲で彼の人生のうちの1977年から2003年までを俯瞰できる。アルバム自体が2007年の春の録音なので、最晩年の作品は入っていないわけだが、これで多分、我々一般人には充分だろう。
1曲目の「ゾディアックス」ほとんど微かな音の短い導入曲、それに続けての「イパコエ」は13分の中規模曲だが、タヴナーを適度に知る人にも違和感はないだろう。特徴としてはメロディよりも「音」の喜怒哀楽の表情がしっかりしている。ボンと鳴らした音がそれだけで多くを語るようなのだ。この曲でならされる音列は…東方正教会由来の古い聖歌のメロディが元と思われるが、ぼんやり流れを聴くと、日本の唱歌「ふるさと」のようにも聴こえてしまった。ペルトのひたすら静謐な世界とは異なり、音数もダイナミクスも多様に変化する。
続く「ペリン」は鬱陶しいほどクドいフレーズが繰り返される。そこにはナンカロウの自動演奏ピアノを聴くような無機性を感じた。ラートの指の速さは並はずれたものだと思うが…なんだろう、決して心地よい音楽ではなく、全体に無神経さも感じる。
ペットのネコにインスパイアされて書いたという「マンドゥールス」は、これはちょっとした箸休め?ショパンの断片は何だろう??気まぐれな音楽だ。
「プラティルパ」は2003年に書かれた30分の大曲。タヴナーの音楽を知る人には違和感ないし「彼らしい」と感じることだろう。ちなみにラートはこの曲のピアノと管弦楽版も録音している。
最後に再びネコを扱った曲でアルバムはしめられる。
いろいろな理屈がくっついて、鑑賞に説明が必要になるのは「ゲンオン」としては特に珍しくないのだろう。タヴナーの場合はそれをきいてもあまりピンとこないのが特徴かもしれないが・・・。
果たしてタヴナー自身は、これらの音楽を、コンサートや録音物で繰り返し聴かれるものとして書いたのだろうか?
実験音楽、音響実験というほど奇抜ではないが、聴き手の感性に対する積極性、あるいはひきつけるというサービスを全く考慮していない。
何やら意図がほとんどくみとれないまま、曲は次々進み、アルバムは終わってしまった。
こういう音楽の感想を書くのはやはり難しい、それを改めて感じた1枚だった。
posted by あひる★ぼんび at 23:50| Comment(0) | 音楽

2016年02月04日

噂でつぶされた名誉〜サリエリ

アントニオ・サリエリ(1750−1825)は存命中は宮廷楽士長としてヨーロッパ中の尊敬を集め、自作に限らない人気オペラや大規模声楽作品の上演を積極的に行った。また、ベートーヴェン、シューベルト、リストらを指導した優れた教育者でもあった。慈善活動にも熱心であったと伝えられている。
尊敬を集めれば嫉妬も生むのが世の常。後半生の彼を襲った「盗作事件」や「モーツァルト毒殺」といった根も葉もない噂は独り歩きした挙句、それを扱ったプーシキンの「モーツァルトとサリエリ」、それを元にしたRコルサコフのオペラ、そして近年は映画「アマデウス」によって、現在ではすっかり悪役イメージが定着してしまった。ちなみにサリエリはモーツァルトの5歳上。映画では老音楽家だったが、実際の二人はほぼ同世代人ということになる。
富も名声も得ていた成功者サリエリが、貧乏作曲家モーツァルトを妬む理由は何一つなく、むしろモーツァルトのほうが「あいつがいるから私が出世できない」とサリエリを邪魔にしていたという証言もある。
また、サリエリが無口で無愛想だったのは単純にドイツ語がうまくなかったからという説もあり、映画のような高慢偏屈とは遠い人柄だったようだ。
…自分の中でもサリエリの姿はスネイプ先生と重なっていたりするのだけれど^^;
映画のヒットもきっかけとなって、サリエリの作品の発掘と再評価も始まったのは怪我の功名。
もっとも、当時の常識からはみ出していたモーツァルトの音楽に比べると、時代の様式に忠実なサリエリの音楽はインパクトが薄く感じるだろう。それを発想が貧弱とか言うのは酷というものだと思う。

sli-req.jpgサリエリ:レクイエム ハ短調
ベートーヴェン:静かな海と楽しい航海
シューベルト:声を聞き給えD.963

アリアンナ・ズーカーマン(sp)シモーナ・アイヴス(m-s)
アダム・ズニコウスキ、マリウス・ブレンチウ(ten)
ルイス・ロドリゲス(br)ペドロ・リベイロ(オーボエ)
アリス=キャプロー・スパークス(コールアングレ)
アントニオ・エステイレイロ(オルガン)
リスボン・グルベンキアン管弦楽団&合唱団
ローレンス・フォスター(指揮)
(ペンタトーン SACD ドイツ輸入盤)



2009年11月リスボンでのコンサートライブ。
サリエリのレクイエムは、標準的なカトリック葬儀典礼のテキストを選び、構成も真面目。
曲想はオペラ風というわけではないが、和声も素直な分、歌心はモーツァルトよりむしろ深いと感じた。
斬新さとは対極の、慣習に沿った厳格な作曲技法と楽曲構成、その中から浮かび上がる悼みと敬虔な気分。
静かに湧きあがる昂揚感と、華やかさを演出する金管ファンファーレ。伝統を重んじた大音楽家サリエリが誠意をもって書き上げたろう名曲だと思う。
この曲は日本でも演奏記録があり、つまりは決して幻の音楽ではないものの、このまま「演奏機会が極端に少ない曲」にとどめてしまうのはもったいないと思う。
ただ、全体的に保守的な音の並びは、誰がどんな風に演奏しても良い曲になるという種類のものではなく、演奏者の力量で印象が大きく左右されてしまう恐さもあるように感じた。・・・いや、この盤以外の演奏は聴いてないのだが。
40分に満たない曲なので、当然カップリング曲がある。この盤にはベートーヴェンの小さなカンタータとシューベルトのオフェルトリウムが収録されている。
2人ともサリエリの弟子である。サリエリは無報酬で二人に音楽を教授したようだ。
ベートーヴェンは師に作品を献呈したこともあり、またサリエリも「ウェリントンの勝利」の副指揮者も担当したようだが、ベートーヴェン自身からサリエリへの明確な感謝表明の様子は伝わっていない。
シューベルトに至っては、少年時代から目をかけてもらい、作曲家として売り込む際には自身の楽譜表紙に「サリエリの弟子」とその名を使っておきながら、別の場面では師匠を鬱陶しがるよう発言を繰り返していた。保守的で厳しい師匠に対する若者の反応などは、いつの世もそんなもののようだ^^;
両曲とも、折り目正しく整った演奏。しかも音がいい。
忘れられたサリエリと偉大な弟子2人のすばらしい1枚だと思う。

posted by あひる★ぼんび at 23:40| Comment(2) | 音楽

2016年01月07日

シュライアーのテレマン

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テレマン:歌唱と通奏低音の練習曲集(36曲)
   ペーター・シュライアー(テノール)
   ロベルト・ケープラー(チェンバロ)
   ヴェルナー・ヤロスラフスキー(ガンバ)
(徳間ジャパン 国内盤)





テレマンは多作で知られた作曲家だが、「音楽を売る」ことに本気で取り組んだ元祖のひとりだった。
印刷技術の向上と普及は楽譜出版の機会を増やし、「音楽」は宮廷での限られた贅沢のひとつから、上中流市民階級の子息のたしなみとして流行の兆しをみせた。テレマンは早くにそこに着眼して、多数の「練習曲集」や比較的易しいコンチェルト、ソナタを多く書いて売りまくった。
これはそういったものの一つで、「歌唱、演奏と通奏低音の練習曲」と題された47曲からなる曲集である。
どの曲も単純でわかりやすい構成とメロディなので、ちょっと歌の心得のある人ならば難なく歌えるし、管楽器演奏者だったらそのメロディをそのまま吹くだけでも自らのレパートリーの色添えにもできそうな曲が並んでいる。中にはどこかで聴いたことのあるメロディも含んでいて、その辺はバッハの「マグダレーナの音楽帖」と同程度の感覚で「練習教材ですから流行のメロディを適当に入れました」という風だったのかもしれないが、こちらが元なのかもしれないし、著作権という考えがなかった時代なのでそのへんはわからない。

これは高校時代にLPを購入して随分聴いた。
シュライアーは36曲を選んで収録している。現在だったら全47曲をCD1枚に収録できるほど短い曲ばかりである。自分はメロディをコピーしてオーボエで演奏したりもした。伴奏も基本和音コードなので、ギター等でも似せることが可能だった。ただこれは自分達は心地よく演奏できるが、聴いて面白いかは別問題だとは思う。
その通り、シュライアーの巧みな歌とプロフェッショナルの伴奏でも同じことが言えそうだ。
いくつかの曲は後の時代のリートの萌芽を感じるが、大半はあまりにも他愛ない。テレマンのカンタータ「学校の先生」や「カナリア」等で聴かれる、物語に即したしっかりした付曲とは違い、ずっと軽い感覚で作られているのがわかる。
1967年1月録音、この頃の歌い崩しのほとんどない素直な若きシュライアーの歌からテレマンの音楽そのものが持つメロディの簡素な美しさを明確に捉えることができる。
久しぶりにこれを通して聴いてみたが、高校生の時に感じたそのままの印象だということに気が付いた。
それは曲ごとに何かの感情を呼び起こすような部分がないからだろう。ただ、懐かしい。
そんなふうに音楽とは関係ない思い出フィルターが自動的にかかってしまうため、一般的な人が聴いた時、面白いと思うかどうかは全くわからない。
ひとつ言えることはこの曲集は本来が「聴いて楽しむもの」ではなく「演奏して楽しむもの」だ、ということだ。ツェルニーやブルグミュラーあたりの練習曲を聴いて「懐かしい」と思う人はいても、感動する人は少ないだろうというのと似ている。

この頃、徳間から大量にリリースされたシュライアーやアダムのLP盤は、演奏も誠実で録音も良く、プレスもジャケットも綺麗で購買欲をそそるものだった。しかし問題は…訳詩。それは当時高校生だった自分の感覚でも疑問に感じるものだった。
つっこみを恐れてか、ものによっては歌詩カードに「歌詩大意」とわざわざ書いているのがなんだか面白かったけれど。
今になって改めて読むと、ああ、これをこう考えて、わかり易くするためにこうしたのか…とある程度訳者の思考の道筋が読み取れて、やっつけではなかったことはわかる。
ドイツの各都市はそれぞれが何百年も独立した文化を持つ小王国であり、その地域の人にしか読み取れない方言や言い回しも多い。宗教宗派によるメタファーも無視できない。
まして古典となれば、学者でない限り正しい文意は示せないだろう。モーツァルトやシューベルトのグローバル化した作品なら文意は慣例に従えばいいだけだが、こういった珍しいバロック曲や民謡作品となればそうはいかないわけで…。
そんなこんなも含めてすべてが「懐かしい」印象の1枚だった。

posted by あひる★ぼんび at 23:29| Comment(0) | 音楽

2015年12月18日

ヘルツォーゲンベルクの「キリストの誕生」

なんて早い!間もなくクリスマスだ。そしてすぐにお正月がやってくる。
「キリスト教徒でもないのに」とわざわざ言うのも野暮な程、クリスマスはすっかり国民的行事になったが、元来の文化的背景の不足からか、あきらかに「クリスマス熱」は減速している。
街の大手スーパーの店頭はすでにお正月用品やお飾りのほうに力を入れているようだ。
だがまあ、幸せイベントは多ければ多いほど良い。自分はいつもそう思っている。
だからハロウィンもサンクスギビングも、クリスマスもOKだ^^

