2017年02月27日

冬のリンゴ〜フィンランド合唱曲集

明るい曲想であっても、常に短調へ向かうような旋律線、奇をてらったわけではないながら、独特な和声。
北欧産の食べ物同様、好みは大きく分かれそうだが、それらを一度気に入ってしまうと、
何度でもその世界に浸りたいと思ってしまうのがこの種の音楽だろう。
これもそんな合唱曲を集めたアルバムだ。

wApple.jpg
冬のリンゴ
〜フィンランドのロマンティックな合唱曲
 シベリウス・マデトヤ・イェルネフェルト・クーラ
 パルムグレン・マーサロ・伝承民謡 等


クレメッティ音楽大学室内合唱団
ヘイッキ・リーモラ(指揮)
(ALBA フィンランド輸入盤)



収録曲は次の通り
◇ジャン・シベリウス(1865-1957)
  船旅・恋人(合唱版JS160c)・歌い潰した声
◇トイヴォ・クーラ(1883-1918)
  舟歌・春の歌・リンゴがずっと咲いている・曙
  キャラバンの合唱・おやすみ・メロディ
◇アルマス・イェルネフェルト(1869-1958)
  恋人たちの小径
◇アルマス・マーサロ(1885-1960)
  子守歌
◇セリム・パルムグレン(1878-1951)
  子守歌・夏の夕暮れ・スウィング・ポプラ・夜に
  悲歌・夏至祭・春のメロディ・春風・春の蝶
  ためいき・海にて
◇レーヴィ・マデトヤ(1887-1947)
  3つの民謡
◇村のバラ(伝承曲)


シベリウス、クーラ、イェルネフェルト等、このジャンルが好きな人には聴きなれた名前が並ぶ。
しかしシベリウスやマデトヤというメジャー作曲家ではなく、クーラやパルムグレンを重点的に取り上げているところが、このアルバムの面白い点であり、それも民謡を下敷きにした曲が大半なので、「近代合唱曲集」の難解さは全くなく、全体に素朴な雰囲気ができあがっている。
シベリウス・アカデミーでエリクソンに学んだというリーモラに率いられたクレメッティ音楽大学室内合唱団は、混声合唱、人数は少なめで透明感が高い。
独唱者も清楚な声の歌手が選ばれている。
必ずしも技巧的に精練されているわけではないが、完全な職業合唱団にはない「初心の感動」のような新鮮さもあって、好感触だ。
聴きなれたシベリウスの「恋人」も、構成や音符の並びに執着して冷静さを演出する演奏が多い中、テキストの内容に沿った感情表現をしていて、その独特の雰囲気が良い。

アルバムの題名は「冬のリンゴwinter Apple」だが、収録曲でリンゴが歌われているのはクーラの1曲のみ。つまりは誰もがappleをリンゴと訳してはみるものの、本当はもっと抽象化されたイメージなのだろう。
そもそもappleそのものは古くは果物全般を指す語だったわけだから、もっと宗教的な意味も含めて深い比喩もあるに違いない。
神聖と世俗、至福、その反対の失われた幸福や追憶、永遠の憧れ…様々ながら、なんとなく、イメージがロマンティックで良い感じだ ^^

冬場に聴く北国の音楽はやはり多少、寒い。
曲が春や夏の情景を歌っていても、結局聴こえてくる音は寒色なのだ。
ここでも「音楽に国境はないが国籍はある」を再び実感する1枚でもあった。
posted by あひる★ぼんび at 23:47| Comment(2) | 音楽

2017年02月22日

バウアーの「冬の旅」

ヨーハン・ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・ミュラー(1794-1827)はアンハルト公国(ドイツ東部ザクセン近隣)デッサウにて、仕立屋の家に生まれ、プロイセン王国ベルリンで学んだ。そして、対ナポレオン戦争ではプロイセン軍将校として周辺国で転戦し、退役後はアンハルト公国に戻り、教職・学術調査員・宮廷顧問官などを務めている。
そのミュラーの詩人としての著作、連作詩「冬の旅」(1824年出版)は、登場人物の職種やキャラクターが具体的だった「美しき水車小屋の娘」と異なり、物語全体が観念的・抽象的に進行する。
シューベルトはこの詩集(「ウラーニア」掲載の12編)に感銘を受け、テキスト全体をほぼそのまま使用し、1827年に凝縮された音楽をつけた。その後、詩集「遍歴ホルン吹きの遺稿」に追加された12編を読み、こちらにも曲をつけ、現在の24曲の連作リート集が成立した。
この娯楽性を持たない画期的な「リートによるドラマ」は、演奏者の「解釈」の幅が大きい作品となっている。

