2021年07月11日

92回目のバースディ

プライは1929年7月11日ベルリンの生まれ。
preyはドイツ語としては「獲物」「狩猟」を意味する語だが、姓としてはそれほど多くはなく、外来姓の可能性が高い。―ey の語尾自体がドイツ語的ではないのだが、例外的に、富豪や貴族の家系は語尾に―eyをつけることがあった。オランダやベルギーあるいはイタリアの有力一族がドイツに根付いた、その子孫の可能性も高い。
実際、代々プライ家が経営する大規模精肉商社はかなり羽振りが良かった。
プライの父は「どんな道でも究めればよし」ということで、息子が音楽の道を歩むことに反対しなかった。・・・というより、そもそも商人になる為の実業学校ではなく神学関係のギムナジウムに入学させている時点で、息子には自由な道を歩んでもらおうと思っていたのだろう。激動の時代や、ナチスの不穏な動きの中で、息子が歩むべきはどういう道か・・・
プライは、父のことはそれほど多くを語っていないが、偉大な父親だと思う。

プライの人生は決して順風満帆ではなかったはずだが、堂々と生き、
音楽の道を究めた。

prey-porss.jpg

プライは80年代ごろから、シューベルト最晩年のホルン助奏付リート「流れの上で」を度々ステージに上げるようになっていた。レルシュタープの詩による9分位の作品で、主要なメロディは前年に亡くなったベートーヴェンの英雄第2楽章をベースにしているとも言われている曲だ。
「1828年の作品集」として「白鳥の歌」と組み合わせたり、近い時代の作曲家達の器楽オブリガート付リートとまとめてリサイタルを組むこともあった。
荒波に翻弄され、葛藤しつつ、やがて大海に出て天空に輝く星を見る、まさに人生のメタファー。
プライが晩年に近づくにつれこの曲を歌うことが増えたのは、作品の核心への共感が大きかったのだろう。

http://ahirunooto.sakura.ne.jp/d943.mp3
ピアノ:レオナード・ホカンソン ホルン:クラウス・ヴァーレンドルフ
1981年10月10日バートウーラハ (HMT81-2とHMT84-1の2種の現地限定アルバムに収録)
(mp.3対応のブラウザの方はそのまま聴くことができると思います)

どちらのCDの裏ジャケもピアノはヘルムート・ドイチュになっている。
しかし実際はこの日の演奏会はホカンソンだった。
ドイチュは82年からこの音楽祭に参加している。別日に同曲を共演していた可能性もあるが、それよりは、このCD自体が1982年や84年の演奏会からの音源を数曲加えた編集盤で、それらはすべてドイチュが弾いていることからくる誤りだったのだろう。
ちなみに中面の曲目表記はホカンソンになっている。おそらくこのCD製品化には複数のテキスト編集者がかかわっていたのだろう。受け手の自分たちは表示されているデータを信じるしかないわけだから、正確な記録を心がけてほしいものだ。
posted by あひる★ぼんび at 22:18| Comment(0) | プライ

2021年02月28日

97年日本でのシューベルト連続演奏会

https://www.youtube.com/embed/SMf99RKsAas
(消去されました)

1997年1月〜2月、プライは来日公演を行い、シューベルトの作品を連続演奏した。
前年末あたりから、体調不良を実感していたようだが、シューベルトイヤーを記念したこの企画は実行された。
「冬の旅」のオーケストラ版のドイツ圏及びワールドツアーと同時進行で、
明らかに体力を消耗させていたが、
それでもそこまで無理をしたのは意識的か無意識か、タイムリミットを感じていたのだろう。
70歳を前にした単純な焦りとは異なるのは明白だった。

この演奏会の3大歌曲部分はNHKが記録編集し、テレビ放映された。
したがってyoutubeでは所詮違法アップロード、遅かれ早かれ間違いなく消されるものである。

当時も、今も話題になる「白鳥の歌」のミスはオンエア時には修正されている。
終演後、倒れこんだプライに、NHKが編集用素材の部分的な撮り直しを要求した話は以前もここでとりあげた。この放送に関しては、ホームビデオに残した人も多かったと思うが、命の灯火を燃やしつくすように歌ったステージの記録である。ぜひ早期に製品化を望みたい。

