2017年07月22日

プライの19回目の命日に

プライが没したのは1998年7月22日。69歳になったばかりだった。
この年、ニューヨークでレヴァインとのリサイタルから帰国後、体調に多少の違和感はあったようだが、フローリアンとのコンサートも持つなど、相変わらず活発にステージを行っていた。
しかし、7月12日ミュンヘン近郊プリンツレーゲンテン劇場でのリサイタルの後、心臓発作で倒れ昏睡状態に陥った。それから10日後、家族や親戚が見守る中、永眠したという事だ。
その死は早かったが、こうして「生涯現役歌手」「いつも家族と共にあること」という大きな2つのポリシーを実現できたわけだ。

晩年の写真を見ると、数々の生活習慣病を抱えていてもおかしくなさそうな雰囲気で、過密スケジュールとそれに伴う無理不摂生がどれだけ健康を削いだかが伺える。
楽天性と深刻のふり幅の大きい彼の思考の中で、音楽や家族についてはストイックになれても、健康状態については「私には危機を乗り越える才能がある」を口実に疎かにしてしまったようだった。

来年は没後20年。西洋では没後○年より生誕○年が重要視されるので今のところ特に情報は入ってこない。
たぶん、再来年の「生誕90年」には何らかのアクションがあると信じている。
ザルツブルク、バートウラッハ、シューベルティアーデ(ヴィーン、ホーエネムス、ニューヨーク)、数々の来日公演記録…年間100回を越えるリサイタル、オペラ公演、メディアへの出演…多数の未発表音源や映像が残されているはずで、それらの公開を心待ちにしている。

さて、プライの経歴の中で、必ず取り上げられながら、本人があまり触れることのない音楽祭事業に「シューベルティアーデ・ホーエネムス」がある。
この音楽祭は、現在でも5〜10月に開催され、しっかり継続している。
その発起人がプライであることは、いまだ音楽祭紹介文にも健在だ。
計画時は「シューベルトの全作品演奏」「出来る限り作曲順に」そんなコンセプトだった。
しかし、実現した音楽祭はプライが想定した方向とは最初から違ってしまい、自身にとっては何かタブーめいた顛末になってしまったようだった。
この大音楽祭の「冠」として彼の名を看板に掲げることに何らかの不都合があったのか、この件はプライが音楽祭を去った後のインタヴューでも、自伝でも触れることがまるでなかったので、詳細は不明だ。

しかし、ホーエネムスを去った直後に始めたバートウラッハの「秋の音楽の日」について語る時、対比めいた発言がある。そこからホーエネムスでひっかかった点は想定できる。
ただそれは極めて事務的な、マネージメント上の課題を匂わせた。
バート・ウラッハでは「音楽を通じて集う親密な友人たちとの楽興の場」「人の声を伴う作品に特化し、毎年テーマを立て、それに基づいた全体プログラム」そして「地元の理解と安定した資金調達をはかる」・・・
つまり、ホーエネムスはそうならなかった、ということだ。
それは、シューベルトに特化した為、起こるべくして起きた問題、つまり、国際的に有名で愛好者の多い作曲家にもかかわらず、特化した定期音楽祭が「世界初」であった事。シューベルトが多彩なジャンルの音楽を多数残していて、世にそれぞれの「スペシャリスト」が溢れている事…。そのスペシャリスト達をまとめ上げるスキルなど当然持ち合わせなかった事。そして、これは大きいと思うのだが、行政の考えと音楽祭運営、出演者との温度差…つまりはそもそも、まだ40代半ばのスター歌手の手におえる仕事ではなかったわけだ。

プライがシューベルティアーデを始めた1976年は彼にとって多忙な年で、なんとか乗り切ったものの、完全に体調を崩し、77年は年始から夏まで休業を余儀なくされる。
夏にはステージに復帰するが、今度はホーエネムスのメイン会場に問題が起こっていて、数年後には余計な仕事が増える予感めいたものが彼を消耗させていたようだ。
1981年には音楽祭の運営からおりてしまい、以後は全くホーエネムスに近づかなかった。
プライは感情の起伏の激しい人ゆえ、有力者の逆鱗にふれたか、本当に何があったのかわからないが…状況からして「外してもらった」が正解なのだろうとは思う。
最初のステージは76年5月8日ホカンソンのピアノ、パーレイの講演を含んだレクチャーコンサート。最後は81年6月18日パーソンズと「美しき水車小屋の娘」
出演回数は76年5回、77年7回、78年6回、79年2回、80年1回、81年1回。
「この音楽祭の創立者ですよ」というにはあまりにも寂しいフェイドアウトだった。

なにやら「大人の事情」を感じる状況もあってか、この音楽祭でのプライ出演部分のリリースは少ない。
メジャーレーベルで公式にリリースされたのは1977年「重唱曲集」、
1978年ホカンソンとの「白鳥の歌」(通常の14曲だけ編集してリリースされたが、実際はザイドル4曲と秋も入れ、曲順をいじったプライ版だった)、
オペラ「サラマンカの友人たち」復元蘇演版のみだった。