詩の表面上から読み取れることは
*ほぼ同時代、リアルタイムの話である。
*場所はドイツ語文化圏、その周辺国のどこか。
*主人公はクリスチャンの男性で、自由恋愛が可能な身分。
つまり上流ではないが決して下層ではない。
*主人公は恋人とは別国人である。
…とりあえずは、それだけなのだ。

トーマス・エドゥアルト・バウアーは1970年生まれのドイツのバリトン歌手で、少々地味ながら結構な数のリートを録音している。
解釈や発声にディースカウの影響を感じない貴重な(?)存在だと思う。

baumau.jpg

シューベルト:「冬の旅」Op89, D911(全曲)
  トーマス・E・バウアー(バリトン)
  ジークフリート・マウザー(ピアノ)

(Oehms  ドイツ輸入盤)



彼の最初の冬の旅録音は2004年9月。イルクーツクでのライヴ収録。
(この盤については旧ブログでも1度記事にしていた)
バウアーのモンゴル−ロシア−シベリア公演をドキュメンタリーにした番組「シベリアのシューベルト」の一環で作られ、リリースされた。
極寒の地を巡演して、コンディションを極限に追い込むという、ほぼ意味不明の過酷条件下のもの。
キワモノと思いきや、真摯にバウアー自身の感動が伝わってくる歌唱だった。
バウアーの声は元々「風邪声」だが、一段とその傾向強く明らかにコンディションを崩していて、「春の夢」では声がひっくりかえりまで起こっていた。
そんな傷演奏だが何故か心に響き、強い印象を残すものだった。

「冬の旅」の本質は物理的に冬であることとか、過酷な長旅とかそこではないはずなのだが…
・・・と思っていたら、バウアーは5年後の2009年8月に再び「冬の旅」を録音し、
そこでこの「冬の旅」の成立に関して、彼の見解を示している。

ミュラーは1814年、20歳でプロイセン軍に従軍し、ブリュッセル遠征でナポレオン軍と対峙した。
彼はその地でベルギーの女性と恋愛関係になった。しかし同年冬、その恋は破局してしまう。
すると、彼は無謀にも冬の荒野をぬけ、故郷デッサウへと帰還してしまったのだった。
翌年の彼の書簡・日記・作品から、強い傷心と社会的不名誉(無断帰還に対する制裁?)を蒙ったことが伺え、この体験が深く「冬の旅」に反映していると結論付けている。

つまり、彼のアプローチは作者ミュラーの疎外と逃避の旅の「追体験」を図ったものだというのだ。

baumaze.jpg

シューベルト:「冬の旅 」Op89, D911(全曲)
  トーマス・E・バウアー (バリトン)
  ジョス・ファン・インマゼール(フォルテピアノ)

(ZIGZAG フランス輸入盤)




バウアーの声は開放的ではないし、パワーは感じないが、暖かみがあり、柔らかい。
往年の歌手で言えば、テオ・アダムを思わせる少しくぐもった鼻にかかった響き。
この「冬の旅」では特に、感情を放出せず冷静さを心掛けているようで、「心が動かなくなってしまうほどの悲しみと衝撃の後の出来事」であると実感できる。
何をそんなに嘆いているの?何をそんなに怒っているの?と聴いている方が心配になってしまうような歌唱とは対照的だが、上記の声の特徴から、特に分析的には感じない。
また、インマゼールの演奏が適度にラフで、動かなくなってしまった主人公の心を補足するように揺れ、親しみを持って歌手に寄り添っている事で、うまくバランスがとられている。彼らの「冬の旅」が決して孤独なだけにならないのはそんな「伴侶」あってのことだろう。