クリスマスが近づくと、それこそ「キリスト教徒でもないのに」キリスト生誕関係の音楽が聴きたくなる。
僕自身はアメリカのクリスマスソングは昔から「鑑賞材料」にしてこなかったので、古いヨーロッパの音楽や著名な作曲家の生誕祭向けのミサ曲、オラトリオを聴く。
そんな中の一つがこれだ。
ハインリヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルクの「キリストの誕生」というオラトリオ。

herz-chi.jpgヘルツォーゲンベルク:「キリストの誕生」op90
レジーナ・シューデル(ソプラノ)
アンケ・エガー(アルト)ペーター・マウス(テノール)
エルンスト=ゲロルト・シュラム(バス)
ルドルフ・ハイネマン、ミヒャエル・ロッベレン(オルガン)
ベルリン芸術大学室内合唱団 ベルリン州立大聖堂合唱団
オリオルアンサンブル
クリスティアン・グルーベ(指揮)
(ヘンスラー 2枚組 ドイツ輸入盤)



ハインリヒ・ピコ・ド・ペカドゥク・フライヘル・フォン・ヘルツォーゲンベルク。
下を噛みそうな奇妙な名だが、フランス貴族の末裔とのこと。
つまり「公爵山支配のペカドュク男爵家ピコのハインリヒ」さん^^;
(どうでもいいことだが、いつもヨーロッパ貴族のフルネームをおぼえる時はこんな記憶変換をしている)
閑話休題。
ヘルツォーゲンベルクは1843年グラーツに生まれ、1900年ヴィースバーデンで没したオーストリアの作曲家で、出発はヴァグネリアンながら、ブラームス信奉者に転じ、またブラームスの弟子を娶り、生涯ブラームスと深い親交を持った。
作品も複数の交響曲から大規模声楽作品まで決して少なくないが、いわば「忘れられた作曲家」の範疇であり、wikiあたりでも「博学ではあったが限られた才能の作曲家」などとネガティヴに定義されていて気の毒である。
才能の値踏みがどういう判断基準からなのか知らないが、誰も突っ込まない。ああいうネガティヴな紹介がいつの間にか世間を席巻してしまうこともあるのだ。
それより近年演奏・録音がやっと増えてきたところなので、それを聴いた若き世代から魅力再発見と復権が図れればいいとも思う。
さて、この「キリストの誕生」は1894年に完成したop.90という作品番号を持つ出版名称「独唱・混声合唱・少年合唱とハルモニウム、弦楽器、オーボエ、会衆歌唱、オルガンのためのキリストの誕生」というオラトリオ。
大規模な、というか大規模な演奏が可能な全3部80分を越える大作だ。
聴こえてくる音の並びはおとなしく、ブラームス派であることも考慮されているのか、この録音の場合は比較的小さめの編成になっている。
じゃあ、つまらない?
いえいえ、なんと親密で優しい表情の音楽だろう。だが、実際は、対位法をはじめとするバッハ研究の成果を結集した構成の厳格さで、むしろブラームスよりも古典的な手法で音楽を作り上げているのだ。
最初と最後のオルガンは、複雑で細かい音の並びから生じる不穏な響きが混じるが、以後は全体的に平和な音楽になっている。弦に乗って奏でられるオーボエのメロディの美しいこと!古いコラール由来となる無理のないメロディにあふれ、バッハのクリスマス・オラトリオより手軽だし、楽譜さえ普及すればもっと演奏機会も増えそうな音楽だと思う。
あまり演奏されない曲であるというのが信じられない。

「苦悩は人を目覚めさせ、導びいてくれる誠実な友人である」

ヘルツォーゲンベルクは1891年に妻を失ったあとの失意を宗教的に昇華しようとしていたようだが、神経系の病や目の疾患も起こっていて、楽な状況ではなかったようだ。
信奉するブラームスへの書簡にもその辺の記録がある。ただ、基本的に「非宗教的」であろうとしたブラームスとその部分に関してのみは、どの程度の深さで理解しあえていたのかはわからない。書簡を見る限り、ヘルツォーゲンベルクがこの曲に言及しても、ブラームスは特別な関心を寄せなかったようであるし。

さて、この演奏、厳格に書かれたこの音楽に対して、全体に適度にラフである。
矛盾するようだが、無理にアンサンブルを締め上げていないことが、ここでは良い方向となった。
1988年の録音。ベルリン・キリスト教会という大教会でのものにもかかわらず、大聖堂の空気感はなく、かといってコンサートホールの豊かさもなく・・・あるのは田舎の小さな教会のミサのような温度感と、しみじみとした敬虔さ。ちょっと独特のコブシのテノールを筆頭に、個性的ながらはりきりすぎない独唱者たちもいい味を出している。
「掴み」のオルガンをもっと綺麗に録ってほしいとか、控えめ過ぎる器楽と逆に時々元気すぎる合唱団のバランスには改善点もありそうだが、ほとんど未知のこの曲の魅力を伝えている。
冬の寒空に煌く星を見つけた、そんな気持ちになる名曲、名演だと思う。

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2015年11月09日

マリナー父子のモーツァルト

mar-moz.jpg
W・Aモーツァルト:
クラリネット協奏曲イ長調k622
クラリネット五重奏曲イ長調k581

アンドリュー・マリナー(クラリネット)
ネヴィル・マリナー指揮
アカデミー室内管弦楽団(k622)アンサンブル(k581)
(pentatone SACD EU輸入盤)



このCDの曲目は、モーツアルトの作品の中でも、天上の音楽とか天国的な清らかさ等、最高の賛辞を寄せられている晩年の2曲。
人気が低迷し、借金に追われ、病気に蝕まれ、宮廷や妻との諍いを抱えていたモーツァルトが、なぜこんなに穏やかな表情の音楽を作れたのか、その奇跡も人気の一つなのだろう。
実際この2曲が持つ一種の「癒し」は星の数ほどある同時代の音楽の中でも特異の存在になっている。
ある人はこの穏やかな音列から哀しみを聴き、またある人は諦念を聴く。秋の青空、暖炉の火、様々なイメージを聴くことだろう。

音楽の力が強いので、古い少々劣悪な録音でも楽しみは見つけられる曲だが「優秀録音」であることは、格別の喜びを与えてくれる。
このアルバムは大御所ネヴィル・マリナーの80歳記念&息子アンドリューの50歳記念とあって、演奏も録音も丁寧だ。これは今から11年前、2004年のDSD録音である。生々しい迫力はないが、SACDらしい余裕ある空気感が実に心地よい。
ロンドン交響楽団主席クラリネット奏者の肩書を持つアンドリューの音色は、音楽に即した中庸を得ている。クラリネットにはフランス式・ドイツ式の比較がよくされるが、それを越えた薄すぎず固すぎない、グローバルな響きがある。最近の「ピリオド演奏」に慣れた耳には、モダン楽器で吹いた場合の「足りない音域」のカヴァー方法がごくありふれた形に聴こえるだろう。しかし、奇をてらわない標準的な演奏方法、そこから生まれる伸びやかで豊かな音がかえって懐かしく、またゆったりと浸れる世界を生み出している。

考えてみたら最近の世間の「クラシック音楽」はずいぶんとギシギシとした音色でせわしいテンポで演奏するようになってしまった。「ピリオド」というが、どこまで作曲された時代性に即しているのかわからない。むしろ、現代の「流行」に即しているようにしか感じない。中途半端にピリオド奏法を入れ込んだ有名オケがアマオケのようなぶっきらぼうな音を鳴らして平然としている演奏会を、今世紀に入ってから随分聴かされてきた。
大切にすべきはその音楽が持つ情感、作曲家が描きたかったろう感情を描き出すことだが、21世紀の自分たちにそれが届くようにするのに、古い楽器、18世紀人のテンポ感では難しいのではないか?と常々思っている。

ネヴィル・マリナーは今年で94歳になった。世界大戦後の楽壇で歴史を作り上げた偉大な音楽家のひとりだ。
ロマン派や現代曲も取り組むが、基本は「モダン楽器によるバロックから古典音楽のスペシャリスト」。
昨年も来日し、NHK交響楽団を振っている。
その昔、ストコフスキーが90歳で現役指揮!で驚いたものだが、いつの間にかマリナーはそれを越えてしまった。
いつまでも健康で元気で活躍して頂きたいマエストロだ。

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2015年11月04日

オーマンディのシベリウス

このブログでも何度か書いているが、自分にとってはシベリウスの交響曲第1番は思い出深く、大好きな曲だ。
シベリウスの中ではひねりの少ない直球直情型の音楽で、それゆえに世のクラシック愛好家達からは批判も浴びることも少なくないが、この曲を好きだという人にとっては、その「批判を浴びてしまう原因」がほとんどそのまま「好きな理由」にもなっているのが面白いと思う。

はじめて聴いた時は中1。バルビローリ&ハレ管の演奏のFM放送だった。テープに録音し伸びきる程聴いた。
その後自分で買ったのはベルグルンド&ボーンマスSO。当時から地味な演奏だと言われていたようだが、うちの再生装置ではHIの強さが強調され、シンバルが派手に響いて爽快感充分だった。第4楽章の息の長い主題の再現部の高揚感は自分が風邪をひいたかと思うほどゾクゾクしたものだ。
高校時代に入ってBOX化した全集を買ったが、5番は転写ゴーストで、6番は極端なワウフラッターで鑑賞に支障が出そうな惨憺たるもの…初めての悔しさを経験させてくれたのもこのベルグルンド旧盤だった。しかも購入1年で外箱がカビだらけになる完璧な不良商品だった。(でも愛着がある。未だに捨てずに所持している)
そのあとすぐに手にしたのがオーマンディ&フィラデルフィア管によるSONYの廉価盤だった。
オーマンディはシベリウスと親交があったという。オーマンディはこの交響曲をアメリカで紹介するにあたり、アメリカ人の耳に馴染むよう楽譜の改変を実施した。
それに対しシベリウスは全承認を与えている。
第1楽章数ヶ所にシンバルの追加、全体に渡って中心になる旋律を補強し浮き上がらせたり、増管し編成を拡張している。言ってみれば、シベリウスが毒されなかったはずの19世紀末風肥大編成をやってのけた演奏でもあった。
シベリウスの音楽は地味晦渋と言われるが、それは必ずしも本人が望んだものばかりではない…フィンランドという立地、政治背景、数々の条件からそうなってしまったとも考えられる。楽器を多彩にしたところで本質が変わるわけではないが、オーマンディは少なくとも親しげに感じる化粧は必要と考えたのだろう。実際、ある程度の効果は生まれているが、全体に明るすぎ、終楽章最後のピツィカートのハープを強く弾かせて余韻も翳りも取り去って、平凡化してしまったような残念さも感じた。
CD時代に入ってからは、そのSONY盤の後に録音したRCA盤のみが流通し、こちらは長く埋もれてしまっていた。演奏解釈に大きな違いもなく、録音も全体のバランスも良いRCA盤があれば事足りるのだが、このSONY盤はTOWERの企画で復刻している。

