2017年12月12日

ペルシャの市場にて

言うまでもなく「ペルシャの市場にて」はイギリスのアルバート・ケテルビー(1875〜1959)が1920年に書いた「名曲」。
20世紀中はそこそこの数の録音リリースがあったし、小学校の鑑賞教材でもあり、誰もが知っている曲だった。
大英帝国的視点のみで中東を描いた6分間ほどの音の絵巻物で、そこには異国文化への強い憧れも溢れていて、差別意識で不快になることはない。その憧れの方向が明快で、無邪気を装っているので、誰でも理解できる楽しさがある。まあ、だからこそ鑑賞教材に選ばれたのだろう。
ペルシャ(イラン・イラクあたり)は本来、強国である。長い間、中東の小国を支配し君臨する支配側でもあったのだが、英国の国力はそれに勝った。この曲が発表された翌年にはイラクに傀儡王政をひき、委任統治領としている。オスマントルコからの「アラブ解放」は大英帝国にとっての大義名分であり、おいしすぎる利権だったのだ。この曲もそんな時代に便乗し、遠回しのプロパガンダも含んだ「あだ花」ともいえそうだ。

自分がこの曲を初めて聴いた時は小3ぐらいだったろうか。
母が買ってきた「ホームミュージック集」のLPに入っていて、オーケストラではなく、日本人のエレクトーン奏者による演奏だった。
どうやら当時の僕は、そのLPの中ではこの1曲だけ気にいったようだった。
いろいろな名曲が入っていたと思うが、何が入っていたか全く覚えていないから、つまりそういうことだろう。盤は早くに処分してしまったので、これ以上のことはわからない。
とにかくエスニックな暑苦しさを癒すような「王女のテーマ」の優雅な下降音形、ゆるやかな盛り上がりが好きだった。

さて、久しぶりにLPレコードでこの曲を聴いた。
今回聴いたのは80年代の初めごろに発売されたホームミュージック15枚組BOXセットの中の1枚目、第1曲。
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「ペルシャの市場にて」
      〜珠玉のホームコンサート
ビクター・RCA・フィリップスの名盤より


(ビクター LP15枚組 国内盤)




このセットはビクターファミリークラブの企画で、誰もが楽しめる好演名演の定番を集めたもので、手抜きや切り貼り感のない選曲もすぐれている。これについてはまた後日書くが、まずは「ペルシャの市場にて」である。ボックスの装丁画がモーツァルト父子で、メインタイトルと関係ないし、中身もあまり古典派よりでないのはご愛嬌か^^;

「ペルシャの市場にて」の演奏はアーサー・フィードラー指揮、ボストン・ポップスの名盤として知られる1950年代末の録音。活気にあふれ、聴き手へのサービス全開の演奏だ。
団員による「物乞いの合唱」とガヤがノイジーで粗野で良い^^。
王女のテーマも雄大優雅。これぐらい恥ずかしげなく盛り上げてくれると、この曲のちょっと不誠実な、怪しげな味わいも伝わってきて、それも良いと思う。
娯楽と芸術の境界線が曖昧なのは、つまり優れている証拠、本物の証なのだ。
昔はこんな演奏が沢山あった。それを聴いて、音楽が好きになった。
そのことを思い出させてくれる演奏だ。
つくづく、音楽が好きで良かった♪今、聴く喜びを改めて実感している。

posted by あひる★ぼんび at 23:57| Comment(0) | 音楽

2017年11月25日

全年齢例会「世界一の口笛ショー」

口笛コンクールの国際大会なるものがあることは以前から知っていたし、これまでに優勝者の柴田さんや武田さんの実演に直接接する機会もあったので、その凄さは実感していた。
歌手が生まれついての自分の体を楽器として芸術を創り上げ、勝負するように、口笛も自分の体の機能操作。
誰でも持っているが、そう簡単に制御できない楽器なのだ。
なかなかに奥深い。