1曲目はゆっくり目のテンポで穏やかに歌い進め、時々立ち止まりそうな空気を醸し出す。
この「立ち止まり」が心に強い余韻を残す。
何人もの演奏で聴かれる「怒り」はここにはない。歌詞に描かれる「疎外」への不条理の意味をかみしめるものの、実感すらわかない様子。
決然たる思いをもって旅に出たわけではなかった…それがかえって猛烈な痛みに変わっていく。
見込みの甘さが生む恐怖を味わい、その感覚は失恋も身分問題も吹き飛ばしてしまう。

なのにその後も怒りにシフトできないことに、なにやら独特の展開を感じた。

考えてみれば、本気で死ぬつもりだったら旅の苦難など何でもない。
いちいち嘆くのはおかしな話で、鴉が不吉にまとわりつこうと、山小屋で髪が白く凍りつこうと、山道で鬼火に迷おうと、太陽が3つ見えようと、何も恐れるものではない。
しかし、「冬の旅」の主人公は常に心乱れ、嘆き、恨み言を口にしている。
…覚悟など何もなかったのだ。そんな若者の気持ちのどの部分に寄り添うか。あるいは突き放すか。
歴代多くの歌手達は色々なアプローチを聴かせてきた。
民族意識と宗教宗派、身分制度が人々を階層化し、分断していたミュラーやシューベルトの時代と、「無縁社会」とまで言われるほどに個々の人間が必要以上に「孤独」になってしまった現代…彼らの時代の芸術作品に接する時、何か常に人間という存在の普遍的な性質について問われているような気がしてくる。

ささやかな幸せの中で生きていた平凡な若者が突然荒野に放り出され、歩き回り、絶望の意味を知り、死の目前で「生」への執着を確認する…
ただ絶望しているのではない点が、恐ろしい物語なのだ。
改めて「冬の旅」とはかくもスゴイ曲集なのだ、と確認。深い深い、真の名曲である。

「シベリアのシューベルト」より

https://www.youtube.com/watch?v=_3JKHH-Fhyg

https://www.youtube.com/watch?v=eGhPYBJRLF4
posted by あひる★ぼんび at 23:20| Comment(2) | 音楽

2017年02月18日

2017年合宿計画進行中!

合宿の計画も少しずつ形になってきた。
なお&まゆの歳の差ダブル長も決定。
170218_2000~01.jpg
なおちゃんいつもありがとう!
まゆちゃんガンバレ!
よろしくお願いします!!!

合宿テーマ(キャッチフレーズ?)は
「TOKU」
タッキュウオンセンカラダウゴカスー

発音がポイントとか。

なんだか相変わらずリハビリちっくなテーマだねぇ^^;
自分は行けない可能性大だけど、楽しい合宿ができるといいな。

*******
a170218_1121~01b.jpg
サクマドロップス DOCOMOバージョン。
「光かがやくおいしさ」らしいぴかぴか(新しい)

posted by あひる★ぼんび at 23:28| Comment(0) | 劇場

2017年02月11日

プライのアルマヴィーヴァB

mozfig_ab.jpgモーツァルト:「フィガロの結婚」(全曲)
ヘルマン・プライ(アルマヴィーヴァ伯爵)
ミレッラ・フレーニ(伯爵夫人)
ホセ・ファン・ダム(フィガロ) ダニエラ・マッツカート(スザンナ)
テレサ・ベルガンサ(ケルビーノ)
クラウディオ・アバド(指揮)ミラノ・スカラ座管弦楽団・合唱団
(OPERA D'oro 3枚組CD アメリカ輸入盤)



1974年4月22日ミラノ・スカラ座での公演ライヴ。
拍手や舞台上のノイズもそのまま収録されている。つまりはかなりぶっきらぼうな資料録音で、Aで紹介した1961年のものより条件は悪い。しかしこれも音源の貴重さを考えれば許容できるものだ。
基本、ゆったりテンポながら、物語の進行と登場人物の感情の高ぶりに応じて加速し、変化が大きい。
アバドは後にピリオド的アプローチに踏み込むが、この頃は、モーツァルト・ピリオドではなく、ロマンティックな「70年代ピリオド」と言えるだろう。
テンポのゆらしが活力になっていて、時代考証に慣れた耳にはかえって新鮮にも思えた。

