2018年07月05日

指揮者ディ−スカウ

ディースカウは1970年代に入るとぼちぼちと指揮をはじめ、80年代までは結構な量の活動を展開している。
しかし、その評価の方はあまり褒められたものではなかったようだ。
実際の出来以前に、片手間にちょっとかじっただけで「指揮者」になれるはずがない、
なめるんじゃない!といった、クラシック音楽愛好家なら誰でも考える当然の批判が多かった。
団員からは「こんな退屈な時間ははやく終わってほしい」と暴言を言われ、
デヴュー演奏会に招待したクレンペラーには「すまないね。その日はショルティが歌う冬の旅を聴きにいくので」などと皮肉られたりもした。
プライはディースカウのこの件について問われると「私はやりません。指揮は歌手の仕事ではありませんよ。私はずっと歌手でいたいのです」と、はっきり否定した。
…そんなふうに世間から軽視され、冷たくあしらわれてしまうことは予測できただろうに、ディースカウはなぜ手をだしたのだろう。
芸術に対する征服欲と、ステイタス的に自分のプライドを満たすため?
戦争で専門教育を中断され、独学と才能で勝負するしかなかった彼の、一種の学歴コンプレックスの裏返し?
真意は不明である。
ただ、彼の、常に文献を読み解いて、哲学を見出そうと考える姿勢が、オーケストラスコアを見るうちに湧き出したのだろう。
彼としては自然な成り行きだったのかもしれない、とは思えた。

さて、このレコード。
dis-schum.jpg
シューマン:
交響曲第3番「ライン」変ホ長調op.97
マンフレッド序曲op115

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(指揮)
バンベルク交響楽団
(BASF LP 西ドイツ輸入盤)



シューマンの交響曲は、垢抜けないオーケストレーションの為に少々評価が煮え切らない現状がある。
誰がやっても感動が約束されている「名曲」ではなく、なぜこの選曲だったのだろうか?とも思う。
実際聴いてみた結果は、とても「普通」だった。聴こえてきたのはあくまで「ローカルオーケストラの素朴なシューマン演奏」であり、すっきりとしている。
曲はいたって素直に流れ、何らかの仕掛けを期待しても叶わず、何事もなく終わってしまった。
リートの時のようなポルタメントの付加も特になく、テンポもやダイナミクスも堅実だ。
とても聴きやすい、シューマンの交響曲としては爽やかに響いている演奏だと思う。
ただ、残念ながら、「あの」ディースカウが指揮した、ということでなければ、特別な存在意義が見えてこないもののような気もするのだ。
まるで若手指揮者のような初々しさと、ベテランオケに遠慮している微妙な感じも並列している。
「私は歌手以前に芸術家です」という彼の中では、これも芸術家としての正当な表現手段だったのだ、とは思う。

そういえば、ディースカウが歌うシューマンを聴くたびに感じたことは、彼の歌い方が夢想瞑想を拒絶する厳しさを持ってしまっていて、それがシューマンの気質とはずれているのでは?ということだった。
彼は男声で歌えるものは全て歌ってしまったわけだが、メロディを甘美に歌い上げるのではなく、あくまでも言葉を立てていた。
彼はポルタメントを多用してレガートに歌う癖があったが、それにもかかわらずメロディが極めて冷静に響く。
それはディースカウで最初に聴いた曲なら違和感はないが、プライやシュライアーで聴きなれた曲は耳にキツく感じ、たとえ、それが世の評論家達から高評価だったとしても、自分は受け入れがたいものだった。
彼が録音した主要作曲家の全集は一通り聴いた。
共通して感じたのはそれぞれの作曲家の個性よりディースカウの個性だった。そして「歌心」ではなく「芸術感」と「哲学」。それらは、好きになれずともやはり一種の指針ではあったのは確かだ。

この録音は1976年前後のものだが、この後も15年程、ディースカウは歌手業と指揮者業を続けた。
彼の周囲にそれを強く否定し、忠告する人はいなかったのだろうか。
悪くはない、が、その程度の仕上がりで良しとするなら、世紀の大歌手としての偉業を残そうという大芸術家が、まだまだ充分歌える年齢でやることではないと思った。
爽やかに流れるこの演奏を聴きながら、そんな微妙な気持ちにさせられたのだった。

posted by あひる★ぼんび at 23:28| Comment(7) | 音楽
この記事へのコメント
こんばんは。。

プライさんの水車小屋の前に、先にこちらにコメントを・・・。
私はずっと、ディースカウという人には歌手より指揮者があっているのではないかと思ってきました。
彼の学術的なアプローチは、一番直情的に訴える声楽より気質的にあっているのではないか、と。
実際に指揮するとまた違うのですね。。
オケをほとんど聞かないので、指揮の世界の詳しいことはよく分からないでいます。
お恥ずかしい話ですが(^^;