今回の例会は「レッド・ベコーズ」
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口笛の国際コンクールで連続優勝の経歴のマリリンさんと、ポリシンセを駆使する「音楽性」をもって強力にそれをサポートするキーボード奏者カナピーさんの約1時間のコンサート。
静かに芸術を鑑賞するコンサート、というより幾分「演芸」よりか^^
人形やオルゴールを用いる「静」を感じた柴田さんや、クラシック曲を正確に口笛に置き換えていた技巧派の武田さんとも全く異なるスタイルで、東北訛りの朴訥なトークと漫才のような掛け合いが新鮮だった。
なんでもこの日、東北は異例の大雪で、関東人には想像できない状況になっていた。
それでもこうして演奏に来てくれる。ありがたいことだ。

お客さん共演。
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かおりちゃんの息子、カッコいい♪

クライマックスはマリリンさんによる突然の「夜桜お七」の熱唱♪
驚くほどうまかった。
普通なら難しめの口笛の大曲を披露するよなぁ。そうしない意外性もいい感性だ。
カナピーさんは演奏をシーケンサーに任せて自らは花吹雪を蒔く、
田舎の演芸会演出もツボだった^^

いつものように当番の子ども達からのプレゼント。
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ロビーには事前のとりくみで作った牛乳パックで作ったべこ人形も飾られ、とても楽しい例会だった。
posted by あひる★ぼんび at 23:05| Comment(0) | 劇場

2017年11月24日

北欧のジャポニズム作品

19世紀末、日本が開国し、一気に大陸に押し出したことで、世界中がこの「独特な文化を持つ小国」に注目した。
それまでトルコやイスラム圏、インド、中国を題材にしたオリエンタリズム作品は数多かったが、その「火」に油を注ぐ感じで、多くの芸術家がこの異形文化を作品に反映させようとした。
クラシック音楽のオペラの有名どころではサリバンの「ミカド」、プッチーニの「蝶々夫人」、マスカーニの「イリス」等があり、それらからは「外国人から見た日本のイメージ」をうかがうことが出来て興味深い。
まあ、いい加減な思い込み、偏見と誤解のオンパレードなのだが、不思議と「憧れ」が散りばめられていてそんなに嫌な感じはしない。

フィンランドの作曲家、レヴィ・マデトヤ(1887〜1947)はその流行の波に少し遅れて、1927年に「オコン・フオコ」というバレエ・パントマイムを発表する。
彼は中央ヨーロッパ旅行中にたまたまこの脚本に出会ったようだ。
この作品のあらすじとしては「コッペリア」の舞台を日本に置き換えたものと思えばわかりやすい。

人形師オコンフオコは自分の理想の女性像を反映した人形ウメガワを造る。
この人形に全霊を込めたためか、とある嵐の夜、そこに「魂」が宿り、人形は息づき始める。
やがてウメガワはオコンを誘惑するようになり、オコンもすっかり魅せられてしまう。
そうなると穏やかではないのはオコンの妻イアイ。
奇妙な三角関係となり、いざこざが起こる。
騒動を聞きつけた友人たちがオコンのもとを訪れると、過ちを悔いたオコンはすでに自刃しており、狂気に堕ちた妻イアイがウメガワを切り刻んでいるところだった…

組曲版はいくつか録音があるようだが、全曲となるとこれだけか。
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マデトヤ:
バレエパントマイム「オコン・フオコ」op.58(全曲)

ヘレナ・ユントゥネン(Sop)
トゥオマス・カタヤラ(Ten)
オウル交響楽団 オウル室内Cho
アルヴォ・ヴォルメル(指揮)
(ALBA フィンランド輸入盤)



主役名の「オコン・フオコ」は日本的に思える音を羅列しただけで、特別な意味はなく、対応する漢字もないらしい。
「ウメガワ」は近松の人形浄瑠の登場人物「遊女梅川」からだろうか。
「イアイ」は居合という言葉からの着想だろうか。
楽曲は短い曲の集合体で、ソプラノ・テノール・合唱・管弦楽による80分近い大規模なものになっている。
マデトヤはそれほど強い個性的なサウンドを提示する作曲家ではないので、全体的には少し聴きなれない音を導入した「地味な大曲」。
音響的には「いつものシベリウス人脈のもの」なのだが、時代を反映したのか、音の並びに不自然な跳躍がある。
この時代の北欧管弦楽曲として聴けば、問題なく楽しめる。
特にシベリウス的な音が好きならばマデトヤは決して期待を裏切らないだろう。

