2012年01月26日

フライボーイズ(2006)

フランスに実在したアメリカ人航空部隊(ラファイエット戦闘機隊)と、登場人物それぞれにモデルとなる兵士がいる、という「実話」を借りた戦争アクション映画。
設定をあくまで「借り」たのであって、物語は基本フィクションである。
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ゆるゆるの軍規、甘い訓練、やけに容易すぎる離着陸をはじめとする機の扱い、何やらつっこみ所が多いのだが、不思議と傷にならず、しっかり楽しめる映画だった。
戦争を楽しむとは不謹慎な、と思われるかもしれないが、実際面白いと思ってしまった自分がここにいる。

のっぴきならないワケアリでアメリカからフランスに渡って入隊した連中であるから「愛国心」とか「厭戦・反戦意識」がない。
物語的にもわざわざそれを挿入しない。
若者たちは戦友や自分の死を恐れつつも、まるでスポーツのように撃墜数をあげることに集中する。
また、そのことに対しても善悪を問うたりもしない。
つい最近公開された「レッドバロン」(何か評判は芳しくないようだが)は見ていないが、旧作の方には、「共産主義者を粉砕する」というセリフまで撃墜王フォン・リヒトホーフェンに語らせ、空で英仏と闘うだけでは済まない複雑な事情や、イデオロギーを描いていた。
それはやがてナチスに引き継がれていく思想の萌芽を感じるものだった。
しかし、この「フライボーイズ」には何もない。
極端に言えば、行き所のない不良たちの一種の更生物語(ただし、死と隣り合わせの)みたいな、あるいは形を変えた「アメリカンドリーム」のノリになっている。

航空兵だった伯父から以前聞いたことがある。
「年端もいかぬ若造には、戦う意味なんかわかるわけがない…さんざんおだてられて、時に恫喝うけて、飛ばされる。出撃の数時間後にはさっき一緒にメシを食った戦友がポロポロ欠けている。そんなふうに命が軽いからあんな重い飛行機が飛ぶのかもなぁ…。」
そんな言葉をふと思い出した。
この映画も、命がとても軽い。
与えられたミッションは「出会ったドイツ機をすべて落とす」のみ。
空を飛び回る爽快感の中、痛みも恐怖も悲しみも、麻痺しているようだ。
そんな麻薬症状が、あるいは戦争の本質であり、怖さなのかもしれない。

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人間関係の描き方が淡白でドライである点も、映画の受け手は、対戦ゲームのプレビューのように感じるのではないだろうか。
余計な涙がない。次々と欠けていく戦友、死も起こるべくして起こった事象のようだ。
と、これだけ書くと、冷徹な殺人集団の物語かと思われてしまうかもしれないが、最初に書いた通り「ゆるい」ので、そうはならない。
フランス村娘とのロマンスや、軍規を犯して彼女を占領区域から脱出させるエピソードの挿入などで、地上での彼らの人間らしさや、戦時の青春のせつなさも挿入されている。

この映画に出演者で、知名度の高いジャン・レノは、静かな父親のまなざしで若いパイロットたちを支える隊長役。
時として大根の汚名をきる彼ではあるが、ここでは彼の「ゆるさ」が良い味になっていた。

実写+CG+ミニチュア特撮をうまく扱った空戦場面は、当時の実機ではありえない場面も多々あるものの、非常に血圧の上がりそうな場面作りで、素晴らしい。
なんでドイツ軍のフォッカーが、カタキの親玉(黒)以外は全部赤なんだ、とか、失速も分解もせず性急な上昇下降、旋回を繰り返すんだ、とかまあ、それもいろいろケチはあるが(笑)
ボーナスディスクの、ミニチュア撮影のメイキングは面白かった。
ワイヤーで模型を飛ばす様子が、昔懐かしい怪獣映画風。
搭乗員の人形をレポーターに仕立てた奇妙なチープさもかなり楽しめた。