ファン・ダムはフィガロ役は得意だったようで、多数の録音・上演記録を残している。
彼のフィガロは重く逞しく、まるでエスカミーリョなのだ。でも、そんな声の強さを除いては表現は中庸だと思う。足音や声の揺れから察するに、結構アクションをつけているのがわかるが、感情を声に極端に反映させるほうではないらしく、映像がないので音だけでは明確ではない。
そんなダムに対して、プライのアルマヴィーヴァは、登場しただけで空気がそこを中心に渦巻くようで、主役的存在感がすごい。アルマヴィーヴァの役作りは堂にいったもので、60年代のいくつかの録音よりずっと落ち着き、威厳も感じる。が、そこはプライ、例によってスイッチが入ってしまうとダム・フィガロより軽快陽気になってしまう。プライの色々な声と感情表現をわかりやすく盛り込むクセがここにも出ている。
果たしてそれがアルマヴィーヴァ役として相応しいかどうかは疑問も残るのだが・・・。

プライ自身はこの役に愛着を持っていたようだが、ディースカウ程、世間の評価は上がらず、「喉への負担」を恐れて渋っていたフィガロ役でブレイクしたという事実が面白い。
実際のところ、大御所ベームとのDG盤やユニテルの映画、来日公演でプライ=フィガロは大きな印象を残しているが、上演舞台はそれほどの回数ではなかったようで、残された録音もアルマヴィーヴァ役のもののほうが多い。
1756b.jpg
女声陣は皆、のびのびと持ち役を演じている。フレーニの声が若い事もあって、悪役になりきれないプライ共々、アルマヴィーヴァ夫妻は「セヴィリア」時代からタイムスリップしてきたのではないかと思えてしまった。また、ケルビーノ役のベルガンサの声も若いので、声だけだと録音上の問題と相俟って、誰が誰やら…である。
しかし、実演の強みは、全体のきびきびした運びだろう。通常、音だけだと少々長すぎる印象もある「フィガロの結婚」だが、セッションでは味わえない楽しさが伝わってくる。
音質に拘らなければこれも名演奏の良い記録だと思った。

プライは60年代終わりからベームとのDGレコーディングに向けて「フィガロ役」の準備も進めていた。
生の舞台で披露するにはまだまだかなりの入れ込みが必要だったろう。
丁度この盤の上演の頃はユニテルへの映像収録があって、音楽に対するノリにけじめがつかなくなることもあったかもしれない。
(ベームとのレコーディングではフィガロなのに伯爵パートを歌ってしまったり、場ミリ位置を踏み越えて技師を困惑させたり…要はやっぱり彼のフィガロ&パパゲーノ的エピソードが伝えられている)

ミラノ・スカラ座というイタリアオペラの殿堂で、プライはイタリア語で勝負している。
もともとラテン語やイタリア語が得意だったというから語学的にはそれほどの苦はなかったかもしれないが、それでもメトで歌うのとはわけが違う。
伝統的にウルサイ評論家達が待ち構えるイタリアオペラ界に「ドイツ人バリトン」が単身切りこんだ勇気は大変なものだったと思う。
当時売れっ子だった人気歌手を集め、イタリアローカルではない世界的な「新しいドリームキャスト」を実現しようとした感のある当公演。出演者の大半が鬼籍に入り、今となっては過去の遺産である。
演奏スタイルも新しいどころか、すっかり過去のもの。時の流れはなんと早いのだろう…。

posted by あひる★ぼんび at 23:35| Comment(8) | プライ

2017年02月08日

プライのアルマヴィーヴァA

「フィガロの結婚」では、プライはデヴュー間もないころから、アルマヴィーヴァ伯爵を持ち役にしていた。フィガロを歌うには声域の問題があったため、オファーがあってもなかなか踏み切れなかった。
それよりも(キャラクターは別として)声域がぴったりはまるのはアルマヴィーヴァだったのだ。
その辺のことは以前に記事に書いた。http://ahirunooto.sblo.jp/article/174104547.html