マデトヤの日本に対する認識はせいぜい「日露戦争でロシアに勝った小国」「第一次大戦に便乗して南洋のドイツ領をせしめた国」程度だったはずだ。
日本と、中国・韓国の文化の違いなど、理解していないようだ。
この曲も妙なところで銅鑼が鳴ったり、シロフォンなどの扱いがまるで日本的ではない。
日本人だってフィンランドとスウェーデンとノルウェーの文化の違いを語れる人なんてほとんどいないだろう。それと同じなのだ。
ハラキリという題の曲があったり、ゲイシャも出てきたりと、なにやら「日本らしきもの」のステレオタイプをちりばめただけの脚本にそのまま附曲したようで、文化的な考証不足で日本人からしたら支離滅裂、外国人には深い理解は不能…その辺の弱さがこの曲を舞台での実演から遠ざけているようにも思えた。
この作品の少し前にドイツのオルフが書いた日本題材のオペラ「犠牲」では、理不尽な武家の美徳(君主の為に自らの息子の首を差し出す)を描いていた。「正しい道徳とされるものが最も悪魔的な結果を生む」という展開は日本人にはさほど抵抗がなくても、西洋人には何よりショッキングかもしれない。
彼等には日本は常に不思議の国。その不思議さが創作意欲を掻き立てるのは確かではあるのだが。

posted by あひる★ぼんび at 23:33| Comment(0) | 音楽

2017年11月15日

DENONのプライ・プロジェクト

日本コロムビアは1983年ドイツに進出、デノンジャーマニー・エレクトロニックを設立した。
すでにヨーロッパでの「録音」は開始していたが、そういった出張録音ばかりではなく、本腰を入れて最先端のデジタルオーディオ技術を売りこむ目論見だった。
しかし、当時のコロムビアのカタログは東欧・東独・フランスのアーティストが中心。
一般のドイツ人にはまるで馴染みがないものであることに気づき、思案したそうだ。
議論の上、「大物ドイツ人アーティストを起用してアルバムを作ろう!」ということになり、(どういうわけか)プライに白羽の矢が立った。
プライは日本コロムビアにしてみればオイロディスク・レーベルを通じて馴染みのアーティストであり、1960年代から数多くのアルバムを発売してきた経緯もあったのだろう。
間もなく同社の副社長西村氏の推しと英断で交渉がスタート、録音スタッフも世界的に名の通った技術者ヴォルフ・エリクソンを起用、かくして「3年間7枚」+1枚の集中的なプロジェクトが実行された。

これは在ドイツ企業にとっても英断なのだ。
現代のドイツ人にとっては「ドイツリート」は必ずしも親しみのあるものではない。
「菩提樹」や「野ばら」のように半ば民謡化した曲はともかく、古典的なドイツ語の古風な言い回しは、よほどの文学好きでなければ馴染みがなかった。
戦後、ディースカウやプライの登場によって「かろうじて」その灯は消えずにすんだが、リサイタルはもはや満席は望めず、すっかり過去のものとなってしまっていたのだ。
…とはいえ、これらはドイツが誇る伝統文化には違いなく、理解する素地は充分あるはず。
ある意味、めったに聴けない=新鮮ととらえることも可能とあれば、CD時代に移行する時期にディスカヴァリーの意味も込めて新譜発売を試みるのもひとつの開拓になると発想したのだろう。
実際のところ、インバルのマーラーやヴァイルのモーツァルトはそこそこの売り上げがあったようだし、シューベルト、シューマンもプライ円熟期の再録音、しかもそれが「日本企業の企画」ということで、各方面の注目を集めるのに成功したのだった。

