2020年04月04日

プライ晩年「水車小屋」ギター新編曲の試み

19世紀始め、対ナポレオン戦争後の反動期。文化芸術活動の社会的な制約は凄まじいものがあったようだが、それでも市民階級のエネルギーは充実しはじめていた。フォン・ヴェーバーやシュポア、そしてシューベルトのリートの数々は中流市民階級の「社交場の気楽な音楽」として、ギター伴奏でも楽しまれていた。
ピアノに比べ音量のないギターは歌手側にも負担は小さく、伴奏・歌唱、双方それなりの難易度調整が容易だったのだろう。
そういった多くの編曲は出版されることなく、あるいは正確に記譜すらされずに消費・消滅したようだが、いくつかは現在も聴くことができる。
プライは、「ギター・リート」については、70年代のフィリップスリートエディションではジルヒャーのみとりあげている。
彼は、「ギター・リート」が、ビーダーマイヤ―時代の流行やシューベルト音楽の受容を考えるうえで重要であると捉えていた。
しかし、現代人が音楽ホールのコンサートで聴くのに適しているかは別問題だとわかってもいた。
ピアノの深い表現力に比べ、ギターはあまりに貧弱だった。
音符を音価通りにただ弾いたのでは、ピアノリートの芸術性には届きようもない。
プライはしばらくこのスタイルに手を出さなかった。
80年代になると、シュライアーが名ギタリスト・ラスゴニックと、エレクトローラに「美しき水車小屋の娘」全曲、アルヒーフにフォン・ウェーバー、カプリッチョにロマン派リート集…と、ギター・リートを数多く録音しはじめる。
他の歌手もコンサートでとりあげることがあり、プライは目ぼしいものは聴いていたようだ。

1994年、プライはギタリストベンジャミン・ヴァデリィとニューヨークで邂逅、新しい意欲に目覚めることになる。
それはまさに「シューベルトのリートをビーダーマイアー時代の流行スタイルでステージに上げること」だった。
ギタリスト・ヴァデリィの覚書によると、プライとの最初の出会いの時、とりあえず持って行った3曲「野ばら」「夜曲」「漁夫」を初見で合わせ、最初の2曲をすぐに気に入った様子だった。しかし「漁夫」は「フラメンコ風」に再編曲することを希望したという。
「私はピート・タウンゼント(元ザ・フーのロックギタリスト)と共演している君のステージに感銘をうけたんだ。ぜひああいうスタンスでシューベルトをやってほしい。世の評論家が色々言ってくる?そんなことは君は気にしないでいいよ。」
こうして、95年のニューヨークのシューベルティアーデで共演し、高評価を得ている。

1997年、「美しき水車小屋の娘」のギター版をバートウラッハのステージに上げる計画を立てた。
そのプロジェクトの練習時、一般的に入手できる楽譜で歌い始めたプライは10曲目まで極めて上機嫌だった。
ところが11曲目で急に「×××」←ロックミュージシャンが言いそうなかなり汚い罵りのあと、歌うのをやめたという。
ピアノパートをできるだけ忠実にギターに移植した場合、中央のキイを動かすと、ピアノでは可能でもギターではできないことが多い。厚みを得るためにギターの中低音を多用すると、圧倒的に音域が不足し、上げると軽くなりすぎる。高声よりに書かれたオリジナルゆえの不整合。この曲でそれが顕わになったのだという。
すぐに楽譜を探し、試行錯誤の編曲作業が始まった。
この版はバートウラッハで初演され、大成功だったという。
Ben&Prey.jpg
ヴァデリィの話では、バートウラッハで印象的だったのは、プライはステージに上がる直前に「またあとで会いましょう」と言ったのだそうだ。
これから共演するのに何故?と思ったが、すぐに理解した。
プライはステージに踏み出した瞬間から粉ひき職人になっていて、最後の拍手の後に「やっと戻ってきた」。
そして最後に「何て素晴らしい旅だった」の一言…。
こういったプライの音楽に対するストイックな情熱、ステージでの「憑依」に大きな衝撃を受けたという。

プライは、この版をより磨き歌いこみ、自然なものにすることや、オケ版「冬の旅」のワールドツアー、そしてオケ版「白鳥の歌」の構想を実行に移すことなど、いくつものプランを練っていたという。
しかし、圧倒的に時間が足りなかった。
最後の一連のプロジェクトのひとつだったこの演奏、録音か映像が必ず残されいると思われる。
できることなら、視聴してみたいものだ。

posted by あひる★ぼんび at 22:43| Comment(6) | プライ