そんな中、プライの様子が垣間見られる盤はこれ。
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シューベルティアーデ音楽祭
ホーエネムス1977年〜86年の記録


プライ他、演奏者多数

(AT LP5枚組 オーストリア輸入盤)




これは「地域限定販売品」で、当然流通は希少。
内容は1977年から1986年までのシューベルティアーデのまとめハイライト盤になっている。
出演者の多い巨大音楽祭のであるから、5枚のLPのうち、プライは1枚目A面に5曲(星、漁夫の生活、魔王、さすらい、酒の歌)2枚目A面に3曲(別れ、喜びと黄金のワイン、光と愛)のみ。
寂しい限りだが、最初の10年で区切ってもプライのステージは数えるほどだったし、この音楽祭にはあまたの著名音楽家が集ったのだから、仕方ないだろう。
セット内にはクリスタ・ルートヴィヒ、エディト・マティス、ロベルト・ホル、エッダ・モーザー、ヴァルター・ベリー、アーリン・オジェー、ヴェルナー・ホルヴェークなど、この年代のリートのスペシャリスト達の名が連なっている。
特にホルはプライの分大活躍といった感じだった。また、女声ではマティスの比率が高い。
実際、これらのコンサートライヴは貴重であり、編集の手が入っていない生々しさと温度感が素晴らしい。

発売レーベルAustriaTabakは、この当時はオーストリアでの煙草独占企業だった。
歴史ある老舗ではあったが、1990年代以降は民営化されたり買収を受け、現在はなんとJTI(Japan Tabacco international)の系列会社となっている。
この会社のロゴはホーエネムス音楽祭初期から見られる。愛煙家プライらしいスポンサーだと思う。
それにしてもシューベルトの肖像に社名入りタバコ入れを持たせてしまう大胆さには驚く。嫌煙家が増えた今だったらクレームがつきそうだ^^;

ホーエネムスでの公式録音は基本的にDGが担ったようだが、音源自体はオーストリアが国として管理していることだろう。できれば、音源の劣化前にどうにか一般発売して欲しいところだ。
プライをはじめ、この音楽祭の初期メンバーが次々と逝去している現在、この宝を無にしてはいけないと、つくづく思う。
posted by あひる★ぼんび at 23:26| Comment(2) | プライ

2017年07月15日

高学年例会・・・再び霊界?!

今回の高学年例会は千葉有卯助さんによるひとり語り「怪談真景累ヶ淵」。
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作品は三遊亭圓朝原作の因縁噺で、安政6年に書かれた全97章の大作。その中から事の発端と、子孫に続く因縁エピソード計4編を語ってくれた。
三遊亭圓朝の怪談噺では「牡丹燈籠」や「四谷怪談」が知られているが、これらはどれも単なる怨念ではなく「因縁」と「情念」が強く描き出されている。この日本の伝統的ホラーの形態は世界的にインパクトを与えていると聞く。
有卯助さんの若々しい「語り」は、ベテラン落語家の噺とは趣が異なり、幾分、現代に寄せたのかスプラッター要素が強調されていたようだが、まあ、それとて意味のない西洋グロとは全く違う。
高齢の方も大人も子どももその話術に引き込まれた。
ただ、SEを兼ねた音楽はもっと薄いか、なくてもいいと思った。
静寂は闇と同じく、最大の演出である・・・と思うのだが。
出入り口はこんなふう。
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終演後はいつものようにみんなで感想を書く。
少し言葉が難しかったと思うが、伝わっていたようだ。
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埼玉はカラ梅雨。あまりジメジメしていない怪談を楽しめた夏の初めだ。

さて、物語に出てきた「小塚原」は歴史上関東最大の刑場で、明治に廃止されるまで、処刑のほか刀の試し切りや腑分けも行われた場所だった。総計20万人以上がここで処刑されたという。
現在の南千住駅の近くだが、自分が幼い頃、浅草の生家に行くルートのひとつで、近くをよく歩いた。
もちろん、現代では何もないわけだし、誰からも土地の歴史については聞かされていなかったが、ここを通るのがイヤだった。鼻の奥で嗅覚とは少し違うバランスで感じる奇妙な臭気と悪寒で、なぜか不機嫌になった。
人は死しても想念が残るとすれば、この土地のみならず東京下町はすごい場所、ということになる。
感じるか感じないかは人それぞれなのだろうけれど・・・。
posted by あひる★ぼんび at 23:33| Comment(0) | 劇場

2017年07月01日

2017年のこどもまつり

仕事の合間に「こてさしこどもまつり」を覗いてきた。
子ども数が年々減り、しかも今日は雨天、道路は渋滞。
なにやら嫌な条件がそろってしまった。
実際、集まりは良くはなかったが、係の子ども達がほどよいゆるさで関われるぐらいの数で、結果的にはこれはこれで良かったのかもしれない。