映画は、娯楽である。そしてこれはアメリカ映画。
それを押さえた上なら、たっぷり楽しめる2時間50分だった。

posted by あひる★ぼんび at 23:53| Comment(0) | 映画

2012年01月23日

偽りの記憶〜ティエンスーの音楽

いつの間にか、芸能と芸術が接近しあい、国籍もジャンルの境界も失った現代の音楽。
「前衛」という言葉も死語になった。今は保守も先進もない。
さらに素人も玄人も同じ土俵に乗せられ、評価をうける。
評価する方も玄人ではなく、さまざまな人々である。
この現状を、文化芸術の成熟とみるべきか、退廃とみるか、稚拙な「幼児がえり」なのか判断できない混沌の時代。
そんな中、現在進行形で活動する作曲家のひとりがティエンスーだ。

ユッカ・ティエンスー(1948〜)はフィンランドの作曲家。
「われらの時代は、すべての作品ひとつひとつに明確な創造の理由がなければならない。」
「重要なのは作った人ではなく作品自体だ」
と堂々と語る「漢」である。

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ティエンスー:
・ヴィエ (2007)
・ミサ (2007)
・偽りの記憶I-III (2008)

カリ・クリーク(クラリネット)
ヨーン・ストルゴー:指揮
ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団

(ondine フィンランド輸入盤)


最初の「ヴィエ」は弦楽の為の協奏曲という副題付きの18分ほどの曲。
全体はおおまかに急〜緩〜急の体裁のようにも見えるが、音型そのものは「無窮動」で埋め尽くされ、結局のところ変化するのは密度と音量で、速度ではない。
細かく複雑怪奇なリズムだが、単純な二拍子に割り切れるようにも思える聴感上の謎。
体をよせあって巨大化する粘菌のごとく、不思議な姿をした音楽なのだ。
スコアを見たい。きっととても面白そう。18分がいっぺんに過ぎていく。

「ミサ」はクラリネットと管弦楽の為の協奏曲風組曲。
入祭唱、キリエ、グロリア、クレド、サンクトゥス、アニュスデイ、散会、の7章からなり、、カトリックの通常ミサの順に並んでいる。
当然歌詞はなく、また、キリエだから悲しく、グロリアは華やかにとか、そんな単純な感情割り振りもない。
信じられないほどの超絶的な技巧と特殊奏法で埋め尽くされた音楽。
これがクラリネット?と思うような、尺八やカズーのような音色には驚く。
心震える感動はないが、驚愕はたっぷりと用意されている。

「偽りの記憶」3部からなる管弦楽曲。
「レヴュー」「ノスタルジー」「トラウマ」と、おもわせぶりな題がつけられている。
その意図については作曲家から全く説明がないので、純粋に音だけを受け取るしかないが、考えてみればそれが本来あるべき姿のはずだ。
現代曲は注釈やいいわけが多すぎると思っていたところなので、これはこれで良い。
ちなみに副題に「管弦楽の為のモルフォシス」とある。
ギリシャ語?だとすれば「形」「美しさ」。あの世界最高美のモルフォ蝶のモルフォである。「形骸的な偽りの美しさ」という意味で使っているのだろうか。わからない。
曲は、聴き流してはいけない。ただの音になってしまう。
この、思い切り分解された音楽は、リズムや断片的なフレーズに親しげな表情を見せながら、実のところきわめて難解だ。
そのあたりは、同じ北欧で活躍中のマグヌス・リンドベリの音楽と同テイストを感じた。

posted by あひる★ぼんび at 23:21| Comment(0) | 音楽

2012年01月20日

Vn協ふたたび、いや3たび〜シベリウスの音楽

シベリウスは大好物なので、取り上げる回数も多くなると思っていた。
それであえて記事番号をつけなかった。けれど、やはりつけるべきだったか。
いや、それより、「作曲家別カテゴリー」が必要だったかな…。
記事数が増えると自分でもわからないことが出てくる。
これを無計画と言わずなんと言う(笑)

******

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シベリウス:
 ・ヴァイオリン協奏曲ニ短調 op.47
 ・「吟遊詩人」op.64
 ・「森の精」op.15

フランク・ペーター・ツィンマーマン(ヴァイオリン)
ヨーン・ストルゴー:指揮
ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団
(ondine フィンランド輸入盤)