ラインナップはこうなった。

@シューベルト「冬の旅」(ピアノ:ビアンコーニ)
Aシューベルト「白鳥の歌」(ピアノ:ビアンコーニ)
Bシューマン「詩人の恋」「リーダークライスop24」「ハイネ作品集」(ピアノ:ホカンソン)
Cシューベルト「美しき水車小屋の娘」(ピアノ:ビアンコーニ)
Dドイツリート名曲集「愛の歌」(ピアノ:ホカンソン)
Eシューマン「リーダークライスop39」「ケルナーの12の歌」(ピアノ:ホカンソン)
Fモーツァルト「オペラアリア集」(指揮:ヴァイル)
*マーラー「交響曲第8番」のソリスト(指揮:インバル)

「DENONのオーディオ機器の発表会に彼がゲストで登場すると、マスコミは騒然とし「プライが録音した日本の会社DENON」の認知度は急上昇した」とのこと。
60年代から80年代のプライのドイツでの人気は予想以上だったのだ。
彼はオペラの大スターであり、リートの名手、そして何よりTVでお馴染みのタレントでもあった。
口の悪い評論家諸氏からすれば何やら色物扱いだったかもしれないが、世間の人気、ドイツの一般人からは断然の支持を得ていたのだ。
売り上げが充分だったかははどう考えても微妙だろう・・・が、宣伝効果は抜群だった。
オペレッタやオペラを中心に企画したならまた違ったろう。すでにプライはこの頃にはU音楽から手を引くことに決めていて、そちらをオファーしても無理だったろうけれど、時期をもう少しひっぱることができれば、のちに日本コロムビア専属となる鮫島有美子とのオペレッタアルバムなども可能だったと思われる。
なお、同時期1985年にはサヴァリッシュとのベートーヴェンリート集がリリースされている。これはDENONが1980年と1981年にPCM録音したものだったが、「オイロディスク社企画のライセンス」ということで、このプロジェクトには含まれない。

個々の盤についてはおりおり触れようと思う。直前から同時期にわたるインターコードへの連続録音(レーヴェ・シューベルト・ブラームス・バッハ)と共に、これまでの歌唱スタイルが大きく変化した時期の物であり、かつてのプライのイメージとは若干違って感じる。
もともと深い響きを持った声が、表層の柔らかさが弱まった分強調され、逞しさと渋さを感じるものとなっている。

これらはLPからCDに移行していく頃のものであり、それぞれほぼ同時期の発売だった。
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とにかく日本コロムビアはこの最新メディアに力をいれようとしていた。
金額的にはLPの販売価格とリンクさせ、安めに設定していた。
「冬の旅」は3800円、「詩人の恋」は3500円で、どちらもスリップケース入り別冊解説書付にして、LPレコードの重厚な仕様を損なわずに移行させようという努力も見えていた。
CDの音は軽く薄く、少々珍妙な気がしたが、「高音質」と言われてしまうと装置との相性なのだと勝手に納得するマジックもあった。
厚みや暖かみは劣っても、チリプツ音にヒヤヒヤせず聴けるメリットは感じたものだ。
多くの音楽愛好家がCDへの切り替えを迷っていた時代。
今では遠い昔のことのように思える。

posted by あひる★ぼんび at 23:37| Comment(4) | プライ

2017年11月04日

文集仕上げ、まゆ実長がんばる!

土曜夜は予定通り「にがりの会」の場をかりてキャンプ文集の仕上げ。
まゆ実長のがんばりで見事原稿は形になった。

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なにしろ合宿&キャンプの文集は昔ながらのアナログ作業。
手書きイラスト、切り貼り写真とハガキコピーで構成している。
このデジタル時代に貴重な世界だと思う。
考えてみれば、行事自体も昔ながらのスタイルで、
「手間をかける」ことを大切にしているわけなのだ。

今年の文集もあとは印刷を残すのみだ。
今年は合宿もキャンプも行けなかったけど、来年は参加したいなぁ。

*******

はむはむさんが取材中にトラブルに巻き込まれたらしい!!
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大事なかったようだけど、オンエアは未知数とかw

posted by あひる★ぼんび at 23:41| Comment(0) | 劇場

2017年11月02日

フィリップス「プライ・リートエディション」〜第4巻

第4巻はほんのわずかに間をあけて1975年にリリースされた。間といっても1年なのだが、この間にメインの会社形態が変わり、BOX裏には大きくPolyGramのロゴマークが入った。
業界としては各社新しい録音方式「デジタル録音・PCM録音」の研究を進めていて、まだそれは製品となるには数年時間が必要だった。10年の後、CDがLPに取って代わろうなどと誰に想像できたろう?
激動期直前の短い安定期であり、同時に廉価で手間をかけない製品をメインにしていく「合理主義」が蔓延し始める、そんな時代だった。
なにしろ新譜レコードの盤は薄くベコベコ、ジャケットや解説も簡略化という、滅びの前の「進化という名の退化」が始まる時代でもあったのだ。