今回、SONYからRCA録音も含めたオーマンディのシベリウスがまとめて廉価BOX発売された。

orm-sibe.jpg
オーマンディSONY・RCAシベリウス録音集成
  フィラデルフィア管弦楽団
  ユージン・オーマンディ(指揮)
  アイザック・スターン(Vn)
  ディラーナ・ジェンソン(Vn)
  モルモン・タバナクル合唱団
(SONY MUSIC 8枚組 EU輸入盤)



<収録曲>
シベリウス:
交響曲第1番 ホ短調 Op.39 1962年/1978年録音
交響曲第2番 ニ長調 Op.43 1957年/1972年録音
交響曲第4番 イ短調 Op.63 1978年録音
交響曲第5番 変ホ長調 Op.82 1975年録音
交響曲第7番 ハ長調 Op.105 1960年/1975年録音
ヴァイオリン協奏曲ニ短調Op.47 1969年/1980年録音
『悲しきワルツ』 Op.44-1 1959年/1973年録音
『トゥオネラの白鳥』Op.22-3 1973年/1960年録音
『ポホヨラの娘』Op.49 1976年録音
『大洋の女神』Op.73 1978年録音
『エン・サガ』Op.9 1963年/1975年録音
『タピオラ』Op.112 1976年録音
『カレリア』序曲Op.10 1977年録音
『カレリア』組曲Op.11 1968年/1975年録音
『フィンランディア』Op.26 1959年/1968年/1972年録音


交響曲は3番と6番を録音しなかったのが残念だ。理由はわからないでもないが…。
それ以外は比較的親しみやすい作品を集めているが、ほとんどの作品は新旧2種の録音を収録(フィンランディアなどは合唱付も含め3種)しているマニアック、というよりオーマンディ&フィラデルフィアファン向けのセットになっている。
どの曲もオケの機能美とエンターテイナーっぷりが発揮された聴きやすいサウンドだし、シベリウスが別の作曲家の作品に聴こえるようなことは一切ないのだが「これがシベリウスだっ!」という、イメージと合致した強固な感覚からは遠くなっている。
ひところこれらの演奏が持つ一種の人工的な軽さ、明るさは「時代遅れ」に感じられて市場から淘汰気味だったが、流行のサイクルが一巡したのか、何ら不自然なく聴こえるようになった。最近の若手・中堅のシベリウスは総じて軽めだから、流行は繰り返す不思議さを感じている。
シベリウスをとりあえず楽しんでみようという人、シベリウスを熟知していて、「これもまた一興」という余裕を持てる人なら充分すぎる程、面白いセットだと思った。
シベリウスは演奏者から作品解釈を問われると、決まって「表現者たるもの、自由に」という指針を与えていたという。
オーマンディのシベリウスもそうして自由に描かれた姿なのだ。
あくまで過去のスタイルの記録ではあるが、将来、必ずなぞられる解釈のひとつだと思える。
posted by あひる★ぼんび at 23:43| Comment(4) | 音楽

2015年10月07日

ホーネックのチェコ音楽

pit-dvo.jpg
ドヴォルザーク:交響曲第8番ト長調 op.88
ヤナーチェク:交響的組曲「イェヌーファ」(ホーネック&イレ編)


 ピッツバーグ交響楽団
 マンフレート・ホーネック(指揮)
(リファレンス SACD EU輸入盤)





2013年10月にピッツバーグ・ヘインズホールでのライヴ。拍手はなく、例によって演奏会本番一発実況ではなく、ゲネやリハを組み合わせているのだろう。
SACDハイブリッドで、マルチは5.1ch(ただしフロント左右以外の音は微かなアンビエント)
高音質が売りのレーベルの盤は、演奏は二の次というイメージがどうしても抜けず、購入をためらうことがしばしばだった。実はリファレンスもそんなレーベルのひとつと考えていた。だが、考えてみれば現代は「感覚的高音質」で済むものではない。近年の極端に解像度の高い鮮明な録音ではアンサンブルの精度も誤魔化しがきかない。よって、当然かなりの手練れを揃え、万全な体制で企画に臨んでいるはずなのだ。

まずは聴きなれた「ドボ8」だが、とても新鮮だった。
ホーネックのドヴォルザークはムター&ベルリンフィルとのヴァイオリン協奏曲でも感じた、見通しの良さがここにもある。あの演奏ではベルリンフィルから明るい音色と軽やかさを引き出していた印象だった。今回はマゼールでもお馴染みのアメリカの機能的なオケ。
本当に、澄んでいて爽やかな良い音である。各パート、フルートやトロンボーンの鮮やかな技巧に驚く。
木管群の嫌味にならない程度の即興性も見事。充分にやりたいことをやって、テンポも各所でルバート、強弱もめまぐるしいのだが、淀みなく全体があっけないほどに感じるのは、筋の通った解釈あっての成果なのだろう。また、コーダをコテコテにするかと思いきや、更に軽やかにさっぱりと、強奏を避けて終わらせているのがかなり意外な気もした。「オスマントルコの脅威に屈しないチェコ民族の誇りを謳う」とか、ものの本にはあったりする楽章だが、この演奏はチェコもトルコも陽気にカーニバル。こんな翳りない演奏もありだろう。
次のヤナーチェクの「イェヌーファ」はかなり民族的なアクを持っているが、その民族的オペラから7曲を抜出し、順番を入れ替えてひとつに繋げ、組曲というよりは交響詩のようなひとかたまりの編曲作品に仕上げている。
*第1幕より『はるか遠くで』*第2幕より『あの子は死んだの?』
*第1幕よりヴェルブンクの歌と踊り
*第1幕より『若者は苦難に耐えるもの』
*第3幕より『かあさん、私のかあさん』
*第2幕フィナーレ*第3幕フィナーレ


ドヴォルザークもヤナーチェクも素晴らしい演奏力で、民族的な自由自在なリズムも浮き立つようだった。
だが、だからといって、聴いているこちらのボルテージは必ずしも上がらないのはどうしたことだろうか…。
学生時代、盤質の悪い東欧盤のスクラッチと戦いながら、それでも血圧が上がりそうな昂揚感の中で親しんだこういったチェコ音楽が、全く違うニュアンスで美しく響く。
ダンゴ状の音の混濁を迫力と勘違いできた過去が逆に恋しくなってしまうスマートな演奏だった。
もちろん違う楽しみ方で、充分納得できるものには違いない。迫力を主とした感動を呼び込むためにはもっと大音量で聴くべきなのだろうか?まあ、とても贅沢な悩みである。

posted by あひる★ぼんび at 23:51| Comment(0) | 音楽

2015年09月29日

若さ、とは。

僕が子どもに関わる活動を始めたのは、まだ高校を出たばかりの頃だった。
「こども劇場」ではない別の団体がスタート。
本当に何もわからない状態で、僕は思い切り、気負っていた。
でも、何も出来なかった。・・・ただ、一所懸命に目の前の課題に取り組むしかなかった。
まわりは色々なジャンルのプロフェッショナル。奇妙な場違い感があったが、がむしゃらだった。
ある時、行事のミーティングで50代の中学の先生に、
「君、無理しすぎてるよ。だけど、羨ましいな。若さは最大の武器だ。」
そういわれたのを鮮明に覚えている。

若さは武器…
当時はわからなかった。
今、自分があの先生ほどの歳になり、劇場で大学生らを見るとき、実感する。
その歳でしか出来ないことがある。出来ない接し方がある。

*******

音楽の話題。記事にyoutubeを引用するので、消えてたらごめんなさい。

グレゴリー・ジャン=パウル・ルマルシャル。1983年生まれ、2005年デヴュー。

Badiとのデュエットでミシェル・サルドゥのJe Viens Du Sudを歌っている。ゴスペルクワイヤーに支えられた若々しい声が美しい。

もうひとつ、20代に入ったばかりの彼が、ジョニー・アリディのカヴァーに挑戦。
先のサルドゥのカヴァーのような別アレンジではなく、比較的元歌に近い表現。

https://www.youtube.com/watch?v=qguANFliNds
(この動画は引用不可の設定なのでクリックしてごらん下さい)

はたちそこそこの若いシンガーが、大健闘している。
グレゴリー君は2004年のコンテストで優勝を飾り、天才歌手・未来の大器として期待された。
しかし2007年、先天性の嚢胞性線維症の為に23歳で逝去してしまう。
彼は正規のスタジオアルバムに加え、死の床にあっても数曲の録音を残している。
それも含めて、全ての歌が素晴らしい熱気を持っている。
肺の病気の為、本来なら歌など絶対に無理なはずなのだが、彼は何かが憑依したかのように堂々と歌えた。
奇跡とはこのことだろう。

こちらは同じ歌、本家本元のジョニー・アリディのステージ。60代のスーパースターの貫禄だ。

まるで全く別の音楽のようだが・・・どちらも魅力ある魂の叫びだと思う。
2つを並べると「若さ」とは何か、いろいろ感じるものがある。
一概に、グレゴリー君をまだまだとは言えないこともわかるだろう。

時間は平等に、全ての人に降り積もる。
しかし、いのちの炎を灯せる期間は必ずしも平等ではない。

posted by あひる★ぼんび at 23:36| Comment(0) | 音楽

2015年09月10日

ファリネッリ幻想

ファリネッリは18世紀のカストラート(俗称:去勢ソプラノ)で、3オクターブ半もの音域と超絶技巧を駆使した歌声で、イタリアを中心にヨーロッパ中に名を轟かせた。
本名をカルロ・ブロスキといい、1705年に生まれ1782年に亡くなっている。
15歳ごろに劇場デヴューしたとされ、以来、終生栄光と名声に傷がつくことがなかった伝説のスターでもある。
1994年に撮られた映画ではドラマティックにその生涯、主に前半生が描かれていたが、王家に引っ張られたあとの実際の後半生は「王宮の籠の鳥」だったようだ。また、この映画ではブロスキを育て「ファリネッリ」という怪物歌手へと導いたポルポラより、作曲家兼演奏家だったブロスキの実兄とヘンデルばかりがクローズアップされていた…まあ「反ヘンデル派」とされるポルポラの地味めな作品よりも、ヘンデルの曲のほうが現代人の耳には馴染んでいるからなのだろう。あくまでコマーシャリズムの結果か。
このニコラ・アントニオ・ポルポラ(1686-1768)はナポリで活躍した作曲家だが、オペラ作曲家としての人気より声楽教師、指導者の手腕に優れていたようで、多くのスター歌手を世に送り出している。ファリネッリもその1人だが、この弟子達が栄光の人生を歩むのとは対照的に、ポルポラの晩年は悲惨だったようだ。