4月追記:案の定、動画は削除されたようだ。
逝去した人は、そのままでは「過去の人」になってしまう。記録された映像や録音物は「存在していたこと」をリアルに感じさせてくれる唯一のタイムマシン。
製品化が無理でも、本当に、図書館的にでも閲覧可能なライブラリーを構築して欲しいものだ。

posted by あひる★ぼんび at 14:21| Comment(2) | プライ

2021年02月18日

若きドミンゴとプライのボエーム

2021年3月2日をもって「さくらのブログ」新規アカウントの受付を終了いたします。
パーソナルホームページに続き、いよいよブログの時代も終わりなのかな。
情報発信の主軸の移動は時代の流れには逆らえないわけで。
さくらがサービスを継続してくれる限り、ここは続けるつもりだが、以前の3つのサーバー会社のように「突然消去終了」もあるから油断できない。それらは有料無料関係なしだった。業界の常識なのか?

+++++++++
1970年代、若きプライとドミンゴの共演。ドイツ第2放送のTVオペラ番組。
プッチーニの「ラ・ボエーム」である。
これも多くの作品と同様、作曲者のコンセプトを損なわない程度に、ストーリーや登場人物を省略し、そこはナレーション等で補っていた。
これより以前の「ラジオオペラ」と同様にオペラの本質には「娯楽」があることを理解させてくれるシリーズだった。プライは常連だったが、ドミンゴはちょっと珍しいかもしれない。
元バリトンのドミンゴと、テノールも歌えるプライの音域はそれほど遠くないはずだが、モーツァルトやドニゼッティのアンサンブル曲が得意だったプライに比べ、ドミンゴは声の存在感と艶を優先していて「合わせ」が苦手なのがわかる。


https://www.youtube.com/watch?v=SWjYYRP0Bes

人生においても「一途な愛妻家プライ」と、現在「多数のセクハラ訴訟を抱えるドミンゴ」では生き方も大きく違ったようだ。いやまあ、そこは価値感の違いであって、彼らが生み出す音楽の質とは関係ないのかもしれないが^^;
そんな二人の歌の共演が映像で残っているのは貴重だと思う。
(映像として知られているプライのアイゼンシュタイン、ドミンゴ指揮の「こうもり」は楽しかった)
posted by あひる★ぼんび at 19:39| Comment(6) | プライ

2021年01月17日

春に向かう

2回目の緊急事態宣言のあと、生活の何が変わったのか、まるで曖昧なのが不思議であり、むしろ恐ろしく思う。
すでに自分の仕事は破綻していて、たぶん今後はサバイバル戦が続くだろう。
生であれ録音物であれ「音楽をゆっくり聴く」というありふれて容易なはずの行動が難しくなっている。
これは物理的な問題ではなく精神的な要素がありそうだ。
さらに最近は、空も見上げず、風景を眺める余裕も失っていた。
心のゆとりや潤いを大切にしたい。
季節の変化を忘れてはいけない。やがて春が来る。

フローリアン・プライの歌、ノヴァーリス四重奏団による"Die Möwe und mein Herz"(カモメと私の心)

https://www.youtube.com/watch?v=7McXE4_mLU8

この曲はテオドール・シュトルムの詩にアドルフ・クルト・ベームが付曲したもの。
シュトルムは北ドイツに生まれ、その風土を愛した。
この詩は韻としてenなどを多用して、北欧言語風を演出しているように聞こえる。
ベームはヘルマン世代、1926年生まれの作曲家で、昨年2月に逝去した。

こういった作品をレパートリーに入れるのも父親譲りだろうか。
ヘルマンが心を癒すのに使っていた別宅を引き継いだフローリアン。
彼もまた、森や湖や自然を愛好するようになっているようだ。


Die Möwe und mein Herz

Hin gen Norden zieht die Möwe,
Hin gen Norden zieht mein Herz;
Fliegen beide aus mitsammen,
Fliegen beide heimatwärts.

Ruhig, Herz! du bist zur Stelle;
Flogst gar rasch die weite Bahn -
Und die Möwe schwebt noch rudernd
Überm weiten Ozean.