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プライ・リートエディション第4巻
「世紀の転換からの100年」

ヘルマン・プライ(バリトン)
カール・エンゲル、ヴォルフガング・サヴァリッシュ
ギュンター・ヴァイセンボルン、ミヒャエル・クリスト 他(ピアノ)
(独フィリップス LP6枚組 ドイツ輸入盤)





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プライ・リートエディションVol.4
「世紀の転換からの100年」

ヘルマン・プライ(バリトン)
カール・エンゲル、ヴォルフガング・サヴァリッシュ
ギュンター・ヴァイセンボルン、ミヒャエル・クリスト 他(ピアノ)
(独フィリップス 4枚組 ドイツ輸入盤)





このシリーズの場合、そんな時期に片足をつっこんでいても、第1巻からの雰囲気を継続させることは困難ではなかったろう。
もともと解説書は黒朱2色刷り、ボックスのつくりも布張箔押しではなく、圧縮ボール紙にツヤありコートを張った簡素なものだった。ハードカヴァーの解説書も当初は計画されたようだが、結局実現していないし、堅実にというのが、統一感を保つ秘訣だと、進言する人がいたのかもしれない。
選曲については監修のリヒトホルン博士もプライも、最大限の工夫と努力をしているのがわかる。
作品の重要度だけで選ぶのではなく、プライ自身が「歌いたいかどうか」が大きく作用しているのだ。
文献論文ではなく、レコードという娯楽要素を持つメディア・・・聴き手に配慮する内容と分量バランスは必要だとおさえていたのだろう。
ただ、この4巻に関して言えば、Rシュトラウスから現代までの100年を俯瞰するのにLP6枚(CD4枚)は少なすぎる気がする。録音当時まだ存命中、あるいは評価の定まらない作曲家たちであり、背景にある政治思想面も無視できないものが多くなった時代のものとはいえ…である。
Rシュトラウスはプライとしては最大の20曲をとりあげている。艶やかな声と、広い声域、強弱の見事さはRシュトラウスの音楽の良い面を描き出すのに恰好だ。ディースカウより数倍、ぴったりしていて、本当ならば全集を試みてほしかったが、これ以降、映像作品やステージ以外ではまとまった数を披露することはなかった。
プライはドイツ語の響きを見事に感情とリンクさせることが得意で、それによってプフィッツナーから抒情と哀愁を引出し、新ウィーン楽派だろうとツェムリンスキーやフォルトナーなどだろうと「うた」として聴かせてくれる。
録音当日、たまたまプライに不調があったとしても、この時代の音楽が持つ不安(定)な音の並びでは、聴き手にはそこまでわからない。オシロスコープを設定して楽譜にかじりついて鑑賞する人はいないだろうし、音楽の正しい鑑賞態度でもない。大切なのはその音から何が聴き手に伝わるか、だろう。
思えばプライの歌唱自体がいつも聴き手の鑑賞態度を問うものだったように思う。
「うたびとプライの芸術」を楽しむには聴き手にも「うたごころ」が必要なのだ。
好きになれなかったら「うたごころがない」などとは言わないけれど、少なくともここのスラーの位置が違うとか、付点の長短とか、拘りたい人は別の歌手を聴けばいいと思うだけだ。
理論だけで音楽を理解しようとする人には向かない気がするのだ。