現代のカウンターテナーの大スターのひとり、フィリップ・ジャルスキーは2012年の夏から秋に、ファリネッリをテーマにしたアルバムを作った。リリースは翌2013年。映画と大きく異なるのは、ヘンデルやブロスキ兄の作品を含めず、あえてポルポラだけの作品集としたことだろう。それも、カストラートっぽさを出すための超高音など必要以上の演出は避け、自身のいつもの歌唱表現で歌いきっている。
ジャルスキー自身はファリネッリよりもそのライバル、カレスティーニに強く共感していたとのことで、アルバムもカレスティーニの為の作品集を先にリリースしていた。研究熱心なジャルスキーはカレスティーニとファリネッリのライバル関係の実情を調べているうちに、ファリネッリの音楽の師ポルポラに興味が広がり、それからやっとはじめてファリネッリにも好感を持つようになったのだそうだ。

jarfa.jpg
ポルポラ:ファリネッリの為の作品集(11曲)
  フィリップ・ジャルスキー(C-T)
  チェチーリア・バルトリ(MS)
  アンドレア・マルコン(指揮)
  ヴェニス・バロック・オーケストラ
(ワーナー・エラート EU輸入盤)




収録曲はこんなふう
「アリアンナとテーゼオ」〜天を見よ
「身分の明かされたセミラーミデ」〜かくも慈悲深き唇が
「アッシリアの女王セミラーミデ」〜荒れ狂う嵐の中の船のように
「ポリフェモ 」〜穏やかなそよ風
「ポリフェモ 」〜いと高きジオヴェよ
「ミトリダーテ」〜私が感じる喜び
「アウリデのイフィジェニア」〜澄みきった波は
「ポリフェモ」〜愛する人を待つ間
「アウリデのイフィジェニア」〜この胸が切望するものは
「オルフェオ」〜なんとも不幸な愛によって
「オルフェオ」〜苦しみを憐れみ下さい


11曲中7曲が世界初録音だそうだ。が、そのこと自体はあまり意味はないだろう。何にせよほとんど誰も知らない曲なので^^;
ジャルスキーが尊敬しているという歌手の一人、チェチーリア・バルトリが2曲共演している。
バルトリは、軽やかな高音とある意味男性的な力強い低音でカストラート用の曲をこれまでに多数録音している。だからもちろんファリネッリもカレスティーニもお手のものである。ここではジャルスキーの影に徹して、サポートを聴かせる。
ジャルスキーはいつものように、単刀直入、極めて素直に歌っていて、技巧も鼻につかない自然さ。
細かい音の羅列のせいで旋律線が歪んでしまうことを避けているようで、反復再現部でのアドリブ技巧も節度と良識あるセンスを発揮していて、多くの歌手が作るこの種のアルバムのような聴き辛さがない。
迷いなく美しい「歌」として並べていることが素敵だと思った。
しかしそれは反面、陰影薄く淡白に感じないこともない。伝説や映画からイメージするファリネッリとのギャップがないといえば嘘になるだろうか。ジャルスキーの歌声はあまりに清潔すぎるのだ。
音楽文化史の暗部ともいうべきカストラートのトップスター、芸術家というよりスーパーアイドル、好事家達の興味の対象、そんな屈折の中にあった人生をここから聴き取ることはできそうもなかった。

youtubeから借用。消えていたらご勘弁を。

https://www.youtube.com/watch?v=RSqBCFtBo90

ジャルスキーはまだまだ、発展中のカウンターテナーである。
ジャルスキー自身の言葉では「僕の声はメゾソプラノに相当していて、高音は2点イ音(a2)まで歌いますが、低い声はそれほど強さがありません。僕自身の地声はバリトンです」
この点をスルーしてしまいがちだが、地声がバリトンとなると、カウンターテナーとしての声とその地声をなめらかに繋ぐのはほぼ無理。大きく声質がチェンジしてしまう。丁度ファリネッリとカレスティーニの関係のような同世代ライバル、ツェンチッチは地声がテノールだそうで、それによって強い低音も取得できているわけで、ジャルスキーはこの不利な条件をカヴァーする為に、日々努めて低音の補強に勤しみ、表現の充実を図っているとのことだ。
カウンターテナーはとてもデリケートな声質で、テノールやバリトン以上に歌手生命は短命だ。その声は宿命的にいつも危機にさらされているわけで、充分に注意を払いつつ一日でも長く活躍してほしいと思った。


posted by あひる★ぼんび at 23:20| Comment(0) | 音楽

2015年08月21日

夏は…

夏は暑すぎて音楽をじっくり聴く気がおきない。
北欧音楽も、爽やかな美声も、決して癒しにはならない。
しかし、なぜかヘビメタやハードロックは聴いたりする。理由は不明だが、それは聴けるのだ。
別にジャンルで差別するわけではないが、この種のジャンルの音漏れはクラシック音楽に比べると大きな迷惑になりがちだ。別に爆音でストレス発散したいわけでもなし、リスクは最小限に、故に、何のための音楽かわからない音量で聴くことになる。意味すらわからぬ行為である^^;

先日、名俳優のクリストファー・リーが亡くなった。
以前もここで取り上げている。彼はイタリアのメタルバンドの「Rhapsody of fire」にゲストとして長く関わり、ナレーションとヴォーカルを披露していた。彼が入ると、ヴィジュアル面でも音楽面でもピリリとしまる。最高級のわさびのようだ。
リー自身、ヘヴィメタルという音楽様式が好きだったようで、晩年に自身のヴォーカルアルバムもリリースしている。もともと、このジャンルの歌はリズミカルにビートに乗る必要がなく「強い声」であれば自己のペースを貫けるわけで、リーが好んだのはそれもあったのかとも思う。

以前も貼ったRhpsodyと共演の「Magic of the Wizard's Dream」のプロモーションビデオ。

https://www.youtube.com/watch?v=Qo53qPjkGPg
フロントマンのファビオ・リオーネは単独のステージでは恰幅よく声も堂々たるものだが、リーと並ぶと歌も体躯も少々小さく感じてしまう。

こちらはドイツのテレビ番組から。

https://www.youtube.com/watch?v=bxIy5GEdDKY
以前からこのジャンルの音楽は「9割ゴミ」と言われることがある。
言い過ぎだろ…と一瞬思うが、否定も反論もできない部分もある。何しろやってる連中が最初からジャンクを作る意図の場合すらあるわけで。
このRhapsody〜あたりはクラシックの専門教育を受けたメンバーが時間とお金をかけて作っているので、美しい体裁を持つが、しかしどんなに上品にまとめても「サブカルチャー」に留まるのを感じる。「鉄クズ」にはならずに済んでいるものの、全体的に過剰に商業的で、消費物の要素が強い。だが、そういうものなのだ。それも自由だ。その自由がこれらの音楽の生命線でもあろうし。


https://www.youtube.com/watch?v=rXlZZGrbEGU
ツインギター早弾きユニゾンなんてするから体が楽器に「食いつき止まり」してたり、会場一体化のグロリア〜♪のアクションがダサかっこよかったり。
なんだかんだ仮に「鉄クズ」であっても大好物なんですけどね^^

posted by あひる★ぼんび at 23:36| Comment(4) | 音楽

2015年08月03日

過激なフランス紳士〜ミシェル・サルドゥ

ミシェル・サルドゥは1947年生まれ、1960年代後半から活躍するフランスのシンガー。
来日がないので日本での知名度は低いが、フランスではジョニー・アリディと人気を競い合うトップスターのひとりだ。この絶大な人気は70年代後半から20世紀中ずっと続くという息の長さで、最近は活動範囲は狭まったとはいえ、大御所別格扱いで君臨している。
デビュー直後は楽曲に対する周囲の無理解もあって不遇だったが、アンカ、シナトラの「マイウェイ」(フランスではクロード・フランソワの「いつものように」)の作曲者として知られるジャック・ルヴォーとのコンビネーションが彼をスターに押し上げた。
もちろんルヴォー以外の歌も歌うが、話題になりヒットし、なおかつ彼にぴったりとフィットしてるのはこのコンビの作品だ。
案外、知られていないのだが、日本では布施明と沢田研二がサルドゥのヒット曲をコンサートで数多く歌っている。
サルドゥの柔らかさと強さを兼ね備えた声質と、一般的なフランス語よりかなり鋭角的に聴こえる発音、愁いを含んだ少し神経質そうな表情が、曲に独特の雰囲気を与えた。
さりげない語の羅列でも意味ありげな…時として政治的なメッセージも裏読みできそうな…そんな気分をあらかじめ読み込んだ曲を提供し続けている。反米だったドゴール政権下でアメリカへの感謝を歌って放送禁止を食らったり、コンサートのクライマックスに右翼的扇動ともとれる歌を壮大に歌ったりする。
歴史的、時事的、宗教的事件、民族対立などの題材を過激な言葉で歌いあげながら、背景の説明なく視聴者に丸投げな姿勢など、まあ、反骨精神なのか、話題作りなのかわからない行動も多々ある。その辺の理由で、一部から思想的な誤解を受けることもあったようだ。
しかし、他のシンガーの歌詞も結構シビアなものが多いのがフランスのお国柄、大統領や議員を歌で批判したり皮肉っていても、ことさらサルドゥを「思想的なメッセージ・シンガー」とは位置づけられないだろう。絶大な人気がまた、絶大なアンチも生むだけのこと。

さて、そのサルドゥが70年代前半に行ったパリ・オランピア劇場の公演を抜粋したのがこのCDセット。

DSCF3332ssrec.JPG

パリ・オランピア劇場のサルドゥ
 ライヴ1971年
 ライヴ1975年
 ライヴ1976年

ミシェル・サルドゥ(ヴォーカル)

(Trema 3枚組 フランス輸入盤)