 
冒頭、霧のような音のざわめきの中から、ヴァイオリンが現われた時、やけに直線的な乾いた音だな、と思った。
それはかなりの違和感でもあったが、同時に個性的な演奏の展開を期待できる導入だった。
おそらくここでの「違和感」は、ツィンマーマンがこの録音で使用したストラディヴァリウスについて、ライナーや記事でやたら強調していた為に起こった「ストラディヴァリウス」=「潤い豊かな音」という先入観のなせる業だったろう。
良い楽器は演奏者の意思の隅々まで再現するものと考えれば、もし彼がこの曲をドライにクールに仕上げようと思ったなら、出てくる音はその通りになるわけだ。
楽器を貸してくれている財団に敬意を払っての強調だろうが、そういう先入観を考えたら、ほどほどに願いたい。
どの楽章もテンポが極めて速く、思わせぶりな「間」が全くとられていない。
オケも吠えないし、ティンパニもおとなしい。
ソロが粘着しないので第2楽章は旋律が明確に聴こえる。
第3楽章は個人的にはもっと野趣にあふれた演奏が好きだが、こういうアプローチも良いと思えた。
録音の特徴もあるのだろうが、普段はリズムに埋もれて聴こえない(あるいは気づかない)木管のフレーズが浮き出してきて、とても面白かった。

アルバム後半は知る人ぞ知るシベリウス中期の名音詩「吟遊詩人」と、初期の管弦楽の為のバラード「森の精」。
「吟遊詩人」は、協奏曲と異なり、ゆったりとしたテンポ。
この曲で重要な役割を持つハープが、オーケストラの1パートではなく、独奏楽器のように、いくぶんオン・マイクで強調されている。
そのハープに彩られた悲しげなメロディが極限の美を描き出し、静かな盛り上がりと、全体を支配する静寂が美しい世界を作り出す。
この哀愁はシベリウスの作品中でも屈指だと思う。
最後の「森の精」は20分越えの曲。「カレリア」などに通じる、初期の特徴のエッセンスだ。
もともと、シベリウスの作品15は「森の精」を題材とした4つの作品ということになっている。
1889年のリュドベリの詩による7分ほどの独唱曲、1894年のこの純器楽の交響詩、同一素材にリュドベリのテキストを乗せた朗読劇(メロドラマ)、そしてそれをピアノにおきかえたもの。メロドラマは交響詩より先に発表されているが、どちらが先、というより脳内ではおそらく同時派生なのだろう。
それらはBISの全集ですべて聴くことができる。
(もう1つ、作品45にも「森の精」という管弦楽曲があるが、素材題材ともに関連はない)
この1894年交響詩版は、親しみやすい旋律にあふれているにもかかわらず、演奏される機会がなく、初演以来、約100年埋もれていたというから驚きだ。
なんでも楽譜を受け取ったロシアの出版業者が放置したとか。
しかし100年って…ねえ。
シベリウスが存命中に再改訂すら考えなかったということは、この作品に執着がなく、つまり彼にとっては、その程度の作品だったってことなんだろうか。

以前とりあげた、パーヴォ・ヤルヴィのシベリウス演奏とも共通するのだが、このストルゴーの演奏は、低弦強調で重くしたり内声を強めたりの、そういう昔の重く暗いシベリウスからは完全に脱却している。
オンディーヌ・レーベルの一連の録音には新校訂版使用とのことではあるが、だから、ということもなさそうだ。さらりとした「あたり」は、当代のシベリウス演奏の流行なのかもしれない。

あと、内容とは関係ないが、ジャケットのデザイナーは、曲も演奏も聴かずに作ったのかな?
ここに聴かれる3曲は、燃え上がる炎とは対極のきわめて冷静なものなのだがね。
最近そういうアートワーク不整合って、ずいぶん多いような気がする。
posted by あひる★ぼんび at 23:05| Comment(0) | 音楽

2012年01月15日

にこにこ新年会

自分にとってはこの正月唯一の新年会。
…といっても子どもたちの集まり。
そう、僕は宴会ダイキライ人間で、特に「飲み会」は全く参加しないことにしているのです。

今回の内容は、「的あてドッジボール」「ミニサッカー」「部屋を移動してお弁当」
そして「次は何をするか話し合い」、おみやげとして「お菓子つかみ取り」。
行事としての充実度はおいておいて、子どもペースのゆるさが実に潔く心地よい(笑)

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はるちゃんはボールをよけるのがうまい!!
小さいころの自分を思い出した。僕も絶対に当たらない自信があった。
でも、ボールに触れないぶん、攻撃側にもまわらないわけで、チーム戦力にはならなかったんだよなぁわーい(嬉しい顔)