射的。露店のような頑張っても届かないストレス設定はない^^
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ダンボール迷路。
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毎年人気の「おばけやしき」
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ぜーんぜん恐くない!と言いながら(って当たり前だ)きゃあきゃあ楽しそう。
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工作コーナー。ひたすら木っ端をトントントン♪
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2階にもコーナーがあって、異世代交流が繰り広げられていた♪
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エンディングはくすのき燕さんの腹話術。
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バスの時間の関係で最初だけしか見られなかった。

継続は力。本当にそう思う。「こども劇場」もこういった行事の実行委員さん達もそう信じて続けている。
かつて前政権の事業仕訳で「こども夢基金」は「廃止相当国庫返納」に仕訳けされてしまったが、ずるずる実行されないことが幸か不幸か、今でも廃止されずに続いている。
対価のある成果が見えないのがこういった子どもの文化。
合理主義とあいいれないのも子どもの文化。
でもそこに傾けるエネルギーは未来への投資、子どもたちの笑顔は最高の報酬でもある。
最近、仕事の多忙と体調不良でまるで関われなくなってしまったけれど、僕ももう少し頑張りたい。

posted by あひる★ぼんび at 22:59| Comment(0) | 劇場

2017年06月26日

プライのヴォルフ・アイヒェンドルフ

山歩きが好きで、ドイツの深い森を愛好したプライは、その風景をふんだんによみ込んだアイヒェンドルフの文学に愛着を持っていた。
その詩が「リート」になる時、より強靭な生命を得たと感じたことだろう。
歌謡性と幻想のバランスの良いシューマンの諸作品と、ドイツ語の響きやその心理の奥を読むような、リートの醍醐味を感じさせるヴォルフの諸作品は特に好きだったようだ。
彼のリート録音の初期のグループの中心にそれらがあったのも納得できる。
プライは1952年にリートリサイタルを開始している。レパートリーは彼の感性にマッチしたシューベルト、そしてレーヴェとシューマンの有名曲。
そこにヴォルフを加えるべく勉強を続けていた。プライとして自然に歌うことのできたシューベルトに比べると、ヴォルフの少々屈折した世界は細かい分析と綿密な練習が必要だったのだろう。

彼はまず、アイヒェンドルフとイタリア、スペインから手を付けている。
このリート・デヴューから60年代初めのプライの歌唱は、幾分声に頼って情緒に流れる傾向があった。
その特徴は、口うるさい評論家の批判のターゲットにされがちではあったが、それは常に「歌を聴く喜び」を与えてくれるものだった。
美声であるからこそ、湧きだす感情や淡いメロディに込めたロマンの香りを感じ取ることができる。
後に声に落ち着きを加えてからは、旋律より言葉の比重が高く演劇的なメーリケへの付曲を多く歌うようになっている。
いずれもプライの甘く若々しく、なおかつ深い声が、かくもヴォルフを深刻さと難解さから掬い上げているのが、作曲家と演奏家の時を隔てた幸福な邂逅と言えるだろう。

ヴォルフはシューマン以上に集中的(偏執的?)な作曲方法をとるのが常だったが、「アイヒェンドルフの詩によるリート集」は作曲時期に比較的幅がある。最初期は1880年、連作集を計画するも頓挫、1886〜88年に再び取り組むが、連作扱いにはしなかった。各曲に気分の共通性はあるものの、有機的に綿密に動機を結び付けたり、調性を綿密に配置して全曲に統一感を持たせる配慮はない。したがって「美しき水車小屋の娘」や「詩人の恋」のように、全曲を通して歌われることが絶対条件ではなく、リサイタルやアルバムでは数曲が抜き出され、自由に配置されることが多い。

プライ1回目の「アイヒェンドルフの詩によるリート集」
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ヴォルフ:アイヒェンドルフの詩によるリート(18曲)

ヘルマン・プライ(バリトン)
ギュンター・ヴァイセンボルン(ピアノ)

(COLUMBIA 10in.LP ドイツ輸入盤)




収録しているのは、一般的に知られる全20曲から女声用2曲を省いた18曲。
リリースは10インチ(25p)モノラル盤だった。
ジャケット上に録音データがなく、いつ録音されたものか正確には掴めないが、後の資料等から1957年〜58年、ベルガーの歌唱と組み合わせた「イタリア歌曲集」と同じ頃のものと思われる。
50年代は、こういうふうに1人の歌手が1人の作曲家の作品をコンプリート的に録音するというアルバムがやっと登場し始めた時期だった。
ドイツ敗戦で頓挫したドイツリートプロジェクト以来、33と1/3回転12インチ、10インチ盤が普及して実現しやすくなったのだ。
また、天才歌手ディースカウの登場と、すでにピークを過ぎてしまった大御所ラウハイゼンに代わり、幅広いレパートリーを持つムーアや、若手のヴァイセンボルンらが活躍を始めた時期でもあった。
この盤は「イタリア歌曲集」同様、再発売の機会に恵まれなかったようで、他種はまるで見かけない。
まとまった形では埋もれたままで、CD化もされていないのが惜しまれる。