彼は73年に「恋のやまい」をヒットさせスターに上り詰めるわけだが、その時期を挟んだ前後の公演記録ということになる。
厚紙のボックスに普通の1枚用ジュエルケースに収められたものが3枚と、この3公演前後の写真を収めた簡単なリーフが入っている。このボックスの厚みは4枚分なので、1枚分堂々たる厚みの発泡スチロールが入っている。なんかもう少し工夫できなかったのかなあ^^;
歌詞は75年、76年については国内LPを所有しているので自分的には問題なく曲の趣旨が聴き取れる。が、文学芸術ではないこういう歌詞は意味がわかるのとわからないでは印象が全く変わるものだ。いや、なんとも汚い、過激な言葉で組み立てられていることか。
「マシアスやアダモのコンサートは親子連れで楽しめるが、サルドゥやアリディはちょっと…」と、当時フレンチポップスを紹介する番組で語られていたのを思い出した。
ステージの様子はyoutubeなどでアップされている部分的なビデオしかないのでわからないが、71年のステージは陽気そのもので、聴衆と共に盛り上がる感じ。だが、少々散漫で、まだ路線を確立していない様子が伺える。しかし、正真正銘のスターとなった4年後の75年は実に堂々としていて、一曲ごとに独立したドラマを構築しているのがわかる。声の恰幅も格段と広がっている。 ラスト近くに歌われる「前進」は一聴するに右翼的な煽りのように聴こえる曲ではあるが、アウステルリッツやワーテルローの地名が持つフランスにとって意味や、「進め!進め!進め!」と連呼する中にまぎれこませた「くたばっちまえ」…煽りなのか強烈な皮肉と捉えるかは、実は聴き手側の立ち位置で変わるのだと思った。
この年に発表したアルバム「告発」のヒットは彼の大きな飛躍になった。同時に、先にかいたようなアンチの標的にもなった。翌76年の公演はそのアルバムの曲が中心で、それこそ実際の事件を糾弾する過激な歌詞と、先進的な音作りにチャレンジしている。

黒画面だけど見られると思う。76年オランピアライヴから「告発」。


当時、やっとステージに「シンセサイザー」がお目見えした頃である。
こいいったポピュラーソングの伴奏が「ジャズビッグバンド」から「ロックバンド+ストリングス+ホーンセクション」に移行し、やがて小編成の「ロックバンド+シンセキーボード」へと移り変わっていく時期だった。
このまま過激路線を突き進むかと思ったサルドゥだが、80年代は最初のうちは屈折があったものの、後半ぐらいから表面上は純粋な「歌」に戻っていった。
…というより、含ませ方がうまくなった感がある。その分何やらわかりやすさが後退するのだが、基本姿勢にブレはなかった。
ルックスは、アリディに比べると早くからオジイチャンになってしまったが、ステージ活動は2015年現在も活発である。過激なフランス紳士は、老紳士となっても健在のようだ。


posted by あひる★ぼんび at 23:11| Comment(0) | 音楽

2015年07月02日

ガーディナー&LSOの宗教改革

録音物を聴いていて「あ、いいな♪」と思う音は大抵LPのようなアナログ的な音。
CD時代に入ってとんとそういう音がきけなくなったが、最近、いくつかのSACDやブルーレイ・オーディオで、たまに感じる事ができるようになった。
ビットを刻んで本物に近づけると、なぜかLPの懐かしい音に近くなるとは、なんと奇妙なことだろう。
ネットでよく「クソ耳」という悪口を見かけるが、所詮人間の耳はそんなものだ。実際、微妙な音の色合いを聴き分けることができる機能はあっても、脳内では記憶と適当にブレンドされてしまうのだろう。だからこそ音楽を自分の感情にひきつけて楽しむことができる。記憶とリンクしないものはただの「音」だ。

me5gar.jpg

メンデルスゾーン:序曲「ルイ・ブラス」
         序曲「静かな海と楽しい航海」
         交響曲第5番「宗教改革」

 ジョン・エリオット・ガーディナー指揮
 ロンドン交響楽団
(LSO SACD+BD-A UK輸入盤)




ロンドン交響楽団の自主運営レーベル「LSO LIVE」は、かねてからSACDで演奏会録音をリリースしていたが、去年あたりからブルーレイ・オーディオも抱合せるようになった。いくつかのアルバムには演奏会の映像まで収録されていた。
古楽のプロフェッショナル、ガーディナーは現在、このLSOとメンデルスゾーンのシリーズを組んでいるようで、以前交響曲3番を紹介したが、今回はその第2弾となる5番がリリースされた。
モダンな機能美を備えた万能オケのイメージもあるLSOと、ガーディナーが、必ずしもしっくりいくものではないということは想像できるのだが、そこはそれ、百戦錬磨のベテラン達、案外とうまくやってるのが聴き取れる。
今回は特に楽譜のバージョンや考証にとらわれていないのか、響いて来る曲が「別曲」に聴こえるような事件は何もなかった。DGでは確かこの5番は別稿で演奏していて、少なからず驚かされたのだが…今回は映像も付録していないので、3番のように「全員立奏」のショッキングな状況もわからない。煽り立てることも必要以上に歌い上げることもない、音で聴く限りいたって穏やかな演奏だ。
それよりも、別日に演奏されたという冒頭の序曲「ルイ・ブラス」がまるでLSOと違って感じたことには驚いた。それこそアナログ的。これを「まろやか」と感じるか「眠い」と感じるかは人によると思うが、ドイツのローカルオケが丁寧に演奏をした時のような響きだった。
だが、自分自身は、このガーディナーや大活躍のヤンソンスはあまり相性が良くないのかもしれない。
いつも心の手前で音楽がとどまってしまう気がする。優秀な録音や映像に助けられて興味はひきつけられるものの、熱い気持ちも特別な感動もなかなか体験できないでいる。
もちろんこれも高水準で美しい演奏ではあるし、いつの間にか癒されているようなそんな気持ちにはなるのだが・・・。と、言いつつ、ひそかに4番を期待してたり^^;

posted by あひる★ぼんび at 23:50| Comment(0) | 音楽

2015年06月18日

ゲルギーとロッテの20年

ヴァレリー・ゲルギエフは度々の来日と、多くの録音で、クラシック愛好者なら誰もが知る存在だろう。
自分自身ももう何度も実演を聴いている。どういう契約なのか、来日の度にうちの地元のホールでは会館主催コンサートが催され、しかも人づてに毎度招待券を頂いている。
そんなふうに自腹鑑賞ではないので「絶対聴きたい」「元をとってやろう」いずれの感覚もなく、さらに特に好きなわけではないため、厳しい評価を下してしまいがち。だが、それでも彼の実演は録音より数段面白いのだ。
緊張と弛緩の絶妙なタイミング、あるいは逆にその破綻、それをどう克服するのか…そんな生の醍醐味がある。体裁の整った演奏が多い邦人指揮者&オケでは味わえない、幾分荒削りなライヴ感が必ずあるのだ。

gergi-rotte20b.jpgゲルギエフ&ロッテルダムフィル 20年の軌跡
演奏会ライヴ録音集

  ワレリー・ゲルギエフ(指揮)
  ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団
  ユーリー・バシュメット(ヴィオラ)
  レオニダス・カヴァコス(ヴァイオリン)
(ロッテルダム自主制作盤 4枚組)




これはゲルギエフのマリインスキー以外の手兵、ロッテルダム・フィルとのライヴ録音集。
収録曲は以下の通り。
・チャイコフスキー:交響曲第4番へ短調 op.36(1988)
・シベリウス:交響曲第1番ホ短調 op.39(2003)
・プロコフィエフ:『ロメオとジュリエット』 op.64より17曲(2004)
・ストラヴィンスキー:春の祭典(1996)
・ショスタコーヴィチ:交響曲第11番ト短調 op.103(1990)
・ベルリオーズ:『ファウストの劫罰』より
   鬼火のメヌエット・妖精の踊り・ハンガリー行進曲(1997)
・シュニトケ:ヴィオラ協奏曲(1993)
・デュティユー:ヴァイオリン協奏曲『夢の木』(2007)
・ティシチェンコ:バレエ音楽『ヤロスラヴナ』より6曲(2007)


自分も含め、多くの人には「ロシア人指揮者」というだけで特定のイメージがある。
金管を豪快に鳴らし、大きなヴィブラートをかけ、極端にテンポを変動させ…スヴェトラーノフ、ムラヴィンスキー、フェドセーエフらからくるイメージ。
だが、ゲルギエフは必ずしもその路線ではない。レーベルやプロモーターの宣伝はあくまで普遍的な「ロシア」なのだろうが、実際は微妙に違うのだ。野獣的なルックスも、敢えてそういうショットを選ぶ商業戦略のような気もする。
弱音に気を配り、パワーを制御してあえて音の塊を回避したり…時として制御しすぎてじれったくなるほど…それは先のロンドン響との「幻想」でもそうだった。
この録音集もオランダ国籍のオケであるから、マリインスキーとは全く異なるし、機能的なロンドン響とも大きく異なっている。文化の違う国の団の実力を、楽譜という共通言語を介してどう引き出すか、そこに大きな配慮と努力がありそうだった。
…しかし、この4枚組、派手目のロシア音楽中心に並んでいる。LET IT GOよっ!とばかり、普遍的なロシアンなイメージで押しているのだ。
チャイコフスキー4番は民謡フレーズはロシアのオケとは異なるものの、爆発力はそれなりに大きい。また、シベリウス1番は、ゲルギエフには珍しいレパートリーだと思うが、チャイコフスキーの延長線上という解釈かのような歌いっぷりだ。フィンランドがロシアに屈してしまった?という解釈?^^;
ショスタコーヴィチ11番や、シュニトケのヴィオラ協奏曲、ティシチェンコの1974年の作品「ヤロスラヴナ」を聴いて感じるのはロシア外のオケだからこそできる「らしさの演出」だった。ロシアのオケで旧ソ連時代の音楽を演奏する以上に、公約数的な「ロシア」を浮かび上がらせているようだ。割り切り感、なんちゃって感は実は音楽には重要。だいたい近代の音楽は作曲家も自然な味わいよりはかなり強引なインパクトを用意しているわけで。

ただ、問題は録音だ。
弦も管も破綻なく枠内に収まっているが、打楽器の存在感が極めて薄いのだ。
特にシンバルなどはえ?どこ?だし、銅鑼も遙か遠い。これではまるで熱が入らない…春の祭典も野生から遠のき、ショスタコーヴィチも静動の変化が小さくなってしまった。
大音量で再生すれば、それなりなのかなぁ…。
演奏の良し悪しの評価は、実際は録音の具合で左右されるのだろうと実感してしまうセットだった。
ロッテルダムの生音は聴いたことがないのだが、きっとこうではない。
ゲルギエフの独特のテンポ感が楽しいので、この上に爽快な一撃が欲しくなる。もったいなさこのうえない気がした。

posted by あひる★ぼんび at 23:51| Comment(4) | 音楽

2015年04月22日

ソプラノとクラリネットのリート

ヘレン・ドナートは1940年生まれのソプラノ。(発音に即したカタカナ表記だとドーナトとすべきだが、昔からの恒例に従いここではドナートにしておく)アメリカで生まれ、音楽教育を受けオペラ歌手としてデビュー。しかし、1961年以降は歌手活動の中心をドイツ・オーストリアに移している。
声質としてはソプラノ・リリコで、オペラでは若い娘役を得意としていた。早くからオペラ以外、特に宗教音楽も歌っているが、ドイツリートを歌うと、純粋なドイツ系リリコに比べ、幾分抑揚が大きすぎるように聴こえることがあった。このへんは「オペラも歌うリート歌手」ではなく「リートも歌うオペラ歌手」なのだろうが、オペラ歌手としては逆に声量が不足している感もあったので、そのへんが難しいと思えた。
無理にドラマティックな表現を避け、声の美しさを生かせる音量を心がけたというふうにも解釈できる。

dona.jpgクラリネットを伴うリート集
シューベルト:岩の上の羊飼い
ラハナー:彼に会ってから/歌の翼に
カリヴォダ:故郷の歌
シュポア:心よ静かに/2つの歌/憧れ/
      子守歌/秘めた歌/目覚めよ