堂々のルール説明。かっこいいっす。
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それにしても最近は会場おさえが難しいみたい。
的当てドッジやミニサッカーは盛り上がってたから、会場の使用時間が許せばもっとできたろうに、学校の休み時間みたいな時間制限がついてしまった。

それでも時間いっぱいの熱戦!
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夜は事務所でキャンプの文集編集。
何と夏のものを未だにやっている。ってか、やってなかった(笑)
今週土曜のにがりの場で仕上げて、28日には配布の予定。
あら、いそがし。
次回のキャンプは少し方法検討ね。
posted by あひる★ぼんび at 23:18| Comment(0) | 劇場

2012年01月12日

正月駆け抜け。

クリスマス以降、年末に2件、年始に1件告別事があって、直接ではなくても気持ちが落ち着かない半月だった。
うちの両親は少々早すぎたと思うが、自分たちを生み育ててくれた世代は次々旅立っていく。
そんな歳になった、そういうことだろう。
世の中すべて順番とはいえ、寂しいものだ。


普段、神社に参拝することのない自分は、初詣もめったに行かない。
都合の良い時だけ願をかけるというのが憚られるからだ。
そんなふうにめったにいかないくせに気まぐれに初詣参拝なんて、なんかバチがあたりそうあせあせ(飛び散る汗)
ってことで今年もパス。
ご先祖レベルでは父方は天満宮と縁が深い家柄のようなんだけれどね。


そんなわけで、正月休みは年賀状を描きつつ、
史劇系映画のDVDや「マルモのおきて」の集中放送を観つつ、
意味なく凝った料理をしてみたりもして、たらたら過ごした。
充電になる気もするが、誰にも会わない、全くしゃべらない数日というのはどうなんだろうねぇ。


そういえば、昨年夏にクラッシュしたパソコンには、自分が書いた曲の楽譜や詩が入っていた。
「もしもの時のオンラインバックアップ」もしておいたのだが、その「もしも」のほうのサーバーもいつの間にか廃業している…というオチ。
「うたのおと」としてHPにアップしていたものも、とっくの昔に消えている。
これでそれらは永久消滅??
約420曲、自己満足な作品がほとんどだけど、その時々の思い出がつまったものなので、とても残念だ。
IT時代の弊害というか、なんというか、かえすがえすも、プリントアウトして紙に残しておけばよかったなぁ。

もう、気分はコレもんですわ。
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posted by あひる★ぼんび at 23:22| Comment(0) | 日記

2012年01月08日

美しき交響作品〜アルネスの音楽A

年末にピアノ作品集を紹介した、アイヴィン・アルネス(1872-1932)の、今回は交響曲。

彼の活動時期は後期ロマン派の真っ只中だが、作風は(少なくとも外見上は)民謡調のメロディと保守的な和声の曲が多く、当時流行の風潮「国民楽派」の空気も持つ。
しかし、彼自身は大きな民族運動に関わることもなかったわけで、ひたすら穏やかで中庸である。
実際のところ、どの曲も演奏会で取り上げられることもほとんどなく、録音物も、2つの交響曲・ピアノ協奏曲、ピアノ小品、そして数曲の歌曲や合唱曲…と、限られたものしかないために、全体像を掴むことが不可能。
ノルウェーでは大家といわれ、輝かしい経歴もありながら、この現状では、アルネスはこうです、と言い切れるものではない。
グリーグのようでもあり、時々、チャイコフスキーのようでもある。
ブラームス的と書かれた記事を読んだことがあるが、そうともいえるような、いえないような(笑)
まさに時代のエッセンスを集めたような雰囲気なのだ。

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アルネス:
・交響曲第1番ハ短調Op.7
・交響曲第2番ニ長調Op.43

  ラトヴィア国立交響楽団
  テリエ・ミケルセン:指揮

(Sterling SACD デンマーク輸入盤)