東芝が60年代終わりにリリースした巨大プロジェクト「ドイツ歌曲大全集」のヴォルフの巻の中で、20曲中前半10曲をプライのこの1回目の録音で収録している。「郷愁」以降後半10曲はディースカウの録音を使用している。すでにヴォルフについてもスペシャリストの域だったディースカウを差し置いてプライに占有させるわけにはいかなかったのだろう。
もちろん、ディースカウは非の打ち所のない立派な歌唱なのだが、こうして並べると、解釈と落ち着きではディースカウ、しかし、声の幅や勢いの点ではプライが勝る。
そして全く異なる色彩の風景が広がっているのを感じる。それを実感したセットだった。
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ドイツ歌曲大全集第9巻〜ヴォルフ第2集
〜メーリケとアイヒェンドルフの詩によるリート

エリーザベト・シュヴァルツコプフ(ソプラノ)
ヴィクトリア・デ・ロスアンヘレス(ソプラノ)
ヘルマン・プライ(バリトン)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
ハンス・ホッター(バスバリトン)
(東芝EMI LP4枚組 国内盤)


このBOX以外では、各種のオムニバスやコンピレーションに1〜4曲、バラバラに収録され必ず顔を出す録音だった。そんな「穴埋め素材」のような扱いはCD時代に入っても変わらない。
当時のプライの艶やかな声と率直な感情表現、ヴァイセンボルンの鮮やかなタッチが高評価を受け、愛聴する人も多かったようだ。そんなふうに、演奏の存在価値は誰からも明白だが、この扱いは何か軽く見られているようで、はなはだ残念だ。


同リート集2回目の録音は1968年と70年。ピアノはコンラート・リヒターだった。
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ヴォルフ:アイヒェンドルフの詩によるリート(20曲)

ヘルマン・プライ(バリトン)
コンラート・リヒター(ピアノ)

(EMI LP 国内盤)





こちらは前回同様女声用2曲を省き、そこに遺作2曲を加えている。
解釈としては基本的な変更はないようだ。美声はそのまま、リズムが流れてしまうことがなくなり、多くの聴き手が期待するプライの姿が明確になっている。
1960年代後半から共演回数が多かったリヒターだが、このコンビでの録音物はそれほど多くなく、リサイタルライヴ盤と名曲集などが短い期間にDECCAに数点残されただけだった。
プライは常に「共に歌うピアニスト」を求めたが、その意味でもリヒターとは相性が良かったようだ。
この盤は「忘れがたき名演奏」として取り上げる評論家も多い。
1971年、2度目の来日記念盤としての「最新録音」のリリースだった。
この日本盤LPのライナーでは「ドイツ歌曲大全集」に収録した旧録音との比較が述べられているが、この新盤を圧倒的に褒めているわりに、あちこちのオムニバス盤で耳にできるヴォルフ録音はこのリヒターとのものではなく、1回目のものが多かった。
充実度ではこの録音のほうが上かもしれないが、若々しい瞬発力と鮮やかさの点からそうなったのだろう。
しかもこの盤がCD化されたのは追悼盤としてが初めてであり、その後の再発もない。
ヴォルフは、日本人にはやはり高いハードルなのかもしれない。

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ヴォルフ:アイヒェンドルフの詩によるリート(20曲)

ヘルマン・プライ(バリトン)
コンラート・リヒター(ピアノ)

(EMI 国内盤)




音の印象がLPとCDではかなり異なるが、そこは一長一短…マスターは今後劣化していくだろうから、まあこのタイミングでCD化されたのは大きな意味があったと思う。

その後、フィリップスのエディションでも数曲取り上げているが、まとまったものはリヒターとの盤を最後に、晩年になってもついに録音しなかった。
プライは「リートもオペラの各役も、歌うにふさわしい年齢があるものだよ」と言っていたことがある。
プライ自身「ヴォルフのこれらのリート集には若者の声がふさわしい」と考えていたフシがあり、そのため一定年齢を越えてからは歌うことを避けたようだった。
全曲網羅主義でなかったプライらしいと思う。

posted by あひる★ぼんび at 23:23| Comment(12) | プライ

2017年06月24日

キャンプ実行委員会進行中

今年もキャンプ実行委員会が発足。
対象者の減少とレギュラーメンバーの多忙、時代自体の大変化で年々実行が困難になる中、それでもやりたい気持ちを持ち寄って、こうして続けている。貴重な行事のひとつだと思う。

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かつての100人規模、50人規模と現在の20人前後(ひと班規模)のキャンプが同じ方法で運営できるわけではない。
でも、やりたいと思う内容そのものは変わらないのだから、それが難しいのだ。
その難しさをどうクリアするかを話し合う場にもなりそうだ。
筏遊びはとっくに出来なくなり、打ち上げ花火禁止が一般的になり、直火の炊事が出来る場も減った。
キャンプファイヤーも難しくなりつつある。
昔キャンプで魅力だった部分が規制で蝕まれていく。
行う側の良識と良心に基づいて実行されていた内容は、現在は通用しなくなっている。
続けてきたキャンプは「仲間と共に自然に親しむ」ものだが、親しむといっても「自然」つまり「環境」にとっては必ずしも優しくはないのは事実。それでも、そういう自然へのごめんなさいを通して、その大切さや愛しさを学ぶ。そして、多世代で行動することで「生きること」を学ぶ。