収録している曲の作曲家は以下の通り。
Rシュトラウス/プフィッツナー/マーラー/キーンツル/ヴァインガルトナー
ブレッヒ/グレナー/マッティセン/ヴァルター/レーガー/シュレッカー/ハース/トゥルンク/
クナープ/マルクス/シェック/コルンゴルト/サルムホーファー/シェーンベルク/ヴェーベルン/
ベルク/ツェムリンスキー/ハウアー/ヴェレス/アイスラー/ツィリヒ/イェリネク/ヒンデミット/
クシェネク/ロイター/ロタール/ブラヒャー/フォルトナー/アイネム/ツヴェトコフ/グルダ


共演しているピアニストはいつものカール・エンゲル、ヴォルフガング・サヴァリッシュ
久々のギュンター・ヴァイセンボルン、後に多数共演するようになるミヒャエル・クリスト
そして自作自演としてマルク・ロタール、ヘルマン・ロイター、エルンスト・クシェネク、フリートリヒ・グルダとなっている。

この全4巻27枚のアルバムはプライの歌手生活20年目の記録。
その時点での一断面であって、決して「総決算」ではない。あくまで道半ばなのだ。
上り調子が続くかに見えたこの後、過労や音楽祭失敗等、大きな試練が続くことになる。
プライはこのエディション完成後フィリップスを去り、補遺も追加録音も結局行うことはなかった。
以降はどこのレーベルとも専属は結ばず、「○年の範囲で○枚のアルバム製作」というスポット契約をすることになる。
エディションからおよそ10年ののち、50代の貴重な記録となるDENONの一連の録音はそうやって生まれたのだ。これについてはまたいずれとりあげたい。

posted by あひる★ぼんび at 23:40| Comment(2) | プライ

2017年10月28日

ハロウィン手前の土曜に

ハロウィンはケルト起源の土着信仰の祭りらしいが、要はカトリックの「諸聖人の日(万聖節)」のイヴであり、名称自体All Hallows eveが変化したものとも言われているようだ。
(カトリックもプロテスタント諸派もハロウィン自体は認めていない)。
そしてそのまた翌日は「信仰を持つ全ての死者の日(万霊節)」。いわばここから数日の「西洋のお盆週間」というわけだ。

ハロウィン前の土日がこんな台風で、お祭り大好き日本人には残念なことになってしまったが、それでも騒ぐツワモノもいるのかな?当日は平日夜になるわけだが騒ぐ人は騒ぐのだろうねぇ。
まあ、お盆もそうだが、なんでも祭りにしてしまう日本庶民のエネルギー&商魂を感じて、それもアリだと思う。

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そんな土曜の夜はキャンプ文集作り。
今年は参加人数が少なくて大変さもあったキャンプだったが、内容自体は濃く楽しく過ごせたようなのは感想ハガキからも伝わってくる。
今年は僕は説明会もデイキャンプも当日も不参加だったので寄稿はしていないが、せめてものお手伝いだ。
体調を崩している人が多く、しかも表は強い雨。しかたないだろう。
それでもだいたいの形にはなった。あと1回、「にがりの会」を借りて完成の予定。
中学生実長ふたり、文集作りまでほんと、お疲れ様!!
完成までもう少し♪

posted by あひる★ぼんび at 23:22| Comment(0) | 劇場

2017年10月22日

マルタンの音楽A

長い歴史に支えられた西洋の調性音楽のルールは、いつでも音楽に安心感と信頼性を与えるものだった。
近代以降の作曲家が率先して破壊しようとしたのはこの「安心感」だったろう。
創造を生業とする「芸術家」は、いつでも独自性と個性を追求する。
いくら追求しても既成のルールの中ではおのずと限界を感じるもの。
その限界と折り合いをつけながら音を見つけるのが本来のはずだが、壊すことで音楽の新たな展開に結びつくなどと考える時代があった。
それが20世紀だった。
しかし、生み出す意思を忘れて壊す刺激だけを求めるようになると、間違いに気が付く。
これは「逃げ」なのでは? と、その間違いに早々に気付き進路補正をした作曲家もいれば、マルタンのように最初から相応の距離を置いて、表現の範囲として12音技法などを扱った者もいた。
逆に、音楽を数学的に分解してほぼ「ノイズ」までつきつめてしまったツワモノもいた。
実に面白い100年だったと言えるだろう。