私もシューマンの甘い曲に、プライさんの甘い声とロマンチックな歌いぶりは、とてもよくあっていると思っているのですが、あるとき手に入れた1970年代の音楽雑誌に「歌謡性のあるシューベルトならいいが、シューマンとなると、もっとディースカウのように言葉に切り込まないといけない」と書いてあって、憤慨した記憶があります。
私が自分でお金を出して買ったプライさんの演奏(CDやレコード)が、素晴らしいと思えたらそれでいいだけの事。
音楽の聞き方まで他人に指図されたくないわ、と思ったものです(それならば、そんな批評を見なければいいんですが、見ちゃんですよね、ついつい(笑))

それらしいこと書いておかないと仕事にならないし、野球もですが、評論家って言い逃げピンだし、専門家(のはず)なのに素人よりピントがずれていたりする事がありますね(最近、特に野球でそれを感じています。何かに忖度しているな、と)。
色々ありますね。。。
Posted by 真子 at 2018年07月06日 20:53
こんばんは。

そうですね。ディースカウの性格を考えると、最初から研鑽を積んだら一流の指揮者になれたかもしれません。
この盤の演奏も決して悪いものではないです。
ただ、やはり、指揮というものをを甘く見てるのではないでしょうか。
だからクレンペラーも冷たかった(ディースカウをフィースカウ(腐敗臭)とわざと間違えて呼んだりもしたとか^^;)
シュライアーもキャリア後半、指揮をやりましたが、彼は最初から教会音楽の指揮の勉強をしていました。ホセ・クーラは声楽と平行して専門に勉強しています。ドミンゴもやってますね。それぞれ賛否がわかれてますが、彼らは声楽作品中心なので、ツボを心得ている感じでした。
ディースカウは分析が深く、考察が鋭く、バランス感覚も巧み。ただ、オーケストラ指揮者として多分重要な100名の楽員をまとめる人心掌握能力を欠いていた。それは短期間では得られません。

確かにシューマンのリートには詩の分析が欠かせない。シューマンはやがて詩をメロディーに乗せるのももどかしく、伴奏付朗読(メロドラマ)に行き着いています。だからといって、歌の年1840年作品は耽美的な幻想、甘くロマンティックなアプローチが必要だと思います。なにしろ、あれはクララへのラブレターだと思います。

評論家はすべて「何か」「誰か」に忖度するものですね。仕事的には学問や芸術ではなく「商売」です。依頼主の意図に沿うことが重要だったわけです。

Posted by あひる★ぼんび at 2018年07月07日 01:03
こんばんは。

私の知らない指揮の事を詳しく教えて下さって、ありがとうございます(^^)
あひる★ぼんびさんは、本当に広く深くご存知ですね。

そして、今日はプライさんのお誕生日ですね。没後20年経ってもこうして彼の事を語り合う方がいらっしゃる事に感謝です。
Posted by 真子 at 2018年07月11日 18:39
こんばんは。

こちらこそ、いつもコメントありがとうございます。

そうですね。プライの誕生日、そして間もなく命日もやってきます。
今年は何のメモリアル盤のリリースもなさそうですね。
残念です。
Posted by あひる★ぼんび at 2018年07月11日 22:41
こんにちは。

来年の生誕90年には、何か発売して欲しいですね😢
ザルツブルクのライブ、boxで出ないかなあ。世間ではヒストリカルかもしれないけど、私達にはまだ生きているような存在の人ですものね。未聴の音源に出会いたいです。
Posted by 真子 at 2018年07月12日 14:19
こんばんは。

そうですね。あと、バートウラッハのコンサート記録(ほぼすべて残されているはずです)、NHKアーカイヴに残された映像、そして、ZDF、BR、SWR各放送局に残されたTV番組・オペラ映画など、無尽蔵にありそうです^^
Posted by あひる★ぼんび at 2018年07月12日 23:11
こんばんは。
本当にそうですね。
プライさんのような歌手(あの美声も含めて!)は、もう出てこないで
しょうね。
それだけに、貴重な記録の数々は後世に遺すべきだし、単純に聴きたいです!
全部出して欲しいです‼
Posted by 真子 at 2018年07月13日 22:14
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