カモメと私の心

北へと渡っていくカモメ
私の心も北へとはやる
両方共に飛びたち
両方共にふるさとに向かう

落ち着け 心よ ここにとどまれ
あなたは急ぎ遠い道をやってきた
カモメは今なお羽ばたきながら
大海の上を飛んでいる


だいぶ意訳になってしまったが、ニュアンスはこんな感じだ。
映像アーティストでもあるフローリアンの静かで美しい動画である。

posted by あひる★ぼんび at 14:32| Comment(4) | 音楽

2021年01月04日

2021年、夜明け

明けましておめでとうございます。

20210101_0654ss.jpg

新しい年の夜明け。
ベランダから1日6:54に撮影。

世がどうであれ、変わらず陽は昇り、歴史が積み重ねられていく。

去年「新しい生活様式」とか「ウィズコロナ」とか、突然のように生まれた言葉たちが正義を主張し始めた。
だが、自分は、コロナを肯定的に捉えるべきではない、と考える。まして、共存していいはずがない。
あくまで抗う手段、撲滅への道筋としての、「生活様式の臨時変更」なのだ。
人と人とのふれあいを排することの先に、明るく楽しい未来のくらしはない。
これに慣れてしまうのは恐い。
これから、これを常識として育つ子ども達の未来について、政府や教育の専門家はどう対策するのだろう。
多分、すぐには現れないその影響は、明確化した時には結構シビアなことになるのでは?
心のリカバリはワクチン開発や経済対策よりずっと難しいのだから。

新年の不思議と爽やかな大気の中で朝日を眺めながら、そんなことをあれこれ考えた。
自分はどうするのか。どうするべきなのだろうか・・・。



posted by あひる★ぼんび at 22:05| Comment(2) | 日記

2020年12月27日

2020年は・・・

今年、世界は想像できなかった事態に陥ってしまって、当然自分の生活も大きく変わった。
仕事として音楽に関わってもいたが、これが成り立たず、当然、趣味としての音楽からは遠ざかることになった。
来年、どうなるだろう。
年代わりは「節目」ではあるが、実際は連続した時間なので、デジタル的な突然の変化はないだろう。
生き続けるためには、着実に対処せねば。

今年、このブログも更新回数が激減してしまった。
各種の子ども関係の行事から手を引き、音楽もほとんど聴けていない現状では、今のところ「来年は頻度をあげよう」・・・などとは言えないけれど、諦めているわけではない。もう少しどうにかしたい^^;

***********

フローリアン・プライの歌で、シューマンの「月の夜」
リーダークライスop39はフローリアンの父へルマンのデヴュー時からのレパートリーで、エレクトローラからリリースしていた。
カセットに録音したその歌唱を、フローリアンは少年時代から愛聴していたという。
親子だし、当然解釈上も影響はあるだろうが、プロレスラー体型でしっかりした顎の父と、長身細身で顎も小さめのフローリアンでは共鳴が全く異なる。良し悪しではなく、それが個性というものだろう。
あまり父親と比較して語るべきではない。彼ももう60代半ばである。


https://www.youtube.com/watch?v=NY2HBAQ0S9w

月の夜   アイヒェンドルフ:詩

それは まるで 空が大地に
静かに口づけしているようだった
花に彩られた大地が
わたしを夢見てくれるようにと

そよ風が野を渡り
麦の穂がかすかに揺らめいて
森はひそやかにざわめいていた
それは星の瞬く夜だった

そしてわたしの魂は
大きく翼を広げ
静かな世界の上を羽ばたいた
まるでわが家へ帰っていくかのように

Es war,als hätt' der Himmel,
Die Erde still geküßt,
Daß sie im Blütenschimmer
Von ihm nur träumen müßt.

Die Luft ging durch die Felder,
Die Ähren wogten sacht,
Es rauschten leis die Wälder,
So sternklar war die Nacht.

Und meine Seele spannte
Weit ihre Flügel aus,
Flog durch die stillen Lande,
Als flöge sie nach Haus.


posted by あひる★ぼんび at 11:48| Comment(2) | 音楽

2020年09月06日

思い出のレコードからI〜若きフェラスの演奏

続けて、前記事ペナリオと同時期に購入のもの。

ferr-me.jpg
チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調Op.35,
メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲 ホ短調Op.64


   クリスチャン・フェラス(ヴァイオリン)
   フィルハーモニア管弦楽団
   コンスタンティン・シルヴェストリ(指揮)
(セラフィム LP 国内盤)