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僕は今年のキャンプについては、説明会もディキャンプも当日も参加できない。
とても残念だ。

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まもなく、いわゆる「共謀罪」に関する法律が施行される。
反対派の不安は拡大解釈で、すべて杞憂であると言い切る政権だが、果たしてそうだろうか。
世の中はどう動くのだろう。
posted by あひる★ぼんび at 23:56| Comment(0) | 劇場

2017年06月17日

プライ最初のミュージカルナンバー集

多くのドイツ人にとって、オペレッタやジングシュピールは身近な娯楽だった。
19世紀から綿々と続き、戦中戦後も咲き続けたこの「芸術の花」。
そのオペレッタやジングシュピールがアメリカの自由な空気の中で進化したのがミュージカル。
ドイツ国内でそれらは、決して卑下されるものではなかったのだが、一部の面倒な権威ある人達が音楽の中にまで「ドイツ民族の威厳」を持ち込んだ時、標的にされてしまったのだ。
わかりやすさが仇になった。
これらオペレッタ・ミュージカルを含み、ポップス中心にした「庶民の娯楽音楽」U-musik、交響楽やソナタなどを「純粋な芸術音楽」E-musik。二つの音楽は全く違い、区別されるべきという考え方だ。
(例えば、ヒトラーはレハールを愛好していたが公言はせず、ヴァグナーこそを最高の音楽とした。本人はヴァグナーを理解することも、プライベートに聴くこともなかったという)
この民族主義(というより人種主義)起因の暗黙の身分のような住み分けは、長く尾をひくことになる。
しかし、ドイツで実際に広く親しまれているのも、音楽文化を支えているのも結局は「庶民の娯楽」だったわけで、現代ではそんな住み分けはほとんど希薄化したように思う。
むしろ日本。日本の評論家・演奏家・教育者・愛好者が西洋クラシック受容の過程で、一部のドイツ音楽の神格化に同調した為、その思想ポーズが残ってしまったわけだ。

プライはそんな難しい時代の中で、E-U両面で活躍した歌手だった。(そのことはここで何度も記事にしてきた)
プライは戦後しばらくの間、友人たちとバンドを組み、ソ連軍・米軍のキャンプや酒場でピアノやアコーディオンを弾き、ポップスを歌って生業としていた。既に声の素晴らしさは認められていて、音楽の道に進むことも決めていた。しかし、具体的な道として彼はクラシックを選んだ。
まさにその住み分け故、ポピュラー音楽と決別の必要が出てしまったのだ。プライは悲壮な決意でバンド活動に終止符を打たねばならなかった。
COLUMBIAは英国に母体があったこともあり、オペラとリート両面で新進注目株のプライに白羽の矢を立てたようだ。
流行が過ぎれば消えてしまうポップスターと違い、クラシック歌手では長期セールスが見込めるわけで、ポップス系も歌いたかったプライにとっても、双方悪い話ではなかっただろう。

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Hermann Prey Singt Musicals
「回転木馬」
「マイ・フェア・レディ」
「キス・ミー・ケイト」
「アニーよ銃をとれ」

ヘルマン・プライ(ヴォーカル)
カール・ミハルスキ指揮グラウンケ交響楽団
(COLUMBIA 7in.EP ドイツ輸入盤)



4曲収録の7インチ盤。プライにとっては、これがこのジャンルでの最初期の公式録音となった。
当時のドイツの常識では外国曲はドイツ語訳詩で歌うものだが、ここでは4曲とも英語で歌っている。
これらのミュージカルや映画は当時、世界的にヒットし、ドイツでも話題の作品だった。
彼自身がこれらミュージカルの舞台に立ったわけではないが、その堂々とした声量と美声はポップシンガー以上にミュージカルにぴったりで、盤の売り上げはなかなかに好調だったようだ。
結果的に、追加プレスや規格品番、レーベルを移行して長く現役を保った録音だった。

マルカートレーベルの移行再発盤はこんなパッケージ。
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Hermann Prey Sings Musicals
<初出盤に同じ>
(MARCATO 7in.EP ドイツ輸入盤)





再発盤のタイトルは英語に変わっている。
戦前、英米のレーベルがイタリアオペラの歌手にポップススタンダードを歌わせる企画がはやったが、この盤のヒットはドイツの音楽界に多少の影響をもたらしていたようだ。再びそういうクロスオーヴァー企画が登場するきざしが出ていた。何匹ものドジョウを狙って、(あろうことか)当然同レーベルの専属歌手だったディースカウにも話がいったようだが、彼は「ああいうものを歌うスキルは持ち合わせていない」として一蹴し、生涯このジャンルに寄りつかなかった。