このアルバムは前に紹介のものに続く「自作自演集第2集」。
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マルタン:
ヴァイオリン協奏曲(1951)
ピアノ協奏曲第2番(1970)

    ヴォルフガング・シュナイダーハン(ヴァイオリン)
    パウル・パドゥラ=スコダ(ピアノ)
フランク・マルタン(指揮)ルクセンブルク放送管弦楽団
(VOX-ワーナー LP 国内盤)



ここにはヴァイオリン協奏曲とピアノ協奏曲という、大作2曲を収録している。
どちらも古典的なフォルムを持った曲だが、雰囲気そのものは第1集より「あぁ、現代音楽だ」と思えるものだ。
しかしいずれも「前衛」に走ることはなく、12音技法に近い形の音型に埋め尽くされてはいても、調性音楽という最終着地点を持っているのがいかにもマルタンらしい。
実はこれが「聴きやすさ」を生んでいる大きな要素だと思う。

まずヴァイオリン協奏曲。1951年の作品で、初演は翌年に名手シゲティによって行われている。
急―緩―急の伝統的3楽章の堂々たる佇まいだ。当然ながら、印象的なメロディがあるはずもないのだが、気迫で一気に聴かせる曲になっている。
「現代音楽」というくくりにもかかわらず、でこれまでに3回もレコーディングされているということからも、単なる作り手の自己満足ではなく後世に残りうる作品なのだと思う。
ピアノ協奏曲第2番はマルタンがパドゥラ=スコダのために書いた。79歳、1969年の作品。
「親愛なるパウル君―私の篤い友情と深い賞賛をこめて」と、初演の大成功へのメッセージを寄せている。
鋭角的でダイナミックな作品。ここでのパドゥラ=スコダは鮮やかに一気呵成に弾ききっている。
ふだん、ドイツ古典派の音楽をピリオド楽器を使って演奏する大家というイメージがあるのだが、どうやら彼にはもうひとつの顔があるようだ。
「パウル君が弾くのでなければ全く違う曲を作った」というぐらいだから、技巧派ヴィルトーゾの認識が強かったのだろう。
そんなパドゥラ=スコダは先日90歳の誕生日を迎えた。いつまでもお元気でいていただきたい。

現在では自作自演盤もCD化され、気楽に楽しむことが出来る。広く人気が得られる種類の音楽ではないけれど、真面目に生きた作曲家の足跡が消えずにすんだことは喜ばしいと思う。

posted by あひる★ぼんび at 21:10| Comment(0) | 音楽

2017年10月15日

シューベルティアーデ1978〜ATWガラコンサート

ホーエネムスでの「シューベルティアーデ」は本来、公共事業ではない。
個人が提案し、実行委員会による運営とスポンサー出資で成り立たせる私的事業のはずだった。
しかし、そうあるためには、シューベルトという「素材」は大きすぎた。
しかもその「大きさ」はバッハ、モーツァルトやベートーヴェンとは違う。決してグローバルなものではなく、「愛好家の偏愛」と「国家の誇り」に支えられたものだったのだ。
そこには名目と現実の乖離と矛盾があった。
だからこそ、プライは世界初のシューベルトのみの音楽祭を創始することで、シューベルトの真の姿を示す「ディスカヴァリー・シューベルト」を試みたかったのだ。

プライは発案発起人ではあったが、音楽祭が動き出してからはすでに発言権はまるでなかった様子だ。
いちばんの誤算は「シューベルトの全作品を作曲年代順に演奏」の発案コンセプトが最初から反故にされたことだろう。これは私的なささやかなコンサートを繰り返すことで出来る話ではなかった。
にもかかわらず…ある意味で彼らしいおっちょこちょいを発揮して、彼は最初の3年程「ならば」とばかりに自分のリサイタルを中心に据えてしまったのだった。
プライがディースカウのような「網羅主義」だったら、片っ端から歌うことで、反故にされたコンセプトをわずかでも取り戻す言い訳もたったろうが、レパートリーへの拘りからそれもならず、結果的に3大歌曲集とゲーテ・シラーをメインにした、いつもの得意のプログラムを繰り返し歌うことになった。
プライらしいその暖かな歌唱は世界から多くの称賛を集めたものの、一部からは出演バランスの問題で顰蹙をかってしまった。そこには例によって彼の感情的な対応(癇癪?)もあったのではないかと心配になるところだ^^;