これはノルウェーの隣り、デンマークのレーベルから発売されているものである。
最初に録音状態の話になってしまうが、これはSACDなのだが、音場が若干平面的に感じる。
しかし、鑑賞に支障があるわけではなく、他のSACDと続けて聴いた場合に「あれ?」と一瞬プレーヤーの表示を確認する程度のこと。
何にせよ最近(2009年)のセッション録音なので、悪いはずはなく、設定次第で最適値が見つかるだろう。
現在はこの曲の唯一の録音ということになるが、そのうちnaxosやcpoあたりから新録音が出るような気もしている。
さて、北欧メタルの常套句に「美旋律」という言葉がある。フィンランドやノルウェー、スウェーデンで活動する彼らの音楽には、伝統的にシベリウスやグリーグの雰囲気が流れているところから、そんな言葉が生まれたようだ。
まさに、アルネスの交響曲は「美旋律」がスシ詰め。
これでもかこれでもか、と言わんばかりに繰り出す泣きのメロディ。
これがもし誰かが〇〇風の「疑似作品」として書いたものだったら、恥ずかしくて我慢ならなくなるほどなのだが、しかし、そうならずに浸れるというのはしっかりとした構成力があっての結果だ。
ひところカリンニコフの交響曲が美旋律で有名になったが、これはそれ以上だと思う。
プロポーションの肥大がなく、規模中庸で聴きやすいのも良い。
第1番は初期の作品で、ロシア風の空気が漂う。おそらくは時代性、流行の関係もあろう。
それこそチャイコフスキーであり、グラズノフであり、時々ブラームスでありメンデルスゾーンであり、ワーグナーの風味もそえつつ、混ぜてみればなんとなくグリーグ(笑)
ライプツィヒでライネッケについて勉強していた彼は、手法としてはドイツ音楽を叩き込まれたろうし、時代の流行の音楽は、空気として音楽界を支配していた…そんな状態での自然な産物とも言えそうだ。

そして晩年に書かれた第2番には、カヴァレリア・ルスティカーナのトゥリッドゥとサントゥッツァの修羅場(有名な間奏曲の前のシーン)とよく似たメロディが出てくる。
あくまで「他人のそら似」にはちがいないが、この曲全体を支配する熱のようなものがそう感じさせるのかもしれない。

どちらの曲も、彼の歌曲がそうであるように、基本的には「民謡風のメロディー」を浮き立たせるように和声付けられていて、フレーズの突然の乱入や混沌がない。
それは彼が生きた時代を考えたら貴重なことだ。
難解さを好む人からは、きっと単純だと軽視されてしまう。とても奇妙なことだとつくづく思う。
posted by あひる★ぼんび at 23:39| Comment(0) | 音楽

2012年01月05日

「スマート」な展覧会〜ムソルグスキー

今回は新譜ではなく、2009年リリース、今更と思われるかもしれない一品だが…

ansmus.jpgムソルグスキー:
・組曲『展覧会の絵』
・『子供の頃の思い出』〜乳母と私
  〜乳母は私を暗い部屋に閉じこめた
・『夢想』
・『クリミア南岸の近くにて』
シューマン:
・『子供の情景』Op.15

レイフ・オヴェ・アンスネス(ピアノ)
(EMI CD+DVD EU輸入盤)


アンスネスはノルウェーが生んだスター・ピアニストである。
幅広いレパートリーに意欲的に取り組んでいる人だが、玄人好み、というか、案外派手さがない。
自己の解釈をゴリ押しするのではない、バランスの中でじわじわ攻めてくるタイプである。
この文の題に「スマート」という曖昧な書き方をしたが、最初のプロムナードが鳴りはじめたとき「都会的だな」「濾過されてるな」と思った。
常々、ピアノで聴くこの曲集は、どこか土臭い、ダークな追悼音楽のイメージを拭えなかったので、これには驚いた。
発売当初から「ホロヴィッツ版を参照してアンスネスのアイデアを盛り込んだ」「現代美術家とのコラボレーションのための」と聞いていたので、なにやらキワモノ意識がわいてしまい、発売から2年以上、ずっと触れずにいた。
今回、正月休みで時間があったので、ゆっくりと聴いてみたわけだが、とても個性的な「新しい」演奏だと思った。