こちらはオペレッタのナンバーと組み合わせたオムニバス。
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Beliebte Melodien aus Operetten und Musicals
ヘルマン・プライ、ハインツ・ホッペ
アネリーゼ・ローテンベルガー、エリカ・ケート
フランツ・アラース、カール・ミハルスキ
ヴェルナー・シュミット=ベルケ
(HORZU LP ドイツ輸入盤)





なんだか妙な雰囲気のジャケットだが^^;こういうオムニバスは何種類か出ている。
この60年代はじめにプライは、指揮者ミハルスキと7インチ(いわゆるシングル盤)10インチ(いわゆるミニアルバム盤)用の名歌集を多数録音していた。それらにオペレッタ全曲盤や抜粋盤から有名曲をひっぱってアルバムに仕上げたものだ。
不思議なのは日本のクラシックファンの反応で、プライ贔屓の人には概ね好評ながら、そうでない人からは「資源の無駄」的な低評価、あるいは「無視」されている種類の録音。評論家たちの「メーカーの要請で片手間に取り組んだであろう…」はそんな時の常套句。
本人に尋ねたのかな?日本人の閉鎖性はドイツ人以上なのかもしれない。

プライは、60年代のインタヴューでは「世界中にはたくさんの美しい歌が溢れています。私が歌えるものなら、この声を通して、素晴らしさや楽しさを皆様と分かち合いたいと思っています」と述べている…しかし、80年代半ばには「私はあちら (ミュージカルやポップス) の世界は諦めました」と語り、また晩年95年のインタヴューでは「今は以前にくらべてかなりステージに立つ回数を抑え、その中でよりよいものを目指すよう心がけています」と変化していた。
実際、この間に「マイ・フェア・レディ」などのミュージカル出演の企画オファーもあったようだが、結局実現することはなかった。残念ではあるが、まさにそれはレパートリーの精査の結果だったのだと思う。
それでも心持ちは変わらなかったのだろう。
「歌うことは神様が与えてくださった私の使命なのです。私は神様がお望みになる限り…もういいよと言われるまでは歌い続けます。」
いつも彼は真剣真摯に「うたびと」であろうとした。どんな歌を歌っても彼の声が心に響くのはまさに「だからこそ」なのだ。
posted by あひる★ぼんび at 19:26| Comment(4) | プライ

2017年06月10日

ディースカウのDGシューベルト全集

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ。
彼が戦後のドイツ声楽界最大の巨星であったことは誰もが認めるところ。
その大きさを世に示し、実感させた仕事のひとつが「シューベルト歌曲大全集」だった。
ディースカウにはこの全集以前から「網羅主義」ともいえる方針は見えていて、エレクトローラ=EMIにもかなりの録音をしている。彼が特に身構えることなく次々に繰り出す「音の大論文」に、音楽界は驚愕した。そのジャンルが「リート」という特殊なものだった故、世界中の人が話題にするようなことにはならなかったが、彼が生涯に残した膨大な録音と著作は現在も将来も、このジャンルの指針として高い価値を持ち続けることだろう。
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シューベルト:歌曲大全集

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
ジェラルド・ムーア(ピアノ)

(DG 22枚組 国内盤)



さて、このシューベルトだが、アルバムの題名は“Schubert LIEDER”だけ。
シューベルトが書いた膨大なリートのうち、不自然なく男声独唱で歌え、楽曲として完成されたものをほぼ全て収録したわけだが、未完成作品や草稿、異版は省いている。
シューベルトは「最初は書き散らかし、その後に幾度も改訂する」傾向があったので、これは賢明な判断だったろう。その上さらに、ディースカウ自身の基準で「芸術的な価値が低い」と判断したものは切り捨てている。この辺がアンチが嫌悪する部分なのだが、そのことを黙っていればいいものを、彼は必ず著作で詳細に記しているのだ。正直なのか、自分の価値基準に絶対的な自信があるからなのかわからないが、実際の彼の人柄とは関係なく、そういう時の饒舌で強い論調はあまり褒められたものではない。

dfd-sliederLP.jpgシューベルト:歌曲大全集
第1巻「後期の作品」
第2巻「初期・中期の作品」
第3巻「3大歌曲集」

ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
ジェラルド・ムーア(ピアノ)
(グラモフォン LP 12+13+4枚組 国内盤)