実は、最近ネットオークションでその2枚を落札し、再鑑賞の機会を得たので、この記事を書いている。
ペナリオのグリ&ラフもこのフェラスのメン&チャイも、CDを買い直すことはしなかった。
「これでなくては…」というインパクトではなかったというよりは、レコードで満足できたことや、次々に現れる新盤からのチョイスを優先してしまったためだろう。

fer-jun.jpg
独奏のクリスチャン・フェラスは1933年生まれ。1982年に49歳で没したフランスのヴァイオリニスト。
フェラスは若い頃は、並はずれた技量と、端整なルックスでスター奏者となり、EMIやDGに多数の録音を残した。
ただ、神経質な性格が災いして、過度の飲酒癖と鬱病をかかえていた。
自宅ビルから投身というショッキングな人生のピリオドを迎えるまで、コンサートは続けたものの、世間の演奏評価は安定しなくなっていたようだ。
この盤の録音は1957年。ここから感じる「自由な歌心」は光っていて、今も色あせることはない。
この後の一連のDG録音の、メーカーや指揮者を忖度してしまったようなものより、ずっと良い演奏に感じた。
「良さ」というのは演奏精度とか録音の状態だけではない。フェラスが上り調子だった時期のこの盤は、とにかく演奏することに喜びが溢れているようで、美しく颯爽としている。
メンデルスゾーンのロマンティックな…例えば第1楽章第2主題のような部分での独特の粘りと夢見るような解釈は自分の好みにぴったりだった。全体に活発な演奏で、翳りなく爽やかだ。
チャイコフスキーは一般的な版(アウアーらの手による改竄版、つまり適度にカットが施され、編成も現代オケにあわせてある)で、演奏されている。結構目立つカットがあるが、それさえ気にしなければとても聴きやすい演奏だ。初めて聴いた頃は他を知らないこともあり、違和感がなかった。

メンデルスゾーンの協奏曲は、当時、中2の鑑賞教材になっていた。授業で聴く1年前にレコードを買って聴いていたことになる。小学生の頃、父や母とレコード屋に立ち寄ると、「ねえねえ、これどんな曲?」などと、主題を鼻歌で歌ってもらった。また曲の印象を細かく訊いたりもした。まあなんというか、迷惑だったろうに、よく嫌がらずに相手をしてくれたなあ、と今更に思う。だからこの曲も低学年の頃から鼻歌で知っていた(笑)
また、中学生ともなれば、ヨーロッパの中での「ユダヤ系」の苦難について、いくつもの本から知識を得ていた。ところが、教科書の解説は何を学ばせようとしているのか不明な内容だった。
「メンデルスゾーンは裕福な銀行家の子息で、音楽も明るく伸びやかで幸福感にあふれている」とか。
まあ、貧乏作曲家よりはずっと安定していたのは確かだが、民族問題を匂わせるのはご法度だったのだろう。
19世紀中くすぶり続け、20世紀に入ってからはユダヤ排斥で演奏禁止・楽譜焚書までおこるわけで、そんなことも含めて教える勇気は、多分教育界にはないのだ。

それより何より、フェラスを知らない方は、ぜひ、この盤をきいてもらいたい。
カラヤンとのDG盤ではなく、このシルヴェストリの誠実なサポートの、この盤を聴いてほしい。

posted by あひる★ぼんび at 21:11| Comment(2) | 音楽

2020年08月29日

思い出のレコードからH〜ペナリオの協奏曲録音

自分の小遣いでレコードを買い始めた当初は、レギュラー価格の盤に手を出すことはなく、廉価盤シリーズからチョイスしていた。
最新録音がないとか、ジャケのデザインが落ちるとか、そんな短所はあったものの、1970年代のいわゆるLP全盛期においては、それまでに結構「名盤定番」評価を得たものだったり、演奏者の知名度と実際レベルのバランスのいいものが多く、入門者には最適だった。
中学生の自分が3,4番目ぐらいに購入したのがこれだった。
pennario-grieg.jpg
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番
グリーグ:ピアノ協奏曲

   レナード・ペナリオ(ピアノ)
   ロスアンジェルス・フィルハーモニー管弦楽団
   エーリヒ・ラインスドルフ(指揮)
(セラフィム LP 国内盤)