ヘレン・ドナート(ソプラノ)
ディーター・クレッカー(クラリネット)
クラウス・ドナート(ピアノ)
(ACANTA ドイツ輸入盤)


このアルバムにはシューベルト・ラハナー・カリヴォダ・シュポアのクラリネット・オブリガート付きリートが集められている。
作曲当時としては画期的なサウンドだったろうシューベルト最晩年の名曲「岩の上の羊飼い」をメインに据えているが、続く作品群はすべてそれより後の時代の曲なので、しっかり統一感ができている。図らずもここで確認したのはシューベルト音楽の先進性だった。晩年のシューベルト作品は周囲の保守層からはなかなか理解されなかったようだが、没後数年で時代が急激に追いついたことが理解できる。彼の音楽は独りよがりな前衛ではなかった。
1981年録音、当時41歳のドナートの歌声は艶やかだ。表現を細かく配慮している部分と、雰囲気や響きを優先している部分が同居しているようだが、全体に穏やかで美しい。もし一貫して可憐繊細な声が良ければ他の歌手を捜せばいいと思う。声楽はそれぞれの歌手の個性・唯一性が魅力なのだ。彼女はドイツ語に関しても当然問題ない。ドイツ人と結婚し、ドイツで生活する彼女である。
クラリネットのクレッカーの演奏は、鋭角的な音色を含むので好き嫌いが分かれそうではある。ドイツ風という定義はないのだが、そういって納得できてしまいそうな音色だ。
クレッカーは「発掘録音マニア」でもあったようで、意欲的なレパートリーを持っている。ここではすべてオブリガートパートなので、活躍の範囲は限られてしまうが、余裕で吹いているのが流石だ。ちなみにこの「類を見ない企画」が提案され、成立したのは彼がいたからに違いない。
ここでピアノを弾いているのはヘレンの夫で、指揮者のクラウス・ドナート。ベーゼンドルファーの落ち着いた音、奇をてらわないテンポ感とリズムで、前に出すぎないように注意を払いつつ演奏をすすめているようだった。白井&ヘル、鮫島&ドイチュなど夫婦でのデュオは、不思議なことにどれもピアノが影のように寄り添うスタイルをとる。「もっと雄弁に」という評もありそうだが、この味わいも魅力があるし、女性を引き立てるというのはヨーロッパ文化の中の一種のフェミニズムの表れなのかもと思えた。

実はこのCDは購入から20年近くたっている。池袋WAVEでアカンタレーベルのCDを投げ売りしていたのを買った中の1枚だが、その時ざっと聴いて書棚で休眠させてしまったものだ。棚の入れ替えをしたところ、面白いものが出るわ出るわで、なんでもっと大切に聴かなかったのだろうと反省してしまった。
なお、このアルバム自体は発売元を変えながら、何度も新装・リマスタリングされ再発されている。現在はダウンロード販売もあるようだ。

メンブランから再発されたセット物からのものがyoutubeにあったので参考に。

シュポア:子守歌/秘めた歌/目覚めよ
https://www.youtube.com/watch?v=xgVgoLDz2rw

posted by あひる★ぼんび at 22:41| Comment(15) | 音楽

2015年03月24日

タピオラ後のシベリウス

シベリウスは1925年に神秘的な「タピオラ」を発表した後、沈黙してしまった…と認識されている。しかしそれは、世間一般が彼に期待する大規模管弦楽曲を書かなくなったというだけで、作曲家としての筆を折ったわけではなかった。
件の8番目の交響曲の構想を常に意識しつつ、器楽小曲や過去作品の校訂に多くの時間を費やしていたということだ。
作品が減ったのは、戦乱と社会経済の悪化が、発表の可能性を激しく削いだことも大きかったはずだ。
さらに、大戦が終わり経済が復活の兆しを見せるようになった頃には、シベリウスが書くような「交響曲」はすっかり過去のものになってしまった。「古典への回帰」を主張するのでない限り、生み出すものがすでに過去の遺物と認識されてしまうことは、創造活動に携わる者にとっては最も怖れることだったはずだ。

なんとも怪しげなジャケットのアルバム。
内容はシベリウスが所属していたフリーメイソンの式典の為の音楽だ。
sibefree.jpgシベリウス:儀式のための音楽op.113(1927、1948)
       フィンランディア讃歌(男声合唱版)
       儀式のための音楽op.113(クーシスト編曲版)

1.開式讃歌/2.幸福な思い/3.行列と讃歌/4.行列とトリオ/
5.大地讃頌/6.サレム、前進せよ/7.個々の憧れのように/
8.兄弟愛への讃歌/9.賞讃歌/10.葬送行進曲/11.高き所の主よ
ハリ・ヴィータネン(Org) ハンヌ・ユルム(Tn)
マッティ・ヒュオッキ指揮YL男声合唱団
ミカ・ポホヨネン(Tn)ヤッコ・クーシスト指揮ラハティ交響楽団
(BIS スウェーデン輸入盤)



大半の曲は1927年完成初演の記録があり、第8曲と第9曲は1946年に追加作曲されている。
またそれらを含め1948年に改訂も施され、第1曲にはその時移調された異版が存在する。
全体に緩やかで穏健な音楽だ。このアルバムでは、最終曲のあと、有名なフィンランディア讃歌の歌詞違いが歌われ、さらにそのあと2007年にクーシストが編曲した管弦楽とテノール独唱による全曲演奏が収録されている。

この音楽が使われたフリーメイソンの儀式がどのようなものだったかは想像できないが、シベリウスはフィンランド・ロッジ(支部)が再結成された1922年に入団し、作曲とオルガン演奏などを務めていたようだ。
また、この団体の実像は全くわからないのだが、何世紀にもわたり多くの政治家・実業家・芸術家たちの心をとらえ続けた「心のよりどころ」「協同組合」として、何らかの魅力があったのだろう。
こういった関わりが、シベリウスの中にくすぶっていた神秘主義と内向性を増幅してしまった可能性は否めないが…少なくとも、この団体が陰謀をめぐらす「秘密結社」などという中2病をこじらせたような解釈はしないほうが良いと思う。知られているメンバーが、国際的な地位・名声・経済力を持つ顔ぶれだというのが、陰謀論が生まれるきっかけになっているだけのこと。
なにはともあれ、音楽は音楽として楽しむことが可能なのだから、まずは裏読みせずに聴くほうがよさそうだ。
シベリウスがタピオラの後に向かった方向は、ファンが望む道ではなかった。
だがきっと、それもまた「シベリウス」なのだ。



posted by あひる★ぼんび at 23:05| Comment(5) | 音楽

2015年03月03日

解決のない謎〜シベリウス空白の30年

今年はシベリウス生誕150年メモリアルイヤーだそうな。

シベリウスは交響曲第7番(1924)と交響詩「タピオラ」(1925)を完成したあと、大作から手をひき、1930年ごろまで小品をいくつか発表した後、1957年に亡くなるまで長い沈黙期間に入ってしまった。
この件については専門家による多くの書籍や研究があるので、ここに書けることはない。

シベリウスは常に程よい間隔で作品を発表し、しかもそれらはどれも「シベリウス」というブランドに恥じない高水準の音楽だった。
BISの作品全集を聴いての、感覚的な感想だが、1924年以降の作品にしても枯渇は感じない。
いくぶん凝縮しすぎて難解を越え、悟りの境地…という曲もあるものの、行き詰まりを思わせる閉塞感とは違うものばかりだ。
そんなこんなだから、シベリウスの愛好家たちはずっと「交響曲第8番」の存在を願い、探しているのだ。
シベリウス自身、「括弧つきでの話だが、何度も“完成”した。燃やしたことも1度ある」と語り、妻アイノも、暖炉でスコアを燃やす夫の姿を目撃しているのだから、期待は高まって当然だ。

では、あるのか?

多分、ない。
括弧つきでの「完成」は、おそらく彼の脳内で、だ。
交響曲は、一筆書きとは違う、何百というスケッチをまとめていく作業の末の「結論」なのだ。
人目に触れず、ひそかに完成にこぎつけることは不可能である。
破棄を決めた時、部分的に書いた分は文字通り燃やしてしまったに違いない。
また、第2次大戦の大波が彼を襲い、ナチズムの台頭が彼の意欲を削いだことは明白だ。
戦後は戦後で、音楽の質が大きく変わってしまったこともあるかもしれない。
若き日、フィンランドの独立運動や反体制派のプロパガンダに自分の音楽が利用され続けた経験を持つ彼にとって、大家となった立場から要求されることは見えていたのだろう。
時代の流れは、彼が沈黙するのに充分すぎたのだ。

sibe-un.jpg
シベリウス:知られざる作品集(未発表、新発見を含む)
 ヤッコ・クーシスト/ラウラ・ヴィクマン(ヴァイオリン)
 タネリ・トゥルネン(チェロ)フォルケ・グラスベック/
 ペテル・レンクヴィスト/ベングト・フォシュベリ(ピアノ)
 ヘレナ・ユントゥネン(ソプラノ)ドミナンテ合唱団 ラハティ交響楽団
 ガブリエル・スオヴァネン/ヨルマ・ヒュンニネン(バリトン)
 アンネゾフィー・フォン・オッター/モニカ・グロープ(メゾ)
 ロベルト・スンド/オッコ・カム/オスモ・ヴァンスカ(指揮)
(BIS スウェーデン輸入盤)

<収録曲>
1.フィンランドは目覚める(『フィンランディア』の原典版のひとつ)
2.交響詩『海の精』 Op.73(1914年エール版)
3.4つのフラグメント (1930-57)
4.行列聖歌 Op.113-6(管弦楽版) (1927/1938)
5.セレナータ JS169〜2つのヴァイオリンとチェロのための
6.劇付随音楽『トカゲ』 Op.8    7.連弾のためのアダージョ JS161
8.アンダンティーノ ニ長調 (1889)  9.即興曲 ロ短調 (1893頃)
10.アダージョ ホ長調 JS13     11.2つのイタリア民謡編曲 JS99
12.君に口づけしたい (1889-91)   13.来たれ恋人よ、来たれ JS211
14.思い (1915) JS192       15.フリードリンの愚行 JS84 (1917)
16.ヨナの航海 JS100 (1918)


