2017年11月24日

北欧のジャポニズム作品

19世紀末、日本が開国し、一気に大陸に押し出したことで、世界中がこの「独特な文化を持つ小国」に注目した。
それまでトルコやイスラム圏、インド、中国を題材にしたオリエンタリズム作品は数多かったが、その「火」に油を注ぐ感じで、多くの芸術家がこの異形文化を作品に反映させようとした。
クラシック音楽のオペラの有名どころではサリバンの「ミカド」、プッチーニの「蝶々夫人」、マスカーニの「イリス」等があり、それらからは「外国人から見た日本のイメージ」をうかがうことが出来て興味深い。
まあ、いい加減な思い込み、偏見と誤解のオンパレードなのだが、不思議と「憧れ」が散りばめられていてそんなに嫌な感じはしない。

フィンランドの作曲家、レヴィ・マデトヤ(1887〜1947)はその流行の波に少し遅れて、1927年に「オコン・フオコ」というバレエ・パントマイムを発表する。
彼は中央ヨーロッパ旅行中にたまたまこの脚本に出会ったようだ。
この作品のあらすじとしては「コッペリア」の舞台を日本に置き換えたものと思えばわかりやすい。

人形師オコンフオコは自分の理想の女性像を反映した人形ウメガワを造る。
この人形に全霊を込めたためか、とある嵐の夜、そこに「魂」が宿り、人形は息づき始める。
やがてウメガワはオコンを誘惑するようになり、オコンもすっかり魅せられてしまう。
そうなると穏やかではないのはオコンの妻イアイ。
奇妙な三角関係となり、いざこざが起こる。
騒動を聞きつけた友人たちがオコンのもとを訪れると、過ちを悔いたオコンはすでに自刃しており、狂気に堕ちた妻イアイがウメガワを切り刻んでいるところだった…

組曲版はいくつか録音があるようだが、全曲となるとこれだけか。
okon.jpg
マデトヤ:
バレエパントマイム「オコン・フオコ」op.58(全曲)

ヘレナ・ユントゥネン(Sop)
トゥオマス・カタヤラ(Ten)
オウル交響楽団 オウル室内Cho
アルヴォ・ヴォルメル(指揮)
(ALBA フィンランド輸入盤)



主役名の「オコン・フオコ」は日本的に思える音を羅列しただけで、特別な意味はなく、対応する漢字もないらしい。
「ウメガワ」は近松の人形浄瑠の登場人物「遊女梅川」からだろうか。
「イアイ」は居合という言葉からの着想だろうか。
楽曲は短い曲の集合体で、ソプラノ・テノール・合唱・管弦楽による80分近い大規模なものになっている。
マデトヤはそれほど強い個性的なサウンドを提示する作曲家ではないので、全体的には少し聴きなれない音を導入した「地味な大曲」。
音響的には「いつものシベリウス人脈のもの」なのだが、時代を反映したのか、音の並びに不自然な跳躍がある。
この時代の北欧管弦楽曲として聴けば、問題なく楽しめる。
特にシベリウス的な音が好きならばマデトヤは決して期待を裏切らないだろう。

マデトヤの日本に対する認識はせいぜい「日露戦争でロシアに勝った小国」「第一次大戦に便乗して南洋のドイツ領をせしめた国」程度だったはずだ。
日本と、中国・韓国の文化の違いなど、理解していないようだ。
この曲も妙なところで銅鑼が鳴ったり、シロフォンなどの扱いがまるで日本的ではない。
日本人だってフィンランドとスウェーデンとノルウェーの文化の違いを語れる人なんてほとんどいないだろう。それと同じなのだ。
ハラキリという題の曲があったり、ゲイシャも出てきたりと、なにやら「日本らしきもの」のステレオタイプをちりばめただけの脚本にそのまま附曲したようで、文化的な考証不足で日本人からしたら支離滅裂、外国人には深い理解は不能…その辺の弱さがこの曲を舞台での実演から遠ざけているようにも思えた。
この作品の少し前にドイツのオルフが書いた日本題材のオペラ「犠牲」では、理不尽な武家の美徳(君主の為に自らの息子の首を差し出す)を描いていた。「正しい道徳とされるものが最も悪魔的な結果を生む」という展開は日本人にはさほど抵抗がなくても、西洋人には何よりショッキングかもしれない。
彼等には日本は常に不思議の国。その不思議さが創作意欲を掻き立てるのは確かではあるのだが。

posted by あひる★ぼんび at 23:33| Comment(0) | 音楽
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]