この全集の日本発売盤LPのライナーノーツに寄稿している著名な評論家や演奏家たちは、この偉業を手放しに賛美することはしていない。慎重というか、判断を回避している。そこではこれまでのディースカウの歌唱スタイルを分析したり、レコーディングの記録映像から見て取れるディースカウの取り組み姿勢について感想を述べることに終始しているのだ。この全集が巨大すぎて、発売前のテスト盤視聴で書けることは何もなかったのだろう。1枚ものなら聴かずにただの経験談を書いてもつっこまれないし、既発売盤が少しでもあるなら、そこだけ書けば誤魔化せる。しかし29枚すべて新録音では何を書いても矛盾が起こると感じたのだろう。
そんな、載せなくてもいい文であっても、スペースを字で埋めるのが、日本のレコードライナーの悪しき習慣なのだ。評論家諸氏も気の毒だ。そんなことも考えてしまった。
畑中氏はここに「あまりにもつきつめられ、ひとつひとつの音符への強烈な問いかけが用意されている為、時に息苦しくなる時もあったのは否めない。そんな時、僕はヘルマンプライの少し間の抜けたようなリートを楽しんだものだった・・・」そう書いているが、こんなふうに多くの評論家や演奏家がディースカウを褒めつつも、微妙な違和感を持っているのが垣間見えて面白い。
ディースカウは「多くの聴衆が求めるもの」を排してまでも、シューベルト演奏の基本指針となるような全集を作ろうとした。本人は「そうだ」と言明するはずもないが、作曲年月日順にほぼ全てを収録した編集方針に加え、著作「シューベルトの歌曲をたどって」を読むとそう確信できる。
これはシューベルトに、リートというジャンルに、音楽そのものに対する、彼の強い姿勢のあらわれだった。自分の音楽、解釈への絶対的自信の強固さ。この記事の最初を繰り返すようだが、その自信が曖昧でないことがこの全集の価値を高めているといえるだろう。

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個人的な思い出をひとつ。
僕がこの全集を手にしたのは中3だった。高校合格祝いとして第1巻のLPを買ってもらった。その日から1日1枚、必ず聴いて、ローテーションで繰り返した。
その時の歌唱の印象としては、全体的にテンポが速めで、発音が強く、それが多少荒いのかな?と思った。当時は数曲を除いては初めて聴く曲ばかりだったのであくまで感覚なのだが・・・40年以上たった今でも基本的な印象は変わらない。
第2巻は高2になってから中古で買い、第3巻はエアチェックをテープに録って聴いた。
CD化されてからは当然、すぐに入手した。その時、LPは手放してしまったが、音の微妙な陰影がLPのほうが優れているように感じていて、結局、最近買いなおした^^;
これは自分にはリートを聴く「指針」であり、重要な「参考書」。
好きなのはあくまでプライ。聴いて楽しいのもプライ。
しかし、勉強好きな人だって、勉強のすべてが楽しいわけじゃない。必要と考えるから忍耐強く取り込むのだ。
自分はこの全集を通じてドイツ文学とヨーロッパ文化に興味を持った。
直接的な音楽の力とは違う方向への入口。
今ではディースカウの歌うリートはそんな存在のような気がしている。

posted by あひる★ぼんび at 23:02| Comment(4) | 音楽

2017年06月05日

ヴェヒター父子の共演

エバーハルト・ヴェヒターはオーストリアのバリトン。プライと同じ1929年7月生まれで、1992年に没している。その死のタイミングが歌劇場の要職が決まりそうな時期だったこともあり、不穏なうわさも流れた記憶がある。
ヴェヒターはプライとほぼ同じ声域の役を歌っていた。幾分バス寄りの厚い響きの声を持ち、リートも歌ったが、それよりもモーツアルトからRシュトラウス、ヴァグナー、幾つかのイタリアオペラまで歌っている。また、オペレッタや軽い作品も得意にしていた。
そういう意味では、ディースカウよりよほどプライの比較対象とされそうなのだが、なぜか話題に上ることがなかった。ヴィーンに生まれ、そこを中心に活動したので情報が拡散しずらくローカルな位置付けにされていたのだろう。その辺はクンツと同様の傾向だった。
プライなどの多くのスター歌手たちは、故郷がどこなのか分からなくなるほど世界中を旅し、世界的な評価と引き換えに、強烈な漂泊感・孤独感を持ち続けるものだ。しかし彼の場合はヴィーンに根をおろし、そこに歌手人生を花咲かせることができた。幸福な花の一輪だったといえそうだ。

こんなアルバムがあった。
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ヴェヒター(エバーハルトとフランツ)
 ヴィーン歌謡集〜良く知られた歌とデュエット

エバーハルト・ヴェヒター(バリトン)
フランツ・ヴェヒター(バリトン)
(ARIOLA LP オーストリア輸入盤)




これは1984年に、エバーハルトが息子フランツと作った親子共演アルバムだ。
フランツ・ヴェヒターは1955年生まれ、父よりテノーラルな明るく軽い響きのバリトン歌手。
(この辺も、プライ父子の関係に類似している。彼らの場合は単独の共演盤を残さなかったのが残念)
フランツもまた、オペレッタの舞台を中心に活動しているようだが、日本までは全く活動状況が聞こえて来ない。明るさと暖かさが心地よい声なので、リートを歌ってもさぞ似合うと思う。