音楽祭の大きなスポンサーのひとつでもあった「オーストリア・タバコ」は当時のその企業力で、音楽祭期間に独自のガラコンサートを毎年継続していた。
ホーエネムスに「シューベルティアーデ」目当てに世界中からやってくる人たちはこちらも楽しめたわけだ。

これは9月16日のガラコンサートの様子を収めたレコードである。
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シューベルティアーデ1978〜ATWガラ
   ヘルマン・プライ(バリトン)
   エッダ・モーザー(ソプラノ)
   ローマン・オルトナー(ピアノ)
   ヴィーンシューベルト合唱団
   アルバンベルク・カルテット
   パウル・ハドゥラ=スコダ(ピアノ)
(ATW LP2枚組 オーストリア輸入盤)




一見、ただの顔見世ハイライトのようだが、音として聴くと、なるほど、と頷ける「静かな祝祭」の雰囲気。シューベルトへの愛着に満ちた空気に満たされ、充実した時間を体感できる。

曲目はこんなふう。
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魔王/菩提樹/セレナーデ/シルヴィアに/音楽に寄せて/
ミューズの子/「美しき水車小屋の娘」から3曲
酒の歌/おやすみなさい/愛と光

   ヘルマン・プライ(バリトン)
  ローマン・オルトナー(ピアノ)
  ヴィーン・シューベルト合唱団
笑いと涙/男は皆悪者/野ばら/
緑の中で/至福/ます

   エッダ・モーザー(ソプラノ)
  ローマン・オルトナー(ピアノ)
即興曲op142-2/ソナタop120〜第1楽章
楽興の時第3番

   パウル・パドゥラ=スコダ(ピアノ)
弦楽四重奏曲第13番「ロザムンデ」〜第2楽章
  アルバンベルク・カルテット


ここでのプライの調子はなかなか良い。リラックスした雰囲気に、多くの人が期待する「ときめき」を感じる声がシューベルトへの愛情を伝えてくれている。リサイタルではないので声のアイドリングは許されず、基本的にはいきなりMAX勝負のスタンスだが、その中にも70年代半ばからの彼の大きな変化のひとつが表れているように感じた。バランスを重視し、美声なだけの歌手ではないことをアピールしているようだった。

ホーエネムスのシューベルティアーデは彼にとっては確かに「失敗」だった。しかしその出発は注目を集め、このガラのような派生行事を多数生み、それをきっかけにヴィーンで、ニューヨークで「シューベルティアーデ」を実施することになった。ディスカヴァリー・シューベルトにおけるうたびとプライの業績はやはり大きかったのだ。

posted by あひる★ぼんび at 11:00| Comment(4) | プライ

2017年10月08日

秋のはじめの

今回で9回目だという「花咲くおはなし会」
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小手指公民館分館を会場に東日本大震災復興チャリティーとして続いている暖かなおはなし会だ。

絵本のよみきかせやパネルシアターだけでなく、毎回バラエティに富んだ出演者で楽しめる。
今回はおおだちパパのクラリネット演奏に始まり、絵本よみきかせ、指笛、パネルシアター、
そして若者達のサークル「わるだ組」によるマジックやジャグリングのパフォーマンスショー。
本当に盛りだくさんだった。

ピアノの生演奏にのせて語られた「おたのしみじどうはんばいき」
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堂々としていて流暢で明快な声が心地よく、すてきだった!

こちらも生効果音つきのパネルシアター「三まいのおふだ」
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あのはなしって、おふだの効力が疑問なんだよなぁ・・・^^;

「わるだ組」はひとつひとつの芸の技量が高いのだけれど、それをまとめる演出のユルさと楽しげなノリが文化祭っぽくて、それがとても好ましかった。

出演者集合!
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暖かくてすてきな時間をありがとうございました!
次も楽しみにしています〜♪
posted by あひる★ぼんび at 23:22| Comment(0) | 日記