ではなぜ、「スマート」と感じたか。
*どのフレーズもクリアであり、混沌がない。
感情の盛り上がりでタッチが左右されることがない。ホロヴィッツ自身の演奏のような、そう弾きたかったのかミスタッチなのかわからない曖昧さは排除されている。
*テンポに停滞がない。
美術展の行列速度と閲覧順路を守っている(笑)
この曲で、舞台とのコラボというとアファナシェフが真っ先に浮かぶのだが、彼の異様すぎるテンポは、グロテスクな妖怪絵巻を描き出していた…いや、それはそれでとても面白い解釈だったのだけれど。
*無理なく中庸な音量強弱。
これは全体の印象を支配する大きな要素だと思う。ポゴレリチのように低音をぐわんぐわん鳴らすとか、ウゴルスキのような強弱バランスの逆転発想はいっさいなく、ピアノが美しく響く範囲を守っている。

ムソルグスキーのこの曲は、歴史的にも多くの作曲家や演奏家にインスピレーションを与え続けている。今回のアンスネスと、ヴィジュアル・アーティストであるロビン・ロードとのコラボレーションというのもその一つの形だろう。
CDで音だけ聴いた時は、ただスマートな都会的演奏だとだけ感じたのだが、DVDに収められた実際のステージを観て、納得した。
彼らが試みたのは、ムソルグスキーの脳内を再現することや、時代性を守ることではなかった。
その音楽を素材とした新たなる展開なのだ。
ただし、ここでは、ホロヴィッツが省略してしまった部分を元に戻し、曲順を守り、装飾音以外の関係ないフレーズの加筆は極力避けている。
そこにムソルグスキーへの最大限の敬意尊重を感じる。
それはアンスネスと、この企画の、独りよがりではない真っ当な良心だろう。
その場で演じられるバレエやマイムとは異なり、すでに作られた映像作品とのコラボであるから、テンポや強弱は気まぐれが許されず、アンスネスの演奏自体が構成要素の一つなのだ。
おそらくそれは気が遠くなるほど綿密な作業だったと思われる。
一要素として存在しながら、無機的にならない演奏。それは斬新な存在のしかただ。

本体は布張り上製本の写真画集である。
DVDを観てからなら、内容に興味も持てるかもしれない。
内容が楽譜や、ムソルグスキーがインスピレーションを受けたハルトマンの画集だったら「宝物」だったかもしれないが、このロードの作品集は、さすが最先端の現代芸術家、およそ理解の範疇を超えていた(汗)
それでも製作のヒントとなるスケッチやメモはとても面白いと思えた。
意図が意図なので、これから購入される方はCD単体ではなく、この画集+DVD付をお勧めする。
HMVあたりなら3千円台で購入できる。すごい時代になったものだ。
posted by あひる★ぼんび at 23:48| Comment(0) | 音楽

2012年01月01日

謹賀新年


おけましておめでとうございます♪

初日の出は雲の間から。
雲に負けない朝日のように、良き1年をつくりたいです。

写真はうちのベランダから。

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オフ友の方々、そしてこのブログを見てくださってる方々、
今年もよろしくお願いします!!
posted by あひる★ぼんび at 07:37| Comment(0) | 日記

2011年12月28日

なぜ知られていない?〜アルネスのピアノ曲

アイヴィン・アルネス(1872〜1932)はノルウェーの作曲家。
彼の作品は、これまでに交響曲や声楽曲、ピアノ協奏曲などがリリースされている。
「ノルウェー民謡に裏打ちされた、素直で感情豊かなメロディを書く作曲家」というイメージは、聴いたことのある人なら誰でも持っているはずだ。
しかし、現在では、彼の作品は楽譜が一般に流通していない為、演奏会プログラムに取り上げられることが皆無である。
どこかの誰かが映画やドラマで使い、それが当たったりしない限り、これらの作品は将来も日の目を見ないかもしれない。
また、知名度を上げるのに有効な(良し悪しは別だが)スキャンダルも生前の彼の人生にはなかった。
聖歌隊指揮者や教会オルガニストとして過ごしたその人生は、作品同様つつましやかだったようだ。
つまりは小説や映画の題材にもなりそうもない。

先に紹介したカスキもそうだが、世間の認知の度合いは何で決まるのか、本当にわからない。
シベリウスは優れ、カスキは劣る?
グリーグは優れ、アルネスは劣る?
いや、そんなことは全くない。
音としてこうして具体的に聴くと、一段とその思いにかられるのだ。

aln67.jpgアルネス:ピアノ作品集
・ノルウェー民謡による10のピアノ小品 Op.39
・ロマンス
・創作主題による変奏曲 Op.5
・4つのピアノ小品 Op.4
・3つの小品 Op.32
・気分
・3つのピアノ小品 Op.9