このCDにはシベリウスの未発表、ないしはほとんど知られていない曲が集められている。
但し、特に1927年以降の作品を集めたものではない。興味ある方は同じBISの「作品全集」をお聴きください、というわけだ。
正直なところ、「交響曲第8番」のスケッチの一部では?と噂される断片と、2012年に公開されたわずか数分の小品3曲をリリースする口実に、その他雑多な作品を寄せ集めた感は否めない。
この「4つの断片」は1930年代前半のものと思われ、フィンランド国立図書館に所蔵の草稿をティモ・ヴィルタネンが解読して一応演奏可能な形にしたもの。
この20秒から1分の音列が、どれほどの意味を持つのかわからない。
シベリウスに特別な思い入れがなければただの「音合わせ」のようなものだ。
だが、こういう落書きやメモまで音にする熱意は、8番目の交響曲に対する夢と憧れそのものなのだろう。
この夢と憧れは、おそらく永久にそのままだ。
謎は解決することはないだろう。

この件関連以外の音楽は、あくまで愛好家向けの「落穂ひろい」状態の選曲なので、初心者が聴いても「???」になるばかりで、充実感や感動は少ないかもしれない。
あ、そもそもシベリウスに興味がなければ普通は手にしないか ^^;

posted by あひる★ぼんび at 23:31| Comment(6) | 音楽

2015年02月14日

私のリンゴの木〜MEYの歌声

ラインハルト・マイ(ラインハルト・フリートリヒ・ミヒャエル・マイReinhard Friedrich Michael Mey)は1942年生まれ、現在72歳のドイツのベテラン・シンガーソングライター。
東洋にまで伝播するような国際的なビッグヒットはないが、ヨーロッパでは社会風刺をこめた内容を歌う「リーダーマッハー(Lidermacher)」の第一人者として認識されている。ドイツ語圏ばかりでなく、フランスやベルギーでもフレデリック・メイの名で知られ、フランス語でのアルバムも多数リリースし、人気も安定している。
ギター弾き語りスタイルが基本で、たまに小規模なバンドが加わる。
楽曲は当然オリジナル中心。風刺の棘が歌詞にあっても曲想がドイツ民謡やリートの伝統をそのまま引き継いだような温度感なので、イデオロギー抜きに音楽として楽しむこともできる。歌い方はきわめて素朴で、決して声を張るようなことはないが、明晰な発音とカチッと譜面に合致しそうな正確な音程が「いかにもドイツ」感があって、それがかえって心地よいのだ。
日本で知名度が低いのは、その音楽性や風刺性のためだけではないだろう。
日本のショップではジャンル分けがなぜか「イージーリスニング」なのだ。これが「ポップス・ロック・フォーク」か、せめて「ワールド・トラッド」あたりなら手にする人も増えたはずだ。その辺の奇妙な扱いはオーストリアのウド・ユルゲンスやペーター・アレキサンダーとも共通している。
英米>>西>仏伊>>独という感覚がどこから出来上がったものなのか、また、これがクラシックだと真逆になるというのも不思議なことだ。
ピート・シーガーが、あるいはジョン・レノンが、ボブ・ディランが、その歌詞のメッセージ性からも常に話題性と人気があるのに比べると、供給段階からハードルが設けられていることには理不尽を感じないでもない。まあ、日本のポップスが外国ではほとんど聴かれないことと何ら変わりがないといえばそれまでだが。

mey-aph.jpg私のリンゴの木(1989)
 (私のリンゴの木/ひと時も休まず/若者たち/
 証言/子ども時代の写真/父の夜の歌/ルル/
 3歳の誕生日/私の息子は/良いものは全て/
 最初の1時間/そして初めから/すべて順調/
 私は疑う/夕暮れのベッドで/小さな仲間)
ラインハルト・マイ(歌・ギター・作詞作曲)
(INTERCORD ドイツ輸入盤)



小児ガン救済のためのチャリティーとして企画された、家族や子どもにかかわる内容の歌を集めたコンピレーションアルバム。十万枚以上を売り上げたヒットアルバムだという。最近また再販売されたようだ。
温かく、やさしい雰囲気の歌で構成されているうえ、80年代前半までの楽曲が多いので、声も若々しく、とても聴きやすい。これからマイを聴いてみよう!または、1枚くらいは持っていたいな、という人にはうってつけのアルバムだと思う。
アルバムのコンセプト上、当然、ダークサイドは見せようもないが、明るさの中の微妙な翳りはいい味になっている。
マイの歌の特徴と言えば、驚くほど長い歌詞だろう。それを淡いメロディーにのせた時の言葉が生み出すリズム感が心地よい。テキストはしっかりブックレットに掲載されている。ドイツ語は単語同士が結構気まぐれに合成されてしまうので、こういう「現代詩」を作者の意図をくんで訳すのは簡単ではないが、鑑賞の参考にはなるはずだ。

"Mein Apfelbäumchen"「私のリンゴの木」
"Keine ruhige Minute"「ひと時も休まず」

https://www.youtube.com/watch?v=fSw9bCdERzQ

posted by あひる★ぼんび at 23:55| Comment(0) | 音楽

2015年02月07日

ランスロの命日に

ジャック・ランスロはフランスのクラリネット奏者で、1920年に生まれ、2009年2月7日に88歳で亡くなっている。丁度、今日が命日ということになる。それで思い立って記事にしてみたわけだ。
ランスロはオーケストラと吹奏楽団双方で活躍し、教育者としても多くの弟子を持ち、教本も出版した。
演奏評では「独特のスタイル」と書かれることがあったが、特別奇妙な表現をするとか、聴きなれない音を出すとかではなく、むしろその逆で、曲が派手に盛り上がろうと、当人は大変に冷静で落ち着いた演奏をしていた印象がある。ただ、特徴といえば、リードの振動がヴィブラートとして聴き手に直接伝わるような瞬間があることだろうか。しかしそれは楽曲の解釈の中で生まれてくるもので、全体を通して明快で大きめの音、細かな音も決してごまかさない誠実さ、そういった演奏から、いつもランスロの「クラリネット愛」を強く感じたものだ。

彼の多数の録音の中から、少々古いアルバムの紹介。
lan-mb.jpg

モーツァルト:クラリネット五重奏曲k581
ブラームス:クラリネット五重奏曲op115


ジャック・ランスロ(クラリネット)
バルヒェット弦楽四重奏団・ミュンヘン弦楽四重奏団
(エラート・ワーナー 国内盤)



紙ジャケ盤をシュリンクのままスキャニングしたので、画像にフィルムの波が出てるのはご勘弁^^;
ここに収録しているのはクラリネットを伴う五重奏曲で、モーツァルトは1789年、ブラームスは1894年、どちらもそれぞれの晩年に書かれた作品だ。
特にモーツァルトのこの曲は、今風オタク表現では「神曲」と呼ばれるほどの人気曲で、温かく大らかな表情が、かえって聴き手の感情に複雑な哀しみをもたらす。
また、ブラームスのほうは諦念と哀愁と、残照の様な情熱が交錯する大規模な曲で、これも愛好者が特に多い作品だ。
したがって、録音物のリリースは数えきれないほど存在している。

ランスロの音色は、先に書いた特色からも想像つく通り、ブラームスよりモーツァルトに適性を感じた。
もちろんブラームスも良いのだが、もっと熱っぽさと「もがき」つまり生への執着の様なもの…が欲しいと思ってしまった。
曇り空の風景ではなく、青い冬空、冷たい風、鮮やかに色づいた落ち葉に彩られた公園の小道。
モーツァルトのほうは、暖炉の温かさと、抜けるような青空の哀しみである。
この演奏を最初に聴いたのは中学時代最後の頃だったが、印象も聴いての感覚もあの頃と変わっていない気がした。それほどに、心の奥底に響く演奏だったということだろう。
どちらも四重奏団はドイツの団体で、お国柄か、カチッとした演奏だ。フランス流儀のランスロとはどうなんだ?と心配は無用。楽譜という共通言語の上で、違和感どころか不思議な化学反応がおきている。
録音は1959年、1965年。適度に角のとれた聴きやすい音で録れている。
楽曲・演奏とも、今更言うこと無い名盤のひとつ。
クラリネットに生涯を捧げた芸術家ランスロを偲びつつ、暖かな部屋で静かに音楽に浸るのに最適な1枚だ。
posted by あひる★ぼんび at 23:25| Comment(0) | 音楽

2015年01月30日

小さなバラの園ふたたび

先日記事にした「小さなバラの園」にはこんな録音もある。
be-rose.jpg

イェーデ:「小さなバラの園」(28曲)

  ディルク・ショルテマイアー(バリトン)
  ジークフリート・ベーレント(ギター&編曲)
(thorofon ドイツ輸入盤)





夕べの歌/野の柵/ヘッケルリンク/喪失/毒草/冬/どちらにしても/羊飼いの歌/バラの園/
哀れな罪人/遠くの星/夢/時間切れ/弱点/断絶/リューネブルクの荒野/ワタリガラス/墓/
狩人の嫉妬/森の中/背信/鬼火/最高のゲーム/トガリネズミ/忌むべき‘7’/小夜鳥/
麗しき狩猟/雪の中のバラ