ペナリオは1924年ニューヨーク州バファローに生まれ、ロスで育ち、2008年にカリフォルニア州ラホヤで没した生粋のアメリカン・ピアニスト。
ラフマニノフの追悼演奏会で2番を弾いたのは彼であり、作曲家以外による最初の協奏曲全曲録音も彼だった。また、映画「旅愁」で彼の演奏が使われ、世間の認知度を高めたことも特筆だ。
グリーグについては、ダラスの演奏会で急なピアニストのキャンセルで困っていた指揮者ユージン・グーセンスが、たまたま「この曲なら知っているよ!」と言う当時12歳のペナリオの言葉を真に受け、大抜擢。見事に代役を務めあげ、注目を集めたというエピソードがある。実際は「聴いたことはある」程度だったらしいが、短い練習期間での公演成功であり、やはり天才だ。1950年代になると、彼のレコードはギーゼキングと並び常に「売れる」ものだったという。
いかにもアメリカな話だが、そんないわくつきの2曲が聴ける盤である。
2曲とも名曲中の名曲であり定番の名演も多く、これは決して「これでなくては」という演奏ではない。
今、改めて聴いてみると、この演奏自体は民族色が希薄で、テンポも凭れずサラリとしている。
しかしそれがかえって作品の持つ味わいを醸し出しているようだった。ペナリオの、明るい音色がとにかく爽やかだった。彼は自由にポップな感覚でテンポを揺らすのだが、ラインスドルフは常に冷静で崩れない。
潤いのない録音なのだが、それはこの場合マイナスには感じず、重くなることを防いでいるようだった。

ラフマニノフの2番はその3楽章コーダがFENラジオ(いわゆる旧進駐軍放送)の夜のクラシック番組のテーマ曲になっていて、当時、番組パーソナリティを担当していたカーメン・ドラゴン氏の流暢な英語と共に、中学生には充分すぎるほどのインパクトと多彩な楽曲を提供してくれていた。自分の場合、基本的な楽曲の知識の入口はこの番組だったとも言える。
この盤、ラフマニノフもグリーグも特に第2楽章が美しかった。
それこそ、このジャケ写のイメージはぴったりで、夕日に煌めく水面を思わせた。これより以前、父所有の盤で聴いたルービンシュタインの演奏で感じた「悲哀」や「孤独感」はなかった。もっとさっぱりとしている。
その感覚は今聴いても基本的に変わらない。
両曲とも冒頭が強インパクトなので、そこに耳がいってしまいがちだが、派手さのないこの演奏は、全体バランスで聴かせているのがわかる。なんだ、地味じゃないかと言わずに、じっくりと聴き込むにはいい演奏だと思う。実際、この演奏が今の音楽趣味の1つの入口になったほどの、自分にとっては名盤なのだ。

posted by あひる★ぼんび at 14:20| Comment(0) | 音楽

2020年07月11日

プライの誕生日

1929年7月11日、プライはベルリンで生まれた。
父の名はヘルマンプライ、祖父の名もヘルマンプライ。
どうやらプライ家の家督継承者の名は代々へルマンだったようだ。
ビスマルクを信奉する、大きな精肉商社を営む厳格な父と、音楽好きの優しい母。
学齢になるとすぐに全寮制の名門校に入学し、神学やラテン語、そして音楽を学んだ。
やがてドイツは思想も価値感もナチス党に独占され、彼も自動的にヒトラーユーゲントに所属させられた。
しかし父へルマンはアンチヒトラーで、息子に届いた召集令状を握りつぶし暖炉にくべてしまったほどだった。終戦間際だったからまだ良かったが、へたをすれば逮捕厳罰だったろう。

プライは芸術家として芸術のために歌ったのではない。
音楽への限りない愛情の具現。
常に聴き手に喜びや感動を与えられる歌い手を目指した。
聴き手の裾野をひろげようという努力は、テレビや音楽映画出演。リサイタルの構成や編曲による普及の工夫など、それこそ人生の最後までその方針は曲げなかった。
多分、父譲りの頑固さ--