ディースカウは「4歳下のプライが何でも真似をしてくるので辟易している」と著作にまで残しているが、さてさて、アルマヴィーヴァもディースカウの持ち役だったわけで、まあ、これもさぞ穏やかでなかったことだろう。
しかし、ディースカウ先生、考えてみて下さい。王道のレパートリーを総なめにしていたあなただからこそ、同声域の後輩歌手の行動がすべて「ものまね」に思えてしまったのではないですかね。
でも、「常に芸術家でありたい」というあなたと、「どんな時も歌手でありたい」というプライでは、アプローチの違いは歴然としていたわけで。

Figaro-pr-gu.jpgモーツァルト:「フィガロの結婚」(全曲)
 ヘルマン・プライ(アルマヴィーヴァ伯爵)
 エリザベート・シュヴァルツコップ(伯爵夫人)
 グラツィエラ・シュッティ(スザンナ)
 ジュゼッペ・タディ(フィガロ)
 カルロ・マリア・ジュリーニ(指揮)
 レジデンティ管弦楽団 ネーデルラント室内合唱団
(verona 3枚組CD ルクセンブルク輸入盤)


これは1961年、オランダフェスティヴァルでの放送用ライヴ録音。
ドイツ国外の上演なので原語のイタリア語が採用されている。
プライはまだ32歳、当然若い声だが、「好色伯爵」のギラギラ感はなく、むしろ抑え気味で、充実した響きの声で歌っている。フィガロと違い、アルマヴィーヴァは聴かせどころがアリアではなく、レシタティーヴォにある役柄なので、これはむしろ得意分野だったろう。
ただ、対話シーンがノってくると、つい威厳を忘れた演技になってしまうのは彼の特徴。
それがかえって、「普段気取ってるけど、おまえら貴族の本質は全然違うんでしょ」とおちょくるモーツァルトとポンテの笑いが見えてくるようで面白い。
シュヴァルツコップに関しては、彼女の良さを引き立ててくれる演出になっていないようで、少々評価が難しく感じた。また、フィガロ役のタディはさすがイタリア人…なのだが、アルマヴィーヴァより女好きか?と思えるオーラを醸し出してしまうのはいかがなものか^^;
プライ、シュヴァルツコップ、タディ、シュッティ以外はオランダのローカル歌手のようで、聴いた記憶のない名が並んでいる。しかしまだ若かったジュリーニの指揮ともども、締めすぎず緩めすぎず、いい具合の上演になっている。確かに、若手スターとベテラン指揮者を看板に掲げた音楽祭の「客寄せ公演」には違いないのだが、きっと評判は上々だったに違いない。
ただ、これはあくまで一回性のライヴ録音。もしも、プライに興味がなく、シュヴァルツコップとタディを楽しみたいならEMIのセッション盤を聴いたほうがいいだろう。
上演データの記載は何もないが、イタリア語の分厚いテキストが全文添付されている。
録音状態は年代相応の「ラジオ放送用録音」で、特に問題はない。場面によっては所作によるノイズが音楽より大きくなったり、顔の向きで音が大小することがあるが、臨場感と思えば気にならない。タディもプライもよく動き回る歌手だったからだろう。
多少、編集には難があって、場面転換で不自然な空白や余韻の消去がある。
だが、メジャーからの発売のなかったこの音源の貴重さを思えば、許容範囲だと思う。
この録音は、ハイライト盤は幾つかの廉価レーベルから出ているし、中の有名曲が引き抜かれてオムニバスに紛れていたりもする。だが、そのままの全曲盤は希少だし、最近は中古でも目にすることが少なくなった。
メンブランあたりがセットもので復刻しない限り、やがては忘れられていく音源なのかも、と考えたらなにやらとても残念な気がしてしまった。