1988年の録音。
伴奏は、プライとの録音にも参加していたジークフリート・ベーレントのギターのみ。
編曲もベーレントが担当している。
歌っているのはディルク・ショルテマイアー。バロックオペラや宗教曲の録音で時々見かける名前だ。だが、ソロアルバムを聴くのは初めてだった。明るく柔らかいバリトンで、端正な歌唱だ。リーフには「ゲザンク」とだけあり、声域を明記していないのは、この曲集の位置づけ故なのだと思う。
伴奏楽器がシンプルになることで、全体に一段と古風な素朴さが生まれている。それは「美しき水車小屋の娘」などのギター伴奏版に通じる世界…というより、それより100年過去のリュート・ソングのエコーが聴き取れる。ショルテマイアーは過剰な表情付けはいっさいせずに、淡々と歌っているが、伴奏の音量が小さい分、わずかな息遣いが曲想に反映している。また、ベーレントの編曲はいわゆる「一般的なクラシックギターの奏法」を遵守している。よって、フォルテ方向の刺激は皆無だし、フラメンコのようにかき鳴らすこともなく、特殊な技巧も全く用意していない。ひたすら淡々と穏やかに音を紡ぎ、声に寄り添うように、この歌の世界を丁寧に描き出している。
曲間がたっぷりとってあるのはベーレントの指示だろうか。ギタリストが大切にするはじめの呼吸と終わりの余韻がしっかりと味わえる。
プライ盤より多い28曲を収録している。同一色の伴奏で聴き続けるのはきつく感じないでもないが…考えてみれば別に通して聴かねばならない義務はないのだ…その時の事情と好みに合わせて選んで聴くのもいいだろう。
歌詞の内容はプライの記事に書いた通り、レーンス(フランス没なので「ロン」と読むほうがいいのかな?)の詩は、一見、失恋の痛みを綿々と歌っているだけの内容と思いきや、宗教と哲学の伏線の張り巡らされた独特の比喩が目立つものだ。(題名すら正しく訳すのは難しいし・・・)その少々世紀末的破滅感に反して、音楽そのものは早春の陽だまりの様な色合いであり、「翻訳」ではなく気分で「日本語作詩」をして、歌って楽しむこともできるだろう。音楽教育家の作品らしい明快な曲調は、かつて日本が西洋音楽を導入した頃のように自由な歌詞をつけることも難しくなさそうだと思った。
このCDにはテキストはついていない。詩集自体は全文がネットで読める(ただしドイツ語)ので、興味のある方は利用すると良いと思う。
内容がわかると曲の印象が大きく変わるこの曲集、バラの園は確かに小さいかもしれないが、楽しみ方はいくつも待っている。散歩の仕方は聴く人それぞれが考えればよいわけだ。

posted by あひる★ぼんび at 23:06| Comment(0) | 音楽

2015年01月29日

タピオラの地から〜クーラとハコラの作品集

トイヴォ・クーラ(1883−1918)はフィンランド・オストロボスニア地方に生まれた作曲家・指揮者。
シベリウスの最初の弟子で、その後ライプツィヒとパリにも留学していて、フランクやドビュッシーなど、当時のフランス音楽の影響も受けている。

第1次世界大戦後、1917年初頭のロシア革命は思想的な飛び火を起こし、政情不安定だったフィンランドはさらに大きく揺れた。自己の財産保守が目的で、土地持ち大農家・資産家はドイツ帝国・スウェーデン義勇軍と結んで白衛軍を作り、小作農・労働者達は革命の名の下に前年に樹立したばかりのソビエトの支援で赤衛軍を組織し睨みあい状態になった。1917年の議会対立に始まり、1918年1月ついに武力衝突、フィンランド主要都市を巻き込む激戦となってしまった。結果的には白衛軍勝利だった。
クーラは終戦直後の宴席で、喧嘩で銃により殺害されてしまう。
35歳、作曲家として、これからという時の悲劇だった。

その生涯が大戦と内戦の時期とかぶってしまったこともあり、クーラにはこの時代にありがちな大規模な(あるいは肥大した)作品がない。数曲の管弦楽曲、5曲の舞台付随音楽、合唱付き管弦楽曲、室内楽など、一通り取り組んだが、声楽曲・合唱曲のジャンルに特に目立つ作品を残している。 交響曲は序奏部分のみ手がけたようだが、おそらくは集中して取り組むことができなかったのだろう。 多くの曲でオストロボスニアの民謡素材を用い、しみじみとした哀愁のメロディーが印象深い。

kuula1.jpg「森の若者」〜クーラ&ハコラ作品集
クーラ:12の南ポホヤンマー民謡 op17b(ハコラ編)

(村を歩けば/それを言うな/深き土中で泣け/長い悲しみ/
父の家は貧しく/若者達はさまよい/向こうの家を探る/
ハウタラのヘイッキ/風が白樺を揺らし/ケトラのユッカ/
指輪を取ってこい/私は幸せ者と思われている)
    2つの小品op16b(ランタ編)
    海の讃歌op11-2(ヘラスヴオ編)
    結婚行進曲op3b-2(ナイッキ編)
ハコラ:キヴィの詩による7つの歌

(狩人の歌/幸せ者/日曜日/リスの歌/夢/私には美しい恋人がいた/わが心の歌)
ヨルマ・ヒュンニネン(バリトン)
ユハ・カンガス(指揮)オストロボスニア室内管弦楽団
(ALBA SACD フィンランド輸入盤)


「12の南ポホヤンマー民謡 」は1909年、クーラのパリ留学時代の作品。オストロボスニア南部の民謡舞曲12曲を、旋律線と構成を整え、伴奏をつけて演奏会用にまとめたもの。極端なホームシックに陥ったことから生まれたものらしい。ジャンルは違うが、いわばドヴォルザークの「新世界より」と同じ心持ちだったのだろう。どの曲も哀しく寂しいメロディを持ち、緑と青をイメージさせる音楽だ。 このアルバムの後半曲の作曲家、キンモ・ハコラによる、「バリトン、ハープと弦楽合奏」という編曲になっている。
この素朴な哀しげな民謡集のほか、「2つの小品」と「海の讃歌」、彼の作品では飛びぬけて有名な「結婚行進曲」も弦楽合奏編曲で収録している。
後半はキンモ・ハコラ(1958−)の「キヴィの詩による7つの歌」
ハコラは現在活躍中の作曲家だ。この曲は幾分普段の作風とは異なってはいるが、民謡素材ということで、ここではクーラのスタイルに寄り添って、こちらも同一編成、同一色にしたのだろう。ただし、後半数曲で彼なりの個性が、我慢しきれなくなった感じで滲み出しているのが面白い。
独唱はベテラン歌手ヒュンニネン。北欧人らしい硬質だが朗々と響く声のバリトンで、感情に溺れずに隅々まで丁寧に歌っている。もたれるような部分がなく、暗い曲にもかかわらず、聴感がとても爽やかだ。録音も多く、知る人ぞ知る名歌手だが、来日時もインタヴューと歌唱双方の誠実さで、さらに多くのファンを獲得したようだ。
伴奏はカンガス指揮のオストロボスニア室内管。ツボを心得ているというか、もはや「これでなければ!」というテンポと見事な間合い。故郷の音楽の強みだろう。
カンガスはこのオーケストラと共に実に多くの北欧作品を録音していて、それは決して他では聴くことのできない宝石のような作品ばかりである。また、このALBAレーベルはSACDという高音質フォーマットを採用してくれているのがありがたい。特にサラウンドを強調することはないが、澄んだ空気感そのままの音で楽しめる。
posted by あひる★ぼんび at 23:47| Comment(0) | 音楽

2015年01月22日

終わりなき歌〜ヴァスクスの音楽H

ここにヴァスクスのことを書くのは久しぶりになる。
聴いてなかったわけでもないし、そこそこCDも購入してはいたが、この種の音楽は記事を書く切り口が難しいので、結果こうなる^^;

ヴァスクスはここ30年ほど、作品の動機にラトヴィアの民謡素材を積極的にとりあげるようになった。
この民謡素材は大抵5音音階の為、日本人はそこに「和」を感じる。
関係ないはずなのに、親しみやすさや、懐かしさまで感じたりもするだろう。
つまり、ヴァスクスの近作はどの曲も、いわゆる「前衛」ではない。民族的テイストの親しげな表情ではあるが、やはり「ゲンオン」。どの曲にも詳細なプログラムとコメントが作曲者自身によってなされているが、それでも本人でなければわからないことが多すぎる。まして、英語やドイツ語の解説を読むことを厭えば、全く持って意味不明なものもある。かくも、理屈が勝ったジャンルであることには違いない。

ということで、感覚的な感想だけを書くとしよう。今回の紹介はこれ。
vasks34c.jpg

ヴァスクス:
エピソードと終わりなき歌
四重奏曲

トリオ・パルナソス
アフリ・レフィタン(ヴィオラ)
(MDG ドイツ輸入盤)




まず「エピソードと終わりなき歌」。ピアノ・ヴァイオリン・チェロによる29分の三重奏曲。
以前も書いたが、題名は重要だ。このような現代音楽においては、題名と副題が聴き手の勝手な理解と補完能力で、無意味な音列すら感情を持つほどの威力を発揮するのだ。
この曲は恒例のかすかな導入音のあと提示される短い民謡風主題を変奏する形をとっている。
いや、変奏というより拡張に近い。現代的な特殊奏法がふんだんに取り入れられてはいるが、主題そのものが綿密に展開され複雑化しているわけではない。故に、流れをつかんでしまえば意外と聴きやすい。
淡々としているだけではなく、感情の爆発も用意されているので、変化もあって楽しめるだろう。
ただこの爆発、方法があまりに「さもあらん」なので気恥ずかしくなる聴き手もいるかもしれない。
複雑な音のアラベスクの密度が飽和し、ついに鍵盤をぶっ叩いて轟音!そのあとの静寂の後、綿々と悲歌が奏でられる…。急テンポの後は緩テンポ、強奏のあとには必ず弱音と静寂が来る、わかりやすさこの上ない構成だ。
この作品はヴァスクス自身が広く世界にアピールしようと書いたものではなく、尊敬するメシアンへのオマージュとして発表した「思い」から出発した曲だ。にもかかわらず、作曲から30年たった現在、演奏会にとりあげられる機会も多く、レコーディングも多数存在する「人気曲」になっている。
一種、気負いの無さが聴きやすさか。音を素直に楽しむことが可能な、静かで落ち着いた環境で聴けば、とても良い曲だと思う。賑やかな場所や「ながら聴き」では、環境音に完全に紛れてしまう。ヴァスクスの室内楽はそんなタイプの曲が多いので注意が必要だ。

音楽の世界は、20世紀中盤までは「独創性の追及=習慣の破壊」という流れが当然のようにあった。
しかし、しばらくすると結局は「破壊もまた類型」というマンネリに陥って、全体が苦悩と危機の時代に突入する。その後、調性音楽に回帰する作曲家が増え、また民族性の再導入を試み、それらがもつ独特の音階や、微分音、特異な音色、そういった部分からアプローチする者も増えてきた。
2曲目の「四重奏曲」は、21世紀に入ってから書かれたもので、そういった方向性の中の作品だ。
ピアノ・ヴァイオリン・ヴィオラ・チェロによる36分の作品。
部分的にはかなり自由だが、一定の規則に従ったリズムや整った調性に音楽の各所を引き戻している。
感情の起伏が大胆で明確だ。
コダーイやバルトークの舞曲を思わせる「ダンス」をはじめ、各楽章変化に富んでいる。
喚き踊り嘆く各楽器に、民謡風のメロディや和声が気まぐれに現われては消え、鳥のさえずりの様な軋みを響かせ続ける。こういったフレーズのひとつひとつは、「ゲンオン」にありがちのありふれた音列だが、曲として構成された時、唯一無二の個性を発揮し「音の絵画」を作り上げている。

演奏は両曲とも、自信に満ちたしっかりしたもの。ヴァスクス自身が立会っているので、おそらく細かい指示とディスカッションが行われた成果なのだろう。両曲とも楽器の音量バランスが難しくなりそうだが、それも作曲者の承認済みの音で収録したものと思われる。
このアルバムは、SACDと通常CDが出ている。現在は国内ショップでは入手が難しくなっているようだが、潜在的な在庫は結構あると思う。

posted by あひる★ぼんび at 23:28| Comment(0) | 音楽