ヴォルフ「あばよ!」
https://www.youtube.com/watch?v=fDsz2pSRtec

posted by あひる★ぼんび at 13:03| Comment(9) | プライ

2020年04月04日

プライ晩年「水車小屋」ギター新編曲の試み

19世紀始め、対ナポレオン戦争後の反動期。文化芸術活動の社会的な制約は凄まじいものがあったようだが、それでも市民階級のエネルギーは充実しはじめていた。フォン・ヴェーバーやシュポア、そしてシューベルトのリートの数々は中流市民階級の「社交場の気楽な音楽」として、ギター伴奏でも楽しまれていた。
ピアノに比べ音量のないギターは歌手側にも負担は小さく、伴奏・歌唱、双方それなりの難易度調整が容易だったのだろう。
そういった多くの編曲は出版されることなく、あるいは正確に記譜すらされずに消費・消滅したようだが、いくつかは現在も聴くことができる。
プライは、「ギター・リート」については、70年代のフィリップスリートエディションではジルヒャーのみとりあげている。
彼は、「ギター・リート」が、ビーダーマイヤ―時代の流行やシューベルト音楽の受容を考えるうえで重要であると捉えていた。
しかし、現代人が音楽ホールのコンサートで聴くのに適しているかは別問題だとわかってもいた。
ピアノの深い表現力に比べ、ギターはあまりに貧弱だった。
音符を音価通りにただ弾いたのでは、ピアノリートの芸術性には届きようもない。
プライはしばらくこのスタイルに手を出さなかった。
80年代になると、シュライアーが名ギタリスト・ラスゴニックと、エレクトローラに「美しき水車小屋の娘」全曲、アルヒーフにフォン・ウェーバー、カプリッチョにロマン派リート集…と、ギター・リートを数多く録音しはじめる。
他の歌手もコンサートでとりあげることがあり、プライは目ぼしいものは聴いていたようだ。

1994年、プライはギタリストベンジャミン・ヴァデリィとニューヨークで邂逅、新しい意欲に目覚めることになる。
それはまさに「シューベルトのリートをビーダーマイアー時代の流行スタイルでステージに上げること」だった。
ギタリスト・ヴァデリィの覚書によると、プライとの最初の出会いの時、とりあえず持って行った3曲「野ばら」「夜曲」「漁夫」を初見で合わせ、最初の2曲をすぐに気に入った様子だった。しかし「漁夫」は「フラメンコ風」に再編曲することを希望したという。
「私はピート・タウンゼント(元ザ・フーのロックギタリスト)と共演している君のステージに感銘をうけたんだ。ぜひああいうスタンスでシューベルトをやってほしい。世の評論家が色々言ってくる?そんなことは君は気にしないでいいよ。」
こうして、95年のニューヨークのシューベルティアーデで共演し、高評価を得ている。

1997年、「美しき水車小屋の娘」のギター版をバートウラッハのステージに上げる計画を立てた。
そのプロジェクトの練習時、一般的に入手できる楽譜で歌い始めたプライは10曲目まで極めて上機嫌だった。
ところが11曲目で急に「×××」←ロックミュージシャンが言いそうなかなり汚い罵りのあと、歌うのをやめたという。
ピアノパートをできるだけ忠実にギターに移植した場合、中央のキイを動かすと、ピアノでは可能でもギターではできないことが多い。厚みを得るためにギターの中低音を多用すると、圧倒的に音域が不足し、上げると軽くなりすぎる。高声よりに書かれたオリジナルゆえの不整合。この曲でそれが顕わになったのだという。
すぐに楽譜を探し、試行錯誤の編曲作業が始まった。
この版はバートウラッハで初演され、大成功だったという。
Ben&Prey.jpg
ヴァデリィの話では、バートウラッハで印象的だったのは、プライはステージに上がる直前に「またあとで会いましょう」と言ったのだそうだ。
これから共演するのに何故?と思ったが、すぐに理解した。
プライはステージに踏み出した瞬間から粉ひき職人になっていて、最後の拍手の後に「やっと戻ってきた」。
そして最後に「何て素晴らしい旅だった」の一言…。
こういったプライの音楽に対するストイックな情熱、ステージでの「憑依」に大きな衝撃を受けたという。

プライは、この版をより磨き歌いこみ、自然なものにすることや、オケ版「冬の旅」のワールドツアー、そしてオケ版「白鳥の歌」の構想を実行に移すことなど、いくつものプランを練っていたという。
しかし、圧倒的に時間が足りなかった。
最後の一連のプロジェクトのひとつだったこの演奏、録音か映像が必ず残されいると思われる。
できることなら、視聴してみたいものだ。

posted by あひる★ぼんび at 22:43| Comment(6) | プライ