さて、ここに集められたものはすべてヴィーン歌謡。伴奏は「シュランメルン」編成のアンサンブルで、AB面とも真ん中の一曲に朗読を入れ、独特の雰囲気を出している。
エバーハルトの歌い方は…このジャンルらしい酔いどれ気分とダミ声ぎみの発声を駆使(笑)している。
普通に歌ってくれればいいのに、と思うのは聴いている自分が外国の人間だからだろう。
これは一種の民族的コブシであり、スタイルなのだ。
標準ドイツ語ではなくヴィーン訛りそのままの方言歌詞を、曲の輪郭が崩れそうになるほど過剰に表情をつけて歌う。
あれ、ヴェヒターってこんなに「性格バリトン」な声だったっけ?と耳を疑う事しばしばだった。
フランツの声がやけに爽やかなせいもあるかもしれない。
ハンサム好青年と酔いどれ親父。なかなかのものだ。
録音に際しては、おそらく綿密な練習や解釈の摺合せはなかったかもしれない。
編曲自体、かなりラフに聴こえる。ここをギシギシ締めてしまうとしまうと「ドイツ人の音楽」になってしまうわけで、彼等がおそらくは拘ったであろう正真正銘のヴィーンっ子のスタイルを「ゆるさ」の中に貫いているようだった。
このアルバムはCD時代の幕開けのリリースだが、LPとテープ発売のみでCD化はされていなかったと思う。
没してしばらくすると、淘汰がおこり、一定の評価に即したもの以外は「なかったもの」となる。
この偉大な歌手の素顔、実際に生きた証しを感じられるちょっと粋な暖かなこういったアルバムが埋もれてしまうのは残念なことだと思う。


posted by あひる★ぼんび at 22:50| Comment(4) | 音楽

2017年05月28日

高学年合宿2017まとめ報告会

午前中、「今ごろになって」報告会。
本当は参加者以外のその世代の子達と親が集まってくれると嬉しいのだけれど・・・
つつましい規模ながら、手順はやはり大切だ。それでこそ次の一歩がある。

文集もできた。表紙裏表紙はこんなふう。
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まずはゲーム。ふつうに「なんでもバスケット」
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実長のあいさつと記録DVDの鑑賞。
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一発芸大会がほぼ全長収録!現場に参加していない自分には貴重なものだった♪

そのあとテーブル卓球トーナメントふたたび。
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みんなうまいもんだ!!
文集を読んで、また今日のみんなの顔を見て、今年の合宿も大成功だった、と思った。

次は夏のキャンプ。
行ける子行けない子様々だけれど、楽しく実行できるといいと願う。
多分、僕は今年も後方支援。再び参加できるのはいつの日かなぁ。

posted by あひる★ぼんび at 23:51| Comment(0) | 劇場

2017年05月21日

文集作りと高学年例会

5月20日(土)
「にがりの会」の時間を使って、合宿の文集作り。
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来週日曜の報告会で配布する予定なので急がなければならないのだが・・・
なんだか原稿があるはずのところに見当たらない・・・ということで、「来週配布」は微妙なことに。
焦ることもない、地球がとまるわけじゃないし。というわけで、その分のんびり写真の編集。
実長、副実長、いつもお疲れ様です♪

5月21日(日)
入間産業文化センターで、高学年の例会。
作品はデフパペットシアター・ひとみによる「森と夜と世界の果てへの旅」
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1950年代にアフリカ・ナイジェリアの作家チュツオーラによって書かれた「ヤシ酒のみ」が原作とのこと。
「アフリカ」というと日本人にとっては未開イメージで、明らかに「アフリカン・ステレオタイプ」が出来上がっている。
しかし大戦後は特に、列強の植民地支配から脱却して急激にグローバル化し、実際はすでに当事者たちの生活からもそれらの伝統や風景は遠くなっていったようだ。
この物語が作られた1950年代はまさにそんな時代なのだが、作者はあえてアフリカ文化へのノスタルジーをふんだんに含め、今回の人形劇化もそのスタイルに準じているようだった。
なにしろ10歳からヤシ酒に飲んだくれる「酒飲み坊ちゃん」が主人公、長じてから、亡くなったヤシ酒作りの名人に会いに死者の国を冒険、そこで嫁まで得たりする物語。
かなりぶっとんでるが、アフリカ民話のスタイルゆえに自然と許されてしまうようだった。
そこにで描かれる物語にある宗教観のようなものは、唯一神の西欧よりも八百万神信仰の日本人には理解しやすいはずのものだ。物語展開も日本の「むかし話」から遠くない。エピソードの展開が刺激的なので少々攪乱されるだけで、ラストの「なんでも願いを叶えてくれるたまご」も浦島太郎の玉手箱と何ら変わりはない。
物語が含む不整合や不条理はあまりつっこまずに流して観たほうがいいと思った。
「嫌悪」も「感動」も関係ない所で視覚的に強いインパクトを与えてくる舞台。
ろう者の感覚の中で造られた演出、といわれても、にわかにピンとはこなかったが、
人形のつくりの見事さと、生演奏の音楽のエネルギーは素晴らしかった。
緊張感をもたせすぎず、適度にラフなのも作品の雰囲気に合っているように思え、好感が持てた。
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ロビーでは劇に出てくる死神ファミリーのアクセサリーなどが売られていた。
いや、これはちょっとあせあせ(飛び散る汗)
posted by あひる★ぼんび at 23:34| Comment(0) | 劇場