ちなみにこのセットの3枚目余白には1957年ザルツブルクでの同曲抜粋が収録されている。
指揮はベーム、伯爵夫人はシュヴァルツコップ、フィガロはクンツ、そしてアルマヴィーヴァはディースカウ。
プライの盤に先立つこと4年・・・洒落なのか意地悪なのか皮肉なのかわからないが、蛇足とは正にこういうことだろう^^;

posted by あひる★ぼんび at 22:08| Comment(2) | プライ

2017年02月06日

ダンツィのピアノ五重奏曲

フランツ・イグナツ・ダンツィ(1763-1826)はドイツ・マンハイムで活躍した作曲家で、ベートーヴェンの同時代人、音楽的にはモーツァルトとフォン・ヴェーバーを結ぶ作風を持つ。
通常で言う「ピアノ五重奏」と異なるのは重奏楽器がすべて管楽器だということ。
この辺は同時代の作曲家ライヒャ(レイハ)が開拓した管楽重奏のスタイル、この時代のハルモニアムジークの流行の影響だろう。
丁度、宮廷や貴族のサロン内にとどまらない、聴衆を前にしたコンサートが行われるようになった時期であり、音楽はより多様になった。しかしそれは間もなく淘汰へ向かう出発点だった。
バロックや古典の残像が薄まっていったロマン派時代、いわば叙事から叙情へ向かう時期を迎えるわけだ。
かつて日本の著名オーボエ奏者のM氏はライヒャやダンツィらのこういった曲を「死んでもやりたくない」と一蹴してしまったようだが、わからないでもない。
演奏者が苦労する割に、聴衆は面白くない場合も多々あるのだ。曲がつまらない、というより、演奏者がバランスを取り辛く、結果耳障りな音楽になってしまったり、逆に消極的なものになってしまったり…もどかしいのだろう。
確かに「オーボエ・フルート・バッソン」はバロック時代からの黄金サウンドかもしれないが、そこにクラリネットやホルンが入り、常に音量のあるピアノがそれを掻き回すなら、「(耳に)良い音楽」は生まれない。
作曲家のほうも聴かせる工夫や仕掛けは特に用意しなかったわけで…。

dan-p5.jpgダンツィ:ピアノ五重奏曲集
 ヘ長調op.53(ピアノ・フルート・オーボエ・クラリネット・バッソン)
 ニ短調op.41(ピアノ・フルート・オーボエ・ホルン・バッソン)
 二長調op.54(ピアノ・フルート・オーボエ・クラリネット・バッソン)

クリスティーネ・ショルンスハイム(フォルテピアノ)
ライヒャ五重奏団
(NCA-Membran SACD ドイツ輸入盤)




先に述べた音響上の問題点に関しては、この盤は何の心配もない。
演奏家は思い思いに腕を発揮しているし、上記の事をしっかり考慮したバランスがとられている。
編成上一番心配なホルンも飛び出してしまったりはしないし、名手ショルンスハイムのフォルテピアノも主張しすぎず(鳴り続けてはいるが)他を掻き消すことがない。
音楽は常に明るく、マイナー主調の楽章でも激情にさらされている部分は皆無で、その延々たる穏やかな音の並びが「シューベルト的な雰囲気」まで匂わせている。
もし、もっと耳を引くフレーズがあれば、きっと名曲に列せられたかもしれないが、特定の楽器が前面でソロを取ることがない。常にシンパシー、ハーモニーを重要視していて、それを愉しむ、そういう音楽なのだ。ヴィルトーゾ奏者はここには必要ない。これはM氏が嫌った理由のひとつかもしれないが、ある種、美点であり、そこを気にいるかどうかがこれらの作品に対する好みの分かれ目なのだろう。

この録音は放送局の製作ながら、放送用を「ついでに」製品化したものではなく、アルバムとして考慮された破綻ない上質のSACD盤になっている。
音はしっかり鮮明に捉えられ、アンサンブルも綺麗だが、ピリオド楽器ゆえ、元々の音色が全体にくすんでいる。SACDの空気感を持ってしても、生演奏の響きは再現できないようだ。
聴こえてくる音楽が、時代的にすでに「古雅」を楽しむ種類の物ではないことがなんだか残念だった。18世紀終盤の上質な娯楽音楽であることはわかるが、現代の環境・現代人の耳との相性はきっと考える以上に良くないのだろう、と改めて思ってしまった。

posted by あひる★ぼんび at 23:28| Comment(2) | 音楽