2019年07月11日

プライ生誕90年。栄光のミサ。

今年はヘルマン・プライの生誕90年メモリアル。
しかし、大きな動きは見えていない。残念に思う。

1929年、ベルリン。ヘルマン・オスカル・カール・ブルーノ・プライは生まれた。
世界大恐慌からナチス台頭に至るヨーロッパ激動期だった。
決して名家出身ではなかったが、ビスマルクを信奉する強い個性と意思を持った父親と、代々築かれたプライ家の経済力の豊かさで、安定した幼少年期を過ごすことができた。
息子を「ビスマルクの出身校」にとにかく入れたかった父親は、プロテスタントの全寮制ギムナジウムに入学させている。プライ家の宗派は、特に自伝には明記されていないが、この「入学」をめぐる書き方が、本来の家柄はカトリックだったのかもしれないと思わせた。
また、通常、商家であれば、子の進路はギムナジウムではなくハウプトシューレ(実業学校)を選択する。屠殺精肉業は、根強い職種階級が出来ている戦前ドイツでは下に見られがちだし、同業者にはユダヤ系も多かったようなので、あるいはそういった身分の負のスパイラルを抜け出させる機会と考えたのかもしれない。
半ば無理やりインテリ階級のエリート校に息子をねじ込んだ押しの強い父は「地域の食を牛耳っている」大物オーラを振りまいていたのではと想像出来る。なにしろ息子に来た召集令状すら破って燃やしたほどの明確なアンチヒトラーでもあり、よくナチスに疑義をかけられなかったものだと思う。
但しそれは平和主義・博愛主義とかではなく、ビスマルク時代のドイツ帝国への愛国心の強さがそうさせていたようで、純粋な愛国者であったようなのだ。そのへんは国防軍の貴族出身の上級将校に多いタイプのようだった。この頑固な父と、音楽好きの母、敬虔な全寮制名門校での生活、そこでの聖歌隊への参加を通して、少年プライの人間性は作られていったようだ。

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プッチーニ:ミサ・ディ・グローリア(4声のミサ曲)
フィルハーモニア管弦楽団
アンブロジアン合唱団
クラウディオ・シモーネ(指揮)
ホセ・カレーラス(テノール)
ヘルマン・プライ(バリトン)
(エラート LP/CD 国内盤)


通常通りの「グローリア」のテキストによるプッチーニのこのミサ曲は、故郷ルッカのアントニオ・パッチーニ音楽院の卒業制作として1880年に作られた。学校や聴衆の評判は良かった。しかし、プッチーニ自身は不納得だったようで、出版や演奏を禁じてしまい、長らく埋もれた曲となった。全曲の再演は1951年、出版は1974年である。
プッチーニの一族は代々教会音楽で名の通った家柄だった。当然その界隈の人は期待したはずだが、プッチーニは教会音楽の世界を探求せず、芸術より娯楽に近い「オペラ」に手を染めたのだった。一族の異端児となるには強い心の葛藤があったことだろう。
音楽院に提出してしまった作品のなで回収する意味はなく、ゆえに破棄しなかったが、まもなく動機や主題を「エドガール」や「マノン・レスコー」に転用し、有効活用している。
完璧に磨くのではなく解体した…いよいよ、教会音楽家の世界とは決別することを示したわけだ。

この曲はキリエ〜グローリア〜クレド〜サンクトゥス・ベネディクトゥス〜アニュスデイという標準的な5章からなるが、グローリアとクレドだけで全体の半分を占める「頭でっかち」構成になっている。
再演後一般には「ミサ・ディ・グローリア」の名で知られるようになっていった。プッチーニ自身がつけた「4声のミサ曲」という題はあまりにも味気ないから、まあ、それは別に良いだろう。しかし演奏禁止曲を無断で再演したのは良いことではない。出版については遺族の承認を得たようだが・・・。

曲は穏やかで、後年のプッチーニを彷彿させる美しいメロディも持つ。録音としては出版時期1974年頃に同じエラートにコルボによる盤がある。
シモーネのこの盤は1983年である。1975年にはインバルがフィリップスに録音し、コルボは1993年再録音している。その後はパッパーノが録音したりと、「宗教曲」と考えたら、中々の「人気曲」といえるだろう。
カレーラスもプライも、宗教曲らしい敬虔で丁寧な歌い方だ。ラテン語歌唱なので、スペインテノールとドイツバリトンが並んでも違和感は小さい。直感的に音楽の芯を捉え、万全に学習してから、自信を持って感情を乗せて歌うプライのスタイルはいつも通り。それほど歌い慣れていないこういった曲でも、少年期からラテン語を学んだ彼ならではの自然な言語感覚で聴くことができる。


posted by あひる★ぼんび at 22:34| Comment(2) | プライ