エールリング・ラグナル・エリクセン(ピアノ)
(Toccata cl. uk輸入盤)


これらの曲は初めて聴いた。当然だ。
2007〜08年に録音され、2011年発売の「世界初録音」である。
ここに収録のピアノ作品はグリーグ風であったり、シベリウス風であったりする。
素材がグリーグと同じなのだから当然なのだが、和声の積み重ね方や装飾と簡素化のバランスはシベリウスに近い。
作曲家名を伏せて聴いたら、きっとどちらかの名前を出すに違いない。
作品を作るにあたって、おそらく大きなコンサートや、ヴィルトーゾ・スターは意識していなかったのだろう。家庭や身内の集まり用と思えるほどつつましい。
非常に節度をもった音楽なのだが、時代的にはやはり後期ロマン派の空気の中にあり、古典的な構成美や技法を追求するより、音の持つ感情を大切にしているように聴こえる。
まあ、つつましい、といってもタイプはさまざま。
ほとんどグリーグそのもののop39やop.4
ドイツ風の硬い輪郭ながらドビュッシーの「子どもの領分」を思わせるop.32
コンサートピースとしてかなりドラマティックな効果をもちそうなop.5…
音量を増すときは、低音方向に大きくダイナミックスをとり、そのパイプオルガンの足鍵盤のようなフレーズの書き方は結構「豪快成分」を持っている。
彼の活躍した時期を考えれば当然の様式、いや、もっと派手でもいいはずで、もし彼の近くに懇意のヴィルトーゾでもいたならば、状況はまるで違ったろうとも思った。

それにしても、このCDの深緑のジャケットデザインは、手にした人の購買意欲など全く考えていないようだ。
このレーベルのこのシリーズ共通の基本デザインなのだが、SP期やLP初期のジャケットのような懐かしさ???
いやいや、こんなことで聴き手のハードルをあげてしまうのはいかがなものか…。
せっかくステキな音楽なのになぁ。

posted by あひる★ぼんび at 21:22| Comment(0) | 音楽

2011年12月25日

いっとうしょう

クリスマスはあっけなく過ぎた。
でも、こうして例会もあるし、これが僕の今年度のクリスマスイベントってことにしておこうクリスマス

くわえ・ぱぺっとステージ&CAN青芸の「いっとうしょう」
人形劇と演劇を融合させた幼児低学年向け作品。
とにかく明快な展開なので、面白い。
難しく言うと、ありふれた些細な「価値観」をめぐる擬人化された動物たちの物語。
内容を細かく分析すれば、いろいろ話のタネはつきないだろう。
「いっとうしょう」が最高という感覚は、おそらく物心ついてまもなくから、多くの人に刷り込まれるものだ。
幼稚園・保育園から「運動会」なんかで競わせるわけだから言わずもがな。
それはカモシカでもキツネでもブタでもなく、人間だけが持ちえた価値観で、この「競争」意識が、文明の発展の原動力にもなり、しかし勝者と敗者を明確に分け、階層をつくるものでもある。
なんだかわからないけど、恒例ということで毎年マラソンしてる3匹の動物。
その競争とは無縁にひそやかに咲く「花さん」。
もともとあの動物たちにとっては走って「いっとうしょう」になることなんて、全く意味がないはずなのだが、そのへんが自分たち人間の日常の戯画になっていて、意味深だった。
強風で生命の危険に晒された「花さん」を競争に夢中になって無視してしまう。
もともとマラソンに乗り気でもなく、たらたら最後をいくブタさんが花の異変に気が付き、2匹にも呼びかけて救うわけだが、最後まで「いっとうしょうばんざい」の価値観からぬけていないのが教訓ぶっていなくて良かったと思う。
競争は否定しない。
だが他にも大切なことはたくさんあって、そのバランスは必要ですよ…というところだろう。
「たかが」だが「されど」である。
幼児だけでなく、結構大きい子もいたけど、それなりの解釈でみたことと思う。

いつもながら人形はかわいく、俳優さんたちは走り回っての大熱演だった。

会場の入り口では消しゴムスタンプを自由におせるコーナー。
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posted by あひる★ぼんび at 23:42| Comment